第51話

 その日、俺たちがいたのはいつもの河川敷ではなかった。


 無機質なコンクリートの護岸工事がされた場所でもなければ、草むらから虫の声が聞こえるような風流な場所でもなく、人工的に凍らせた水の上だ。


「なんでまた、こんな滑りやすい場所に人間が集まる必要があるんだ」


 俺は貸靴の紐を締めながら、深いため息を吐いた。靴紐というのは、きつく締めれば血流が止まりそうになるし、緩くすれば足首が持っていかれる。ちょうどいい塩梅というものが存在しない。


「陽介はわかってないなあ。人間はね、不安定な足場に立つと、本能的に『生きなきゃ』って思うようにできてるの」


 隣で手際よく靴を履いている七瀬さんが、伊達メガネの位置を直しながら言った。今日の彼女は、目深に被ったニット帽に、口元まで隠れる厚手のマフラーという完全防備だ。


 一見すると不審者だが、全体のシルエットが妙に洗練されているせいで、逆にお忍びの芸能人感を醸し出している。まあ、実際は「お忍びの芸能人のそっくりさん」なわけだが。


「生きなきゃって思うために、わざわざ金払って転びに来るの?」


「吊り橋効果の自給自足だよ。ときめきがないなら、自分で作ればいいじゃないっていう、現代人の知恵」


「ときめきを物理的な恐怖で代替するのはやめてほしいね……」


 言い合いながら、俺たちはリンクサイドに立つ。休日のスケートリンクは、色とりどりのウェアに身を包んだ人々でごった返していた。


 手を取り合ってキャッキャと騒ぐカップル、プロテクターでガチガチに固められた子供たち、そして逆走して監視員に怒られている若者。ここはカオスだ。


「じゃ、行こっか」


 七瀬さんは氷の上に足を乗せると、何のためらいもなくスーッと滑り出した。


 まるで重力という概念をロッカーに預けてきたかのような軽やかさだ。


「……っちょ! 待って待って!」


 俺は氷に片足を乗せた瞬間、生まれたての子鹿のように膝が笑うのを自覚した。


 摩擦係数がゼロに近い。物理法則がバグっている。


 慌てて手すりにしがみつく。これだけは絶対に離さない。


「あれ? 陽介、来ないの?」


 十メートルほど先まで優雅に滑っていった七瀬さんが、くるりとその場でターンして戻ってきた。


 その動作があまりに滑らかで、俺は思わず見とれてしまう。だが、それも一瞬。余裕もない俺は手すりを握る手に力を込める。


「おっ、俺は、ここで手すりの安全性を確認する係になるよ……」


「ふぅん……そんな仕事があるんだ?」


「うん。この手すりが定格荷重に耐えられるか、俺の体重を使ってテストしているんだ。重要な任務だよ」


「なるほどなるほどぉ……」


 七瀬さんはニヤニヤしながら俺の周りを、サメが獲物を狙うようにゆっくりと周回し始めた。


 彼女が滑るたびに、シャッ、シャッ、と氷を削る小気味いい音がする。


「それにしても、上手いね」


 俺は悔し紛れに言った。


「そりゃあね。私、こういうの得意だから」


「そっくりさん業の一環で?」


「ふふっ、そうそう。バラエティ番組の『氷上大運動会』とかで華麗に滑る姿を地上波で流されてるからね」


 七瀬さんは少し笑って、またクルクルと回り始めた。なるほど、プロ意識が高い。本物の『夕薙凪』がスケートが得意かどうかは知らないが、もし本物が滑れなかったとしたら、七瀬さんは「滑れない演技」も完コピするつもりなのだろうか。


 その努力の方向性は少しズレている気がするが、彼女らしいと言えば彼女らしい。


 俺はずりずりと足を動かし、手すりを磨くように前進した。これならナメクジといい勝負ができる。そんな俺の横を、七瀬さんは行ったり来たりしながら、暇つぶしのように話しかけてくる。


「見てよ、あそこの高校生カップル」


 彼女が顎でしゃくった先には、リンクの中央でお互いの手を握り合い、へっぴり腰で支え合っている男女がいた。


「初々しいねえ。付き合いたてなのかな? 相手の顔を見る余裕すらないみたい」


「お互いに転ばないように必死なだけじゃない?」


「ロマンがないなあ。ああやって吊り橋効果を共有してるんだよ」


「共有した結果、二人まとめて骨折したら目も当てられないよ」


「じゃあ、あのおじさんは?」


 彼女が指差したのは、リンクの隅で一人、黙々とバックスケートの練習をしているジャージ姿の男性だ。誰とも目を合わせず、ひたすら氷と対話している。


「彼の前世はアメンボだったに違いないよ」


「アメンボって氷の上滑るっけ?」


「や、イメージだよ、イメージ。水面を滑るように生きてきたんだよ、きっと」


 どうでもいい会話をしながら、俺たちはリンクの端をゆっくりと進んだ。


 俺が必死に手すりを磨いている横で、彼女は両手を広げたり、片足立ちになったりと、自由奔放だ。


 変装をしていても、その立ち振る舞いからは隠しきれない華がある。すれ違う人々が、ふと彼女を目で追うのがわかった。


「ね、陽介」


「何?」


「そろそろ手すりと絶交して、真ん中の方に行ってみない?」


「俺と手すりは一蓮托生なんだ。墓場まで持っていく友情を誓い合った仲だからさ」


「重いなあ……友情が」


 七瀬さんは呆れたように笑うと、不意に俺の右腕を掴んだ。


「わっ、ちょっ……!」


「大丈夫、私が手すりの代わりになってあげるから」


「七瀬さんの腕はステンレス製なの!?」


「ステンレスより温かいよ。ほら、行くよ」


 有無を言わさぬ力で、俺は安全地帯から引き剥がされた。氷の海に放り出された難破船のような気分だ。頼れるのは、七瀬さんの細い腕だけ。


「足元を見ないで、進行方向を見る。自転車と同じだよ。力を抜いて」


 七瀬さんが俺をリードするように、少し前を背面で滑る。彼女に引かれる形で、俺の体も自然と前へ進んだ。


 不思議だ。手すりにしがみついていた時よりも、安定している。彼女の手のひらは小さくて、でも力強い。手袋越しの感触が、命綱のように頼もしく思える。


「……意外と、滑れるじゃん」


 七瀬さんが手を見ていた顔を上げて言った。その顔が、思ったよりも近くにあった。ニット帽からこぼれた髪が、風に揺れている。伊達メガネの奥にある瞳が、悪戯っぽく俺を見上げていた。


「七瀬さんが引っ張ってくれてるからね」


「ふふっ。任せなさいよ。全部引っ張るからさ」


 その時だった。近くを滑っていた子供が派手に転び、その煽りを受けて、避けた男性が俺たちの進行方向へよろめいてきた。


「っと……!」


 俺はとっさに避けようとして、当然のようにバランスを崩した。スケート靴のエッジが虚しく氷を削り、体勢が後ろに傾く。


「陽介!」


 七瀬さんが俺を支えようと手を伸ばす。しかし、物理法則は残酷だ。俺の体重と加速度は、彼女の華奢な体幹で支えきれるものではない。俺たちは二人もつれ合うようにして、氷の上に倒れ込んだ。


 ドサッ、という鈍い音と、氷を打つ冷たい感触。だが、背中や頭に走るはずの激痛はなかった。代わりに、柔らかい重みと、ふわりとした甘い香りが俺を包んでいた。


「……っつ〜」


 目を開けると、すぐ目の前に七瀬さんの顔があった。彼女が俺の上に覆いかぶさるような体勢になっている。俺を庇おうとして、逆に巻き込んでしまった形だ。


 近すぎる。


 マフラーから覗く白い肌や、少し潤んだ瞳が、ハイビジョンの解像度で迫ってくる。周囲の喧騒が、一瞬だけ遠のいた気がした。氷の冷たさが背中から伝わってくるのと対照的に、密着した彼女の体温が熱いほどに伝わってくる。


「……大丈夫?」


 七瀬さんが、ポツリと囁いた。


 吐息がかかる距離だ。


「あ、ああ……うん。ごめん、巻き込んだ」


「ほんとだよ……意外と、重いんだから」


 彼女はすぐには退こうとせず、俺の胸元に顔を埋めるようにして、小さく笑った。その「重い」という言葉が、体重のことなのか、それとも別の意味を含んでいるのか。俺の鈍い頭では解析不能だった。


 ただ、心臓の音がうるさいくらいに鳴っているのだけは自覚できた。これが吊り橋効果というやつなら、確かに効果は絶大だ。


『えー、これより整氷作業を行います。滑走中のお客様は、速やかにリンクの外へ移動してください』


 無機質なアナウンスが、世界を現実に引き戻した。俺たちは慌てて体を離し、逃げるように立ち上がった。周囲の視線が痛い。特に先ほどの「安全保障条約」を結んでいた高校生カップルが、何とも言えない顔でこちらを見ている気がする。


 リンクから追い出された俺たちは、ベンチに並んで座っていた。


 手には自販機で買った温かい飲み物。俺はブラックコーヒー、七瀬さんはココアだ。いつものレモンの缶チューハイではないところが、なんとも健全で、逆に落ち着かない。


「……結局、まともに一周もできなかったな」


 俺は缶の温かさを指先で感じながら言った。


「そうだね。陽介、手すりと友達になっただけだったね」


 七瀬さんがココアを一口飲んで、ほう、と白い息を吐く。その横顔は、少しだけ赤らんでいるように見えた。寒さのせいか、それともさっきの転倒劇のせいか。


「まあ、手すりの強度は確認できたし。ここの施設は安全だよ」


「ふふっ。それはよかった。陽介の地味な任務も達成されたわけだ」


 彼女は楽しそうにクスクスと笑う。その笑顔を見ていると、筋肉痛確定の明日のことも、ずぶ濡れになった背中の冷たさも、どうでもよくなってくるから不思議だ。


「次はもっと上手く滑るよ。私、コーチしてあげるから」


「勘弁してよ。俺は陸上の生物として生きていきたいんだ」


「だーめ。回数券、買っちゃったもん。偶数枚だから使い切るには二人で来ないと面倒なことになっちゃう」


 七瀬さんがポケットからひらひらとチケットを取り出して見せた。いつの間に。


「遊び倒す気だね!?」


「ふふ。覚悟してね、陽介」


 整氷車が唸りを上げて、傷ついたリンクを平らに均していく。俺たちの関係も、こうやって綺麗に均してしまえれば楽なのかもしれない。だけど、彼女がつけたエッジの跡は、俺の中で簡単には消えそうになかった。


―――――

新作始めました。

『魔王様と公園で鳩に餌やりをしています』

https://kakuyomu.jp/works/822139842026418764

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河川敷で人気アイドルのそっくりさんと夜な夜な飲んでます 剃り残し@コミカライズ開始 @nuttai

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