第一章

――彼女は、春の中で笑っていた。


あの日の記憶が溶け込むように、また一日が始まった。


これはまだ、すべてが“当たり前”だった頃の、俺と美音の物語。


「……久しぶりって感じ、しないね」


美音の言葉は、白い春の日差しの中で、風に舞う桜の花びらのように軽やかだった。小学校からの友達である俺たちは、公園の入り口で待ち合わせ、並んで歩き出す。青く澄み渡る空の下、静かに咲き誇る桜並木。彼女の瞳はその美しい風景を捉え、どこか遠くを見つめているようだった。


「週に一度は会ってるから、そうかもね」


俺は照れくささを隠すように笑顔で答えた。でも、心の奥底では穏やかでない気持ちがくすぶっていた。美音とは小学校まで同じ校舎で過ごしたけれど、中学校、高校と別の道を選んだ。それでも、こうして休日に会うたびに、あの頃の小さな約束が思い出される。彼女と一緒にいると、まるで昔のまま。秘密の場所を一緒に見つけた日のこと。夕焼けに染まる空の下、笑い合った日のこと。テストの成績が悪くて落ち込んだ俺に、優しく声を掛けてくれた日のこと。それらすべてが心の中で温かく広がり、幸せな気持ちになる。


並んで歩く俺たちの影は、桜の花びらの陰影と重なり合い、ゆらゆらと揺れていた。


自販機の前に差し掛かると、美音は迷わず缶コーヒーを手に取り、俺は透き通るような青とオレンジのジュースを選んだ。彼女がそれを選ぶ理由。そんな小さなことさえ、俺の心をざわつかせる。耳の奥に潜む、何か大切な秘密を秘めているような彼女の声が、ぼんやりと気になり、少しだけ背筋を伸ばした。


ベンチに腰掛け、空を見上げる。静かな時間の中、彼女が口を開いた。


「快は、やっぱり変わらないね……昔から」


「変わらないのは、まあ、悪くないだろ?」


俺はそう答えたものの、胸の奥には微かな寂しさが広がった。変わらないことは本当に良いことなのだろうか? ただ時が過ぎただけで、何も変わっていないだけなのではないか? そんな迷いが心をよぎる。


「……だけじゃなくてさ」


彼女の声は少し震え、そこには切なさが滲んでいた。春の陽射しに照らされた横顔は、淡い陰影を帯びて、より一層美しく見える。いつもの笑顔の奥に隠された想いを、俺はまだ見つけられずにいた。彼女は一体何を隠しているのだろうか。


「変わらないのは、いい意味、だよね?」


「……そうだと、思うよ」


答えることに躊躇いと、どこか安心する気持ちが入り混じる。でも、その先に何かがある気がした。彼女の中に宿る、何か大切なもの――それが何かはまだわからないけれど、確かに感じ取れる。


未来への予感が、肌を刺した。


「あ、そっか……」


俺は微笑みながらも、内心は少し緊張していた。彼女が隣にいると、安心すると同時に、期待してしまう自分がいる。


彼女の横顔を見つめていると、何かを言いかけた彼女は、少しだけ頬を染めて、控えめに付け加えた。


「来週もまた、会える?」


「もちろん。でも、もし何か予定があったら――」


彼女は微笑んだ。その目は、桜の花びらが散る瞬間のように儚く、輝いていた。


胸の高鳴りを抑えきれない一方で、心のどこかには不安もあった。この想いは彼女に伝わるのだろうか、それともただの片思いで終わってしまうのだろうか――。


夕暮れが近づき、空が紫やオレンジ色に染まり始めた。頬を撫でる風が少し冷たくなり、季節の移ろいを告げている。


「そういえばさ、次の休みに映画でも観に行かない?」


彼女の瞳が輝いた。その奥には期待と、ほんの少しの不安が入り混じっている。


「ホラーとか、どう?」


少し怖がりながらも、彼女の目はキラキラと輝き、何かを期待しているようだった。


「やだ! 怖いのは無理!」


「大丈夫だよ。一緒に笑って乗り越えよう」


そんな何気ないやりとりが、二人の距離をまた少し縮めていく。カフェオレの蓋を開けたとき、偶然彼女の手に触れて、その温かさを感じた。同時に、彼女の手が少し震えていることに気づき、何か大きな秘密や願いを隠しているかのようだった。何をそんなに抱え込んでいるのだろう。


別れ際、彼女はぽつりと呟いた。


「夏祭り、行きたいな」


その声には、少しの迷いと、大きな期待が混ざっていた。


「俺も行きたい」


俺は静かに頷きながら、夜空に咲く花火と、彼女の瞳に映る光景を思い描いていた。胸が高鳴る。


「きっと、すごく綺麗だね」


「ああ……すごく思い出に残る夏になると思う」


二人の声が静かに交じり合い、その空気はいつしか重く、甘く、そして少しだけ緊張に包まれていた。


その瞬間、彼女の手が自然と俺の手に重なった。春の陽だまりのような温もりと、確かに伝わる彼女の鼓動。


彼女の手がそっと俺の手に触れ、その温もりが春の風よりも強く胸に残った。視線が絡み合い、何かを言いかけたけれど、彼女はただ笑った。

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