第5話 秒速16.67メートル
婚姻の列が山に消え、花嫁と、花婿以外が降りてくる。
雨はとっぷりと降り。
日は暮れ、警備の提灯の明かりだけが山を照らす。
名家と名家の婚姻であるから、鯨浜は軽いお祭りのようになっていた。テレビ局も配信者もこない、ただ良いことがあったからというだけのお祭り。
俺の両親も酒や世間体のために繰り出し、家には俺だけになった。
マウンテンバイク仕様の自転車で、警備を縫うように山を走った。
神社につく。
山の上の社だ。
鳥居や鈴の向こうにある建物は簡単な家のようになっていて、その中から、雨に向かって、蝋燭の火が漏れていた。
揺れる火の影を、見つめていた。
ごつごつと大きい影と、柔らかく細い影。
するり、と。
雨音の中に、衣擦れの音が薄く届く。
――大きい影の手が、障子の向こうで、柔らかく細い影に伸びる――
そこに、マウンテンバイクで飛び込んだ。
障子の割れる音。
木と紙が雨と車輪のそれに破られて、ビリビリと鳴る。
社の中、蝋燭の火。敷かれた布団の上で、男女が俺を丸くなった目で見ていた。
全裸の中年男性と。
今、着物を脱ぐところ――そう言いたげな、半裸の字峰であった。
「――来たかね」
「来ましたとも」
字峰の声に、それだけ答え……自転車で突っ込んだ。
背中。
雨に濡れたしっとりとした着物と、その奥にある熱を感じていた。
字峰は俺の自転車の後ろに乗り、ひしと、俺の身体を抱きしめていた。
「ひどいやつだな、君は。人の夫の顔面にタイヤを擦り付けるなど」
「そうしなければやられていました。彼、アメフト選手でしょう? たしか元プロの。正面からでは俺が負けます」
「そこは素手で打ち負かしたまえよ」
「自転車でもギリギリだったのに?」
それに、と俺は続けた。
「夫じゃないでしょう。逃げたんですから」
石段を、自転車で下った。
警備が驚いたような顔で俺たちを見て、そして叫んだ。それらも、雨や風にかき消され、ろくに聞こえなかった。遠く後ろから届くあの男の怒声も、届きはしなかった。届いたとてやることは変わらない。
長い、長い石段。
落ちてゆく視界。
雨で滑る車輪。
背中にかかる、彼女の重量。
いつ死んだっておかしくない。そんな、黒い景色だった。
彼女の髪の色のように綺麗な、そんな黒い景色だった。
「自転車の法定速度は、秒速16.67メートルだそうです。今はその倍は出ているかもしれませんがね」
石段を一気に駆け降りる。
彼女が息をのむ。
雨が降る、祭りの途中の人里に出る。
人混みを突っ切り、泥と傷だらけの自転車が駆ける。
字峰の両親や祖父母が丸くなった目で俺を見て、俺の背の字峰を見て、そして追いかけてくる。車も出てくる。だが、まだ自転車は速い。
「五億キロメートルには遠いな」
「えぇ。ですが……」
漁港に出る。
それでも、走る。
コンクリートの埠頭。
その先は海。何もない。でも走る。
「……世界を終わらせるには、これでも十分でしょう?」
雨が、黒い海に降り注いでいた。
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