まだ、君の鼓動が聞こえる

葉月 初

第1話 知らない記憶知らない君

「おかえり、律」

 春の風が窓から吹き込む病室で目を覚ました時の母の言葉がやけに温かかった。

 移植手術を受けてから三ヶ月。

 高校一年生の音無律は、長い入院生活の末、ようやく退院を迎えた。

 体の奥深く、胸の中央で規則的に刻まれる鼓動は、以前の自分とは違うテンポで生きているような気がしてならなかった。

 看護師さんたちがナースステーションの前に集まり、笑顔で見送ってくれる。

 「律くん、よく頑張ったね」

 「無理しないで、でも高校生活、楽しんでね」

 白衣の主治医もやって来て、カルテを閉じながら柔らかく笑った。

 「君の心臓は、とても順調だ。君もよく耐えた。あとは、ここからだな。焦らずに、ゆっくり戻っていこう」

 律は、少し照れくさそうに会釈をした。

 病室の扉を開けるとき、ほんの少し、胸が高鳴る。

 鼓動が、春風に背中を押してくれるようだった。

 病院のロータリーに止まっていた母の車に乗り込むと、助手席から母が優しく微笑んだ。

 「よかったわね、律。本当によく頑張った!」

 「これでまた、学校にも行けるようになるわね。……ちょっと緊張するかもしれないけど、大丈夫。律なら、きっとすぐに慣れるわ」

 その言葉に、律は小さく笑い返した。

 でも、胸の奥では言いようのないざわめきが生まれていた。

 “学校か──”

 友達の輪に戻れるだろうか。

 一年遅れた自分を、クラスの誰が覚えているだろうか。

 そして何より──この胸の鼓動を、自分自身のものとして受け入れられているのか、まだ自信がなかった。

 それでも、もう戻らなければいけない。

 以前の「音無律」とは、少し違う誰かとして。

 車窓を流れる景色が、まるで見知らぬ世界のように鮮やかに映っていた。

 「うん……ただいま」

 律は小さくつぶやいた。

 その言葉は、母親ではなく、この世界に戻ってきた自分自身へ向けたものだった。

新学期、制服の袖を通す手が少し震えた。

 友達がいるわけでもない新しいクラス。病気で一年遅れているため、年下のクラスメイトたちの輪に入りづらさを感じていた。

 でも、それよりも——気になることがあった。

 味覚が変わったのだ。

 今まで大嫌いだったグレープフルーツが美味しいと感じたり、子どもの頃から好きだったチョコレートが妙に苦く思えたり。

 それだけではない。

 行ったことのない景色が、ふと脳裏に浮かぶ。

 カラフルな観覧車のある遊園地、桜舞う中庭、青い制服の女子高生たちの笑い声。

 ——あれは夢だったのか?

 それとも、誰かの記憶を、自分が追いかけているのか?

 そんなことを考えていたとき、不意に背中をドンッと叩かれた。

 「おーい、律!お前また一人で暗い顔して、なに哲学してんの?」

 その声に振り向くと、そこには懐かしい顔があった。

 小野寺悠馬(おのでら ゆうま)——陸の幼なじみであり、数少ない気を許せる存在だった。

 「……悠馬? お前、ここだったのか」

 「そりゃあな。奇跡的に同じクラスだぞ。感動して泣け」

 律が思わず吹き出すと、悠馬はにやっと笑った。

 いつも通りの、変わらない調子。

 その軽口に、少しだけ肩の力が抜けた。

 「ったく。病み上がりでお前が心配だったけど、顔見たら元気そうじゃん。……まあ、ちょっと痩せたか?」

 「お前よりはマシだよ」

 悠馬とのやりとりは、確かに“いつもの日常”だった。

 けれどその裏で、律の中には、言葉にできない違和感が静かに膨らんでいた。

 味覚の変化。見たことのない記憶。そしてこの鼓動——

 「自分」という存在の輪郭が、少しずつ、どこかずれていくような感覚。

 そんな中でも、幼なじみの声だけは、変わらず胸に届いていた。

 数日が経ったある放課後のことだった。

 教室に忘れ物を取りに戻った陸は、カバンの中を探していた手を止め、ふと廊下の窓に目をやった。

 ──その瞬間だった。

 鏡のように反射したガラスの向こうに、見知らぬ少女が立っていた。

 肩までの黒髪。セーラー服。どこか寂しそうな瞳。

 彼女は、まっすぐに陸を見つめていた。

 「……誰だ?」

 律は息をのんで振り返る。

 だが、そこには──誰もいなかった。

 空っぽの廊下。微かに響く風の音。

 「……見間違い、か?」

 そう思いかけた次の瞬間。

 すぐ背後から、声がした。

 「はじめまして。私、天音鈴。あなたに心臓をあげたドナーよ」

 ぞくりと背筋が凍った。

 間違いない。この声は、さっきの少女のもの。

 気配が、存在が、確かに“そこにある”と感じられる。

 ろち

 律が再び振り向くと——少女は、今度こそ、本当にそこに立っていた。

 生きているような、それでいてどこか浮遊するような不確かさ。

 その佇まいに、言葉が出なかった。

 そのとき——

 「……な、なあ律。お前、誰と喋ってんだ?」

 突然、背後から声がかかった。

 振り返ると、悠馬が、戸口の影から顔を出していた。

 「悠馬……?」

 「いや、お前が急に立ち止まって、なんか誰かと話してるから……って、え?」

 悠馬の目が、明らかに戸惑いを浮かべる。

 その視線は律の横を通り抜け、空っぽの廊下を見ていた。

 「……おい律、誰と喋ってんの? そこ、誰もいないけど?」

 律は、少女と悠馬を交互に見た。

 だが少女は、まるで当然のように微笑んでいた。

 「見えるのは、あなただけ。」

 その言葉に、律の背中が冷たくなる。

 この少女は、生きていない──

 けれど、確かに“ここにいる”。

 そう感じたことだけは、否定できなかった

 

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