第二話 暴力に満ちた叔父との生活
異常に触れた時、人はどういう行動に出るかわかるだろうか。それが一過性で外来のものであれば、驚きつつも対処に向けて動くことができるかもしれない。けどその異常が、内側から急転して理由なく持続する日常風景の一部であるなら? 私はこの奇異な体験を、唖然としたまま見ないふりで過ごすことしかできなかった。最初に逃げてしまわず声をかけていたなら、こんなふうにタイミングを逃さずに済んだのかもしれないけれど。
「ドアは静かに閉めろって言わなかったか」
「あ、離しッいだいいだいいだいっ」
「本当に躾のなってない馬鹿娘だ。姉さんの血はどこに置いてきちまったやら」
「ごめんなさいっ ごめ、んぐぅうっ」
リビングのクッションフロアの上で、叔父が妹の栗色のツインテールを捻り上げて引き摺り回している。私はその傍らでレポートを仕上げるべくノートパソコンと睨めっこをしているが、縦線の点滅は一向に進まない。集中できるわけがない。だが、回線の都合で自室ではネットに繋がらないので仕方がない。私は震えそうになる脚をテーブルの下で殴りつけて、平静を作った声を獄卒へと投げかける。
「お、おじ、さん……」
「ん? なにかな直美ちゃん」
振り返った叔父の貌には毒気ひとつなく、年齢を感じさせない爽やかさが愛嬌と共に皺を作る。そうだ、叔父はどういうわけか、共同生活を初めて以降この二面性を頻繁に入れ替えて現れた。
「あの、課題、が……だから……少し……すこしだよ? し、静かに……なったらな、って……」
「ああごめん! 気が利かなかったなぁ、こいつは失敬。ちょっと黙らせるから待っててね」
「!? や、やっぱり平気! 私、外、出てくるから……!」
叔父が朗らかな笑みを崩さず戸棚からガムテープを取り出すのを見ても、頓狂な声をあげてそれを制するので精一杯だった。パソコンのコードを引っこ抜き、うずくまる妹の横を走り抜ける……だって仕方ないじゃない! こんなにも話が通じないのに、いつ私にも牙を向けてくるかわからないのに、これ以上迂闊に刺激なんかできはしない。
「ううん、ごめんね邪魔しちゃって。お小遣い足りてるかい? ちゃんと外でも水分は取るんだよ、熱中症には気をつけてね」
「うん……行ってきます……」
廊下へと繋がるドアに手をかけた私へ手を振る叔父は、優しい憧れの人のまま1フレームたりともブレはしていない。彼からは殴られるどころか、厳しい説教ひとつ受けたこともない。私にとっては本当にいい人で、だからわからない。
閉じゆくドアの隙間から、妹の腹を蹴り上げる男の後ろ姿が垣間見える。あれは果たして誰なのか。当て所なく家を出た私は、図書館で悪魔憑きについて調べるなんて馬鹿みたいな逃避に耽った。課題は、ほとんどネットの丸写しで誤魔化した。
◆
大学の成績は、一年の中頃からひどく落ち込んだ。特に持ち帰りの課題が難所で、両親の事故死を引きずっている影響だと嘘の診断書を書いてもらって、大学にはお目溢しで単位を取らせて頂いた。もっとも、診断書が本当に必要なのはどう考えても妹の方だ。本人が病院に行きたがらないので、市販薬で私が手当してやっている。叔父はそのことについて何も言ってこない。お金は、必要な分だけ渡してくれた。
しかし、これだけ怪我が目立つ有様では、高校から探りを入れられるのも時間の問題だ。立ち入って欲しいのか、壊さないでほしいのか。私自分の意思もわからぬまま、妹が面談の申し入れを伝えてきたのは夏休みに入る直前のことだった。
「おねえ、センコーがね、今度学校にお家の人連れてこいって。なんか、生活指導がどうのって言ってた」
生活指導? ……怪我のことはともかくとして、妹は最近体調が安定している。なので、中学と違って出席日数は足りているだろうに、今度はどうしたことだろうと首をかしげる。
面談の題目を偽っての、不審な怪我への探りかとも疑り、訝しみつつの出頭。……なんのことはない、肩透かしなほど言葉通りの『指導』が待ち受ける。妹の罪状は体調不良、改め、素行の不良。呼び出しを受けた応接室で、私は教師から、彼女の放蕩っぷりへと散々に苦言を浴びせられた。
「大半の生徒は真面目ないい子なんです。なのにお宅のはしたない妹さんのせいで、学級は全部ぐちゃぐちゃだ」
「はあ、すみません、はしたないというのは……」
「風紀が乱れるんですよ。男子生徒を手当たり次第にたぶらかして。あの顔の腫れも、男にやられたって聞きましたよ。本人から。そりゃあ、自分から誘って乱暴されたなら、警察沙汰にもできませんよね。お察しします」
絶句した。妹は確かに可愛い子で、交際相手など引く手数多だろう。だが手当たり次第に、あの子の方から? そんな安売り、箱入りで甘やかされた笑美のイメージとブレる。それに、顔の怪我は叔父さんが骨にヒビを入れるまで折檻したせいだ。なぜあの子はそんな嘘をついたのだろう。外部へ助けを求める、絶好のチャンスだったろうに。
「あんた、変な男と付き合うとかやめてよ」
何度も頭を下げて学校を発ち、助手席の妹を横目に愛車のハンドルを回す。ガーゼの張り付いた横顔には反省の色は伺えない。私は、自分の精神を傷つけないよう言葉を選びつつ、先ほどの疑問を問い質す。
「その……誰かに家のことを相談したいなら、直接あの先生に言っちゃえばよかったじゃない」
「別にそういうんじゃないからいいの。それに、相手してやる男の話なんて、おねえにだけは言われたくないなぁ」
いいの、ではないと思う。答えになっていない。そのうえ返す刀でなんだというのだ、不躾な。男の話? 私の、何がだ。
「おねえ、オジコンじゃん。オジサンコン。おねえこそ、あんなDV男のどこがいいのさ」
「……うるさい。あれは、何かの間違いなの」
「うわ、今のはさすがにビョーキっしょ」
全くもって反論の余地がない。私は片手で空調の角度をいじって、ついでに勢いも強める。何か左手にタスクを課していなければ、妹にハンドバッグの一つも投げつけてしまいそうだったから。
「おこった? 今ならホッペもまだ腫れてるしさぁ、ちょうどいいんじゃない? 追加で殴っても、ぜんぶあの人のせいにできるよ」
「笑美、運転の邪魔」
「ちぇ、つまんな」
しばしの沈黙。けれど安心はできない。いきなり何を言い出すか、やらかすか、この少女は全くどうして掴みどころがないのだ。喜ばしいはずの寛解にも、私はいまいち浮いた顔ができずにいる。先刻の教員の苦言で確信した……叔父さんの豹変もきっと、笑美の側に原因があるに決まっている。
「相談されたい? オジサンが殴るんですって、学校に」
私の思考を見透かすように、妹がモノローグへと茶々を入れる。愉快犯――そんな単語が渋さを伴い、作った無表情の裏側を
「そしたら叔父さん秒で捕まって、私たち仲良くイエナキコだね。あ、おねえは大学生だから、
「……気味悪いこと言わないで。それに大学ってそういうんじゃないよ。ただの学校。高校と大差ない」
「ふーん、つまんな」
ふざけた挑発は相手をしないに限る。雑にいなしてやれば、手応えが悪かったのか、妹は興の冷めた様子でシートに身を預けた。それ以降こちらを見さえもしない。
「花の女子大生ってやつ、思ってたよりしょーもないんだね」
いちごミルクのパックを握り潰して飲む、妹は退屈そうに車窓の向こうに忍者を走らせている。
◆
「魚ひとつ綺麗に食えないのか、だらしのない!!」
「がっ、ぐ、いぎっ」
「箸の使い方くらい姉さんから教わっただろう! 毎日小骨まで抜いてもらって匙でエサやりされてたのか? あの人の手を死ぬまで煩わせて、よく恥ずかしげもなく今日まで生きられたな愚図!」
「いだ、ごめんなさい、ぞめんばざっいっ」
「…………」
丁寧に盛り付けられた三人分の食事が卓上に並ぶ。その皿を割る勢いで何度もテーブルへ額を叩きつけられて、妹の顔は飛び散った秋刀魚の骨やら味噌汁の豆腐でぐちゃぐちゃに汚れていた。私は、自分の味噌汁が溢れないよう左手で椀を逃して、味のしない夕餉をもそもそ口に詰め込んでいる。
「箸も満足に使えないなら最初からいらないな!? そら口で食え、犬みたく食え! 明日からは床に這いつくばって飯を食えよお前」
「うゔ〜〜っゔえぇああ〜〜!!」
「……叔父さん、お魚くらい私が笑美の分まで綺麗にほぐしますから」
「直美ちゃんは甘いよぉ。時にはきちんと言ってあげないと、この子のためにならないと思うけど……」
「ひっぐ、うえ、ゔおえっ」
「……チ、きったないな、こいつ」
えづくあまり食べたものを吐き戻した妹を見下ろす叔父の目は、どこまでも冷酷で残忍だ。二学期からすっかり不登校になって家に篭りがちとなった妹を苛む暴力は、日毎苛烈さを増している。
「叔父さん、こういうのは雑菌が空気中に広がる前に掃除した方がいいよ。消毒用アルコール持ってきてくれる? 私はこの子をお風呂に連れてくから」
「……そうだね。それじゃあ頼めるかな」
私も、順応してしまった。最初こそ人の変わった叔父の目を気にして、息を吸うのも怯えていたのに。今では自分が安全圏にいることが不動なのだと理解して、それなりの立ち回りで生活を営んでいる。それが結構重要で、この暮らしが破綻しないぎりぎりのところの均衡を、私のフォローが薄皮一枚で繋いでいると言っていい。叔父の暴力は、妹にだけ振るわれる。妹はどういうわけか被害を口外しない。私は、二人から蚊帳の外のままいつも通りに慕われて生きている。おかしくなりそうだったのは最初のうちだけだ。たぶん、とうにおかしくなっている。
シャワーを適温に整えて、裸に剥いた妹の柔肌にそっと浴びせる。浴室に連れ込むまでは錯乱していた笑美も、洗い場に腰掛ける頃には鼻を啜る程度まで落ち着いた。項垂れる白いうなじに、タバコを押し付けられた痕。叔父が喫煙を嗜むなんてこと、今日まで私は知らなかったのに。
「ねえあんた、叔父さんに何しでかしたの?」
その問いは、最初のうちから懸命に聞き出そうとしたことだった。今では呆れの滲んだ一応の確認にすぎない。
「このままだったらあんた、殺されちゃうよ。私が留守の時とかに。私、叔父さんに人殺しなんてさせたくないんだけど。こんなに憎まれるだけのこと、一体何をやったっていうの」
「知らない。私の顔がムカつくんでしょ。あの人シスコンだから」
想定よりもハッキリとした語気で答えが返り、少しだけ面食らう。シャワーを下ろせば、水の滴る前髪の向こうで妹が笑っていた。何が、おかしいというのだろう。
「まあ、おねえには関係ないよね。私たちのことなんて。知らなくてもいいよ。おねえが何やっても、康孝くんには全然響かないんだし」
「……やすたか、くん?」
「あ、オジサンだった。やば」
くすくすと、片方半分しか開かなくなった目を細めて妹が肩を振るわせる。馬鹿にされているのだと
「笑美、あんた」
「おねえはさ、オジサンのどこが好きなの? 優しいから? じゃあよかったね、自分だけはイジメられずに大事にされて、お姫様気分じゃんね」
「はあ? 誰のせいで、こんな」
「オジサンのせいでしょ。私被害者だよ? 警察とか病院に駆け込んだら、こんなの一発アウトだと思うけどぉ」
妹が重たい前髪を掻き上げると、生え際にも歪な赤い円が並ぶ。女の子の顔に、一生消えない火傷なんて。私は、しばらくぶりに耐えがたい眩暈を覚えてシャワーのノズルを取り落とす。着衣のままずぶ濡れになった私を、笑美はドッキリ番組でも見るような抱腹絶倒で指差して嗤う。
「ねえ、行ってほしい? ケーサツ。たぶん保護とかされて、オジサンいなくなっても生活に困ることはないんじゃない? パパたちの保険金もあるんでしょ? つまんない学校なんて辞めて、二人で遊んで暮らそうよぅ」
「馬鹿、そんなの、今更……!」
「あ、でも、黙って見てたおねえも、オジサンの共犯ってなっちゃうのかな? だっておねえは一回もぶたれたことないもんね、おかしいねえ。どうしてかな? もしかしなくてもあの人、おねえにちっとも興味ないんだね」
「――っ!」
頭に血が昇るとはこういうことなのだろう。湯の噴き上がるシャワーヘッドを拾い上げて、衝動的に目の前のあばずれを殴りつけていた。生まれて初めて、他者へと振るった暴力。気持ちのいいものではないと、苦虫を噛み潰して実感する。
「ふはっ あはっ そういう顔、すげーママにそっくり! あとで康孝くんにも見せたげなよ! 犯してもらえるかもよ!」
「笑美ッ!!」
「やったやったあ、おねえも怒ることあるんだ、きゃははぁ」
そう言い残して、妹は体を拭いもせず風呂場を後にした。ずぶ濡れの衣服を絞って跡を追った時にはもう、笑美の姿は家の何処にも見つけられなかった。警察に行ったのかと思ったけど――いつまで経っても、強面の刑事さんが訪ねてくることはなくて。裸足の妹は、十月の肌寒い住宅街を、バスタオル一丁で忽然と居なくなってしまった。
〈続〉
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