第二章
美音のメッセージを読み返すたび、胸の奥がじわりと熱を持つのを感じていた。
「今度、遊びに行こうね」――そんな他愛もない言葉が、どうしてこんなに特別に思えるんだろう。
俺はまだ、この気持ちに名前をつけられずにいる。
でも、次に彼女に会う日が楽しみで仕方ない自分がいる。
それが恋なのか、まだ分からない。けれど、何かが変わり始めているのは、確かだった。
あの日、春の終わりの微熱を帯びた空気が、肌を優しく撫でた。桜の花びらが、まるで雪のように舞い散る並木道。ふと、美音の手が俺の手にそっと重なった。指先から伝わる、かすかな熱。それは、まるで陽だまりの温もりのように、俺の心にそっと火を灯した。見慣れたはずの美音の瞳が、その瞬間、いつもより少しだけ潤んで見えた。そこに映る自分が、どこか違う存在であるかのように感じられた。胸の奥がじんわりと温かくなり、何かがゆっくりと、しかし確実に変わり始めている予感がした。
それから数日が過ぎ、季節は春の終わりから、鮮やかな緑が芽吹く初夏へと移り変わろうとしていた。あの日以来、美音との間に、目には見えないけれど、確かに存在する糸が張り巡らされたような気がした。心の奥底では、その糸がより強く、より鮮明になることを期待している自分がいる。朝、昼、晩と、何度もスマホを確認し、美音からのメッセージを今か今かと待ちわびている。まるで、宝探しに夢中な子供のように、彼女に関する小さな変化を見逃さないように、アンテナを張り巡らせていた。
待ち焦がれた美音からのメッセージが、スマホの画面に表示された時、逸る気持ちを必死に抑えながら、冷静を装って返信を打ち込んだ。指先が震えるのを悟られないように、慎重に、慎重に。
【快斗】
「明日の遊ぶ施設、10時に駅で待ち合わせね」
送信ボタンをタップすると、すぐに既読表示に変わり、間髪入れずに美音からの返信が届いた。
【美音】
「うん!楽しみだね!」
たった一言。それだけなのに、心臓がまるで暴れ馬のように激しく高鳴る。まるで、心臓が直接語りかけてくるようだ。美音も同じように、明日のデートを楽しみにしてくれているんだと思うと、嬉しくてたまらない。いてもたってもいられず、部屋の中を意味もなくウロウロしてしまう。
美音とは、中学校からの付き合いになる。高校は別々になってしまったけれど、定期的にこうして遊びに出かけるのが、いつの間にか俺たちの習慣になっていた。直接会う機会が減ってしまった分、メールやメッセージのやり取りが、以前にも増して待ち遠しく感じられる。約束の日が近づくにつれて、期待と緊張が入り混じった、甘酸っぱい感情が胸の中で膨らんでいく。程よい距離感が、まるで磁石のように、二人の関係を特別なものにしているのかもしれない。友達以上、恋人未満。そんな微妙な距離感が、もどかしくもあり、心地よくもあった。まるで、ゆっくりと時間をかけて熟成されていく果実のように、今はじれったいけれど、いつか最高の瞬間が訪れると信じている。
翌朝、俺は約束の駅のホームに、美音との待ち合わせ時間よりも少し早めに到着した。改札口から人が途切れることなく流れ出てくるのを、ぼんやりと眺めながら、美音は今日、どんな服を着てくるのだろうかと想像する。ソワソワして落ち着かず、何度もスマホを取り出しニュースサイトを開いてみるものの、内容は全く頭に入ってこない。ただ、時間だけがゆっくりと過ぎていく。まるで、砂時計の砂が落ちるように、もどかしい時間が過ぎていく。時間が経つのがこれほど遅く感じるのは、きっと美音に一刻も早く会いたいからに違いない。
すると、遠くから誰かが、こちらに向かって小走りで駆けてくるのが見えた。見慣れたシルエット。美音だ。少し息を切らせながら、彼女は俺の目の前で立ち止まった。
「遅れてごめん!」
透き通るような白い肌に、朝日が降り注ぎ、キラキラと輝いている。まるで、宝石のように、彼女自身が輝いているようだ。薄いピンク色のワンピースが、今日の彼女の可愛らしさを一層引き立てていた。風になびく髪を耳にかける、その何気ない仕草さえ、どこか大人びて見え、ドキッとした。まるで、映画のワンシーンを見ているみたいに、現実離れした美しさに、息をのむ。
「大丈夫、俺も今着いたところだよ」。平静を装ったものの、心臓のドキドキが彼女にバレていないか、少し不安だった。美音の姿をひと目見た瞬間から、頭の中が真っ白になり、思考が停止してしまう。今日の美音は、いつも以上に綺麗に見える。もしかしたら、これは恋なのかもしれない。
電車に乗り込み、向かい合わせの席に座る。彼女の視線から逃れるように、俺はリュックからスマホを取り出し、最近ハマっている音楽ゲームを起動した。少しでも緊張を紛らわせたかった。心臓の音がうるさくて落ち着かない。まるで心臓が体の中から飛び出してきそうだ。
「これ、難しいけど、すごく面白いんだ」。少しでも会話のきっかけになればと思い、画面を美音に見せると、興味津々といった表情で身を乗り出してきた。「見せて見せて!」 二人でスマホの画面をのぞき込み、リズムに合わせて交互に指を動かす。最初は戸惑っていた美音も、すぐにコツを掴んで楽しそうにプレイしていた。指先がほんの少し触れ合うたびに、ドキッとする自分がいる。まるで、微弱な電流が走るように、全身が痺れる。
「あ、もうこんな時間だ。全然気づかなかった」。一時間以上かかる電車での移動時間も、ゲームと他愛もないおしゃべりで、あっという間に過ぎていった。美音と話していると、時間が経つのを忘れてしまう。まるで、魔法にかけられたみたいに、現実を忘れてしまう。
目的地の駅に到着し、改札を抜ける。駅前は人で賑わっていて、活気に満ち溢れていた。人々の話し声や笑い声、車のクラクション、そして様々な匂いが混ざり合い、独特の喧騒を作り出している。「ここから、歩いて10分くらいの場所にあるんだ」 俺は美音を先導して、遊園地へと続く道を歩き始めた。少しでも長く一緒にいたくて、ゆっくりと、彼女の歩幅に合わせて歩く。
駅前のロータリーを抜けると、かつて見事な桜並木だった道が広がっていた。春には桜のトンネルができるこの道も、今は緑が生い茂り木漏れ日がキラキラと輝いている。葉擦れの音が、心地よく耳に響く。「本当に良い天気だね」 美音が空を見上げて、目を細めた。眩しそうに目を細める彼女の表情が、とても愛おしい。「ああ、最高の一日になりそうだ」 俺は隣を歩く美音を見ながら、心の中でそう呟いた。この瞬間が、ずっと続けばいいのに。まるで、時間が止まってしまったかのように、永遠にこの景色を眺めていたい。
桜並木を抜けると、今度は懐かしい雰囲気の商店街が見えてきた。アーケードには色とりどりの看板が並び、美味しそうな匂いが鼻をくすぐる。焼き鳥の香ばしい匂い、たこ焼きのソースの甘い匂い、そして駄菓子屋から漂ってくる懐かしい香り。「着いたね!」 遊園地の入り口が見えると、美音の目が輝いた。その無邪気な笑顔に、心が安らぐ。まるで、太陽のように、周りを明るく照らしてくれる。
「わー、すごい!広いね!」 美音の声が弾む。その声を聞いているだけで、心が躍る。この遊園地は、ゲームセンター、ボウリング場、ローラースケート場、映画館など、様々なアトラクションが揃った複合施設だ。一日中いても飽きることがない。子供の頃から何度も来ている場所だが、美音と一緒だと、いつもと違う景色に見える。まるで、初めて訪れた場所のように、新鮮な気持ちになる。
「まずは、ボウリングに行こう!」 俺は美音の手を引いて、ボウリング場へと向かった。
ボウリング場に入ると、オイルの匂いとボールがぶつかり合う音が混ざり合って、独特の雰囲気を醸し出していた。ガチャン!とピンがはじけ飛ぶ音、ストライクが出たときの歓声が響き渡り高揚感を掻き立てられる。まるで、お祭りみたいに賑やかで、ワクワクする。
「何年ぶりだろう、ボウリングなんて」と美音が少し不安そうに呟いた。俺はスコア表に名前を書き込みながら、「大丈夫、教えるから」と軽く笑い返した。美音はピンク色のボールを選び、指穴に指を入れ、重さを確かめるように何度か持ち上げていた。その姿さえも、可愛らしくて見惚れてしまう。まるで、子猫がボールと戯れているみたいだ。
「最初はフォームなんて気にしなくていいんだ。的に向かって、まっすぐ投げるだけ」
俺が見本を見せると、美音は真剣な眼差しで俺のフォームを真似ようとしていた。そして、いよいよ美音の番。深呼吸をして、ボールを構え、ゆっくりと助走をつけた。
「えーい!」
美音が投げたボールは、少し右に逸れながらも、勢いよくレーンを滑っていった。ゴロゴロゴロ……。そして、ガシャン!と音を立てて、9本のピンが倒れる。
「あー、惜しい!」美音は悔しそうに叫んだが、すぐに笑顔になった。「でも、楽しい!」
次の投球では、美音はさっきよりもっと集中していた。狙いを定め、慎重にボールをリリースする。ボールはまっすぐに進み、見事にストライク!ピンが全て吹き飛ぶ音が、ボウリング場に響き渡る。ガッシャーン!
「やったー!」
美音は俺とハイタッチを交わし、満面の笑みを浮かべている。その笑顔が眩しくて、俺は思わず目をそらしてしまった。心臓がドキドキして、顔が熱くなるのを感じる。もしかしたら、俺は美音に恋をしているのかもしれない。
その後も、俺たちは交互にボールを投げ、ピンが倒れるたびにハイタッチを繰り返した。スコアは気にせず、純粋にボウリングを楽しむ。美音のフォームを真似してみたり、お互いの下手な投球を笑い合ったり。ガターに落ちたボールを見て、二人で顔を見合わせて笑ったり。気がつけば、周りの観客も俺たちのプレーに注目し、応援してくれるようになっていた。まるで、俺たちが主役になったみたいだ。
ボウリングで軽く汗を流した後は、ローラースケート場へ移動した。「スケートは得意?」 俺は美音に尋ねた。「うーん、ちょっと怖いけど、挑戦してみる!」 美音は少し不安そうに答えた。でも、その瞳には、好奇心と期待が宿っている。まるで、新しい世界に飛び込むみたいに、ワクワクしているのが伝わってくる。
ローラースケート場は、懐かしい音楽とミラーボールの光が、独特の雰囲気を醸し出していた。70年代、80年代のディスコミュージックが流れ、ミラーボールがキラキラと光を放ち、懐かしい雰囲気を醸し出している。子供の頃にタイムスリップしたような、不思議な感覚に包まれる。まるで、夢の中にいるみたいだ。
俺たちはそれぞれヘルメットとプロテクターを装着し、リンクへと足を踏み入れた。久しぶりのローラースケートに、最初は戸惑った。なかなか上手く滑ることができず、足がもつれて転びそうになる。バランスを崩し、体が傾いたその時。
「危ない!」
美音が俺の手を掴んでくれたおかげで、なんとか転倒せずに済んだ。「ありがとう」 俺は照れ臭そうに言った。美音の手は、小さくて温かい。まるで、太陽の光のように、じんわりと温めてくれる。
お互いに手を取り合いながら、ゆっくりとリンクを滑り始めた。最初はぎこちなかった動きも、徐々に慣れてきた。風を切る感覚が心地よく、自然と笑顔がこぼれる。最初は怖がっていた美音も、少しずつスピードを上げて、楽しそうに滑っている。その姿を見ていると、俺まで嬉しくなってくる。まるで、子供の頃に戻ったみたいに、無邪気に楽しんでいる。
美音は少しずつ慣れてきたのか、片足で滑るような難しい技に挑戦し始めた。しかし、バランスを崩して大きく転んでしまう。
「大丈夫!?」
俺は慌てて駆け寄り、美音の手を引いて起こした。「ごめん、無理しちゃった」美音は少し恥ずかしそうに笑った。
「無理しないで、ゆっくりやろう」
俺は美音の手を握り、二人でゆっくりと滑り始めた。夕暮れ時のリンクは、ミラーボールの光を反射して、幻想的な雰囲気に包まれていた。まるで、星空の下を滑っているみたいに、ロマンチックだ。
「ちょっと休憩しようか」 一時間ほど滑ったところで、俺たちはリンク脇のベンチに腰を下ろした。自動販売機で冷たいジュースを買い、二人で分け合って飲む。喉を潤す冷たいジュースが、疲れた体に染み渡る。「疲れたけど、やっぱり楽しいな」 美音はそう言って、嬉しそうに微笑んだ。「うん、こうやって一緒にいることが、一番楽しい」 俺は素直な気持ちを伝えた。美音の隣に座っているだけで、心が満たされる。まるで、世界で一番幸せな場所にいるみたいだ。
夕方になり、遊園地を出る時間になった。空はオレンジ色に染まり、夕風が心地よかった。肌をなでる風が、少しひんやりとして気持ちいい。「今日は、本当に楽しかったね」 美音が名残惜しそうに言った。「ああ、また近いうちにここに来よう」 俺はそう答えた。今日の思い出を胸に、また明日から頑張ろうと思える。まるで、宝物を見つけたみたいに、心が温かくなる。
帰りの駅までの道を歩きながら、俺と美音の影が長く伸びていく。夕焼け空を背景に、二つの影が寄り添っている光景は、まるで一枚の絵のようだった。いつまでも、この時間が終わらなければいいのに。まるで、時間が止まってほしいと願うように、ゆっくりと歩いた。
駅に着き、ホームで列車を待つ。ベンチに座り、二人で並んでスマホをいじっていると、不意に美音が顔を上げた。「ねえ、快斗はさ、将来何がしたいの?」 「将来か……。まだ具体的には何も考えてないけど、美音と一緒にいられるような仕事に就けたらいいな」 俺は少し照れながら答えた。本音を言うと、ずっと美音のそばにいたい。
美音は俺の言葉に、少し驚いたような表情を見せた。そして、顔を赤らめながら、小さく呟いた。「私も……、そう思ってる」
列車がホームに滑り込んできた。
俺と美音は、無言のまま列車に乗り込んだ。
窓の外には、夕焼け空が広がっている。燃えるようなオレンジ色と、深い藍色が混ざり合い、美しいグラデーションを描いている。今日の思い出が、胸の中に静かに灯る。美音との距離が、ほんの少しだけ近づいた気がした。まるで、恋の蕾が少しずつ膨らんでいくように、甘酸っぱい気持ちが胸いっぱいに広がる。
列車はガタンゴトンと音を立て、夜の街を走り抜けていく。 今日の思い出を胸に、俺は明日からの日々を、また頑張って生きていこうと思った。そして、いつか美音に、自分の気持ちを伝えようと心に誓った。
傘のない春 Aoi @Aolemon99
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