記憶市場《メモリー・バザール》
Y.K
第1話記憶の値段
目を覚ましたとき、アスハは天井を見つめていた。鉄骨むき出しのコンクリート天井には、前の居住者が貼ったと思しき剥がれかけのステッカーが一枚。小さな宇宙船と「No Past, No Problem.」の文字。
「…皮肉なもんだな」
ナギ•アスハはぼそりと呟く。過去を失った青年が、過去のない世界で暮らしている。
ベッドの隣には、小型の
「おはようございます、アスハ。今日の予定はありません。昨日取得した記憶フラグメント“ユウコ:手を繋いだ記憶(残存率31%)”は処理待ちです。」
アスハは深くため息を吐いた。
――ユウコ。
名前も面影も、どこかの“記憶”の中にあっただけ。実在したかどうかさえ怪しい。感情の輪郭だけが、指の先に残っているような気がした。
⸻
この国では、記憶は通貨だった。
人々は“価値のある記憶”を切り売りし、不要な記憶を捨てることで生き延びている。
公式には「記憶交換市場」、
髪をとかし、安物のコートを羽織って外に出る。
酸性雨のせいで街路の石畳は滑りやすく、頭上には色褪せたホログラム広告がノイズ混じりに漂っていた。
《新着:恋人との初キス(再現性74%)》
《一週間の親密な夫婦生活(感情レイヤー強)》
《戦場で仲間を看取った記憶(心的インパクト高)》
アスハはそれらを見上げるたびに、胸の奥がざらりとする感覚を覚える。
「おい、そこの兄ちゃん。新しい記憶が入ったぞ。女の笑い声がついてくるやつだ、今朝アップされたばかりだ」
声をかけてきたのは記憶仲介業者の男、《タモン》だった。ジャケットの襟を立て、目元には違法な感情増幅レンズをはめている。
アスハは首を振る。「今日の分はもう決まってる」
「へぇ、あんたが“選ぶ”なんて珍しいな」
「今日は、違う目的だ」
タモンは興味なさそうに肩をすくめた。「そうかい。じゃあ気をつけな」
⸻
アスハが向かったのは、バザールでも古株の記憶修復士、《クレナ》の元だった。
クレナは、見た目はまだ20代前半に見える女性だが、実年齢は不詳。
彼女は買い集められた記憶の断片を“縫合”することに長けており、情報層を再構築する技術を持つ数少ない修復士だった。
「アスハ、あんたまた来たの? あんたの脳、もうパッチだらけよ?」
「構わない。今回は、この記憶を確かめたい」
アスハは小さなチップを机に置いた。
“ユウコ:手を繋いだ記憶”とラベルの貼られた、たった一つのフラグメント。
クレナはそれを手に取り、スキャナにかける。「感情層が歪んでるわね…これは…恋情?」
「覚えていない。でも、心のどこかが叫んでる。これだけは手放しちゃいけないって」
クレナはしばらく黙っていた。そして、静かに頷いた。
「じゃあ、リスクは承知ってことで。…つなぐわよ?」
アスハは頷いた。
目を閉じた瞬間、脳内に走る電流のような刺激と共に――
⸻
――“誰かの手の温もり”が、脳を焼くように甦った。
細く、白い指。夜の公園、子どものようにふざけ合いながら歩くふたり。
名前のない幸せの破片。声は聞こえない。顔もぼやけている。
だが、それでも確かに“愛された感覚”が残っていた。
「……!」
アスハは思わず椅子から飛び起きた。目の奥が熱い。
感情が、記憶に追いついていない。
「これは…本物だ」
クレナは少し寂しそうに微笑んだ。「そうね。でも、それが誰だったのか――思い出すには、もっと深い記憶が必要ね」
アスハは、手の中の空気を掴むようにして呟いた。
「彼女を探す。たとえこの街の地面の下に埋もれていたとしても」
⸻
その日、アスハは初めて“記憶を売らない”一日を過ごした。
それが、全ての始まりだった。
《記憶市場》に翻弄されるだけの傍観者だった男が、初めて“自分の物語”を取り戻そうと歩き出した日。
その背中を、誰かが静かに見つめていた。
彼女の名はまだ語られない。
だが、記憶は確かに“ふたり”を結んでいる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます