第27話

 夜空を光の点がゆっくりと横切っていく。いつもの河川敷、缶チューハイ2本分の距離を空けて二人で空を見上げていた。


「あれ……ドローンかな?」


「や、夢がないね。流れ星かもしれないよ?」


「あんなに点滅する流れ星ある!?」


「確かに。ドローンじゃなくて飛行機かもね」


「飛行機かぁ……」


 あの光の上には、何百人もの人が乗っていて、それぞれに違う目的地がある。そう考えると、なんだか不思議な気分だった。


「どこに行くんだろうね、あれ」


「さあね。国内かもしれないし、海外かもしれない」


 七瀬さんは空を見上げたまま、可愛らしい声でそう言った。


「海外かあ。いいなあ。俺、パスポートは持ってるけど、最後に行ったの、大学の卒業旅行だよ」


「どこに行ったの?」


「ありきたりだけど、台湾。小籠包を食べたり。あと、夜市の匂いがすごかった。いろんな匂いが混ざり合って、むわっとしてて」


「わかる。匂いって、記憶と一番強く結びついてる気がする。金木犀の匂いがすると、高校の時の通学路を思い出すし、雨が降る前の、アスファルトの匂いがすると、子供のころの夏休みを思い出す」


「ああ、分かる分かる。俺は、クレヨンの匂いをかぐと、ばあちゃん家を思い出すんだよね。仕事柄、いろんな画材の匂いをかぐけど、クレヨンの匂いだけは特別。ばあちゃん……ってなる」


 他愛のない連想ゲームみたいに、会話がぽつり、ぽつりと繋がっていく。この、無理に言葉を探さなくてもいい沈黙と、ふとした瞬間に始まる雑談のバランスが、俺は好きだった。


「ね、陽介。飛行機って、よく考えたらすごいよね。あんな鉄の塊が空を飛んでるんだから」


「そうだね。魔法みたいだよね」


「魔法、か。いっそ、本当に魔法が使えたらいいのに」


「使いたい魔法あるの?」


「アバダケダブラ」


 七瀬さんは軽やかな指揮者のように指を動かした。


「死の呪文!? 俺って殺されちゃうの!?」


「ふはっ……冗談だよ。ちなみに陽介は何?」


「俺? 俺はもう、一択。瞬間移動」


「それ、どっちかと言えば科学じゃない? ワープでしょ?」


「魔法で瞬間移動ができるものとする。発達した科学は魔法とは見分けがつかないって言うじゃん。逆説的に、魔法でも瞬間移動はできる、と」


「や、ズルいなぁ。それって……どこか行きたいところでもあるの?」


「会社かな」


「うわぁ、社畜だ」


「けどさぁ……毎朝、家から会社までの通勤時間が往復で一時間。一ヶ月で……えーと、約20時間。年間にしたら200時間以上? その時間があったら、どれだけ本が読めて、映画が観れて、ゲームができるか。人生の幸福度が爆上がりするよ」


「確かに。通勤時間ってお給料の発生しない労働みたいなもんだもんね」


「でしょ? それに、忘れ物した時とかも便利じゃん。『あ、スマホ忘れた!』ってなっても、一秒で家に戻れる。昼休みになったら、北海道に飛んでラーメン食べて、午後には会社に戻れる。それに……ここにもすぐに来れる」


「ほっ……」


 七瀬さんは変な声を出して前を向いた。耳が赤いのは酔っているからだろうか。


「なっ、なるほどね!? ここにそんなに早く来たいんだ!? りっ、理由は!?」


「理由……? ここに来る途中に急な階段があってさ。登るとキツイけど避けると遠回りになるから、瞬間移動だと楽だなって」


 俺が素直に理由を告げると、七瀬さんは俺の方をジト目で見てきた。


 唇を尖らせたまま「アバダケダブラ! アバダケダブラ!」と連呼してきた。


「七瀬さんが魔法が使えなくて良かったよ……」


「や、けど陽介って魔法効かなさそうだし。幻術とか状態異常系とか、ステータスを下げるタイプの魔法とか全部無効化しそうじゃん」


「そっ、そうかな……? よくわかんないけど照れるなぁ……」


 俺は笑いながら頭をかく。七瀬さんはニヤリと笑い「皮肉耐性も二重丸」と呟いた。


「皮肉だったんだ……」


「や、まぁ望むことを言って欲しいわけじゃないし。そこが陽介らしくて良いんだけどね」


「ちなみに……望むコメントってどう言うの?」


「や、例えばね。例えばだけど……『七瀬さんに早く会うために瞬間移動したいんだ』とかさ」


「あー……それは大前提だから意識してなかったなぁ……楽しみだからいつも早足……っていうか駆け足で来てるし」


「あっ、アバダケダブラ!」


 七瀬さんは顔を赤くしてまた死の呪文を放ってきた。


「なんで!?」


「防衛! 心理的攻撃を受けたから防衛してる!」


「まっ……まあ、俺のはこんな感じかな……七瀬さんは? 何かある?」


 俺が尋ねると、七瀬さんは、さっきまで浮かべていた楽しげな表情や暴れている感情をすっと消して、黙り込んだ。


 彼女は缶チューハイを持ち、川の向こう岸に広がる街の光をじっと見つめている。その光が、彼女の瞳の中で、小さな宝石みたいにきらきらと反射していた。


 長い沈黙の後、彼女は、ぽつりと言った。


「……透明人間、かな」


 予想外の答えに、俺は少し驚いた。瞬間移動みたいに、便利さを求めるものではない。どちらかと言えば、物語の中の、少しダークな響きを持つ魔法だ。


「透明人間かぁ……」


「ん。透明人間。服も一緒に透明になるタイプね。全裸にはならない」


「全裸かどうかの設定って詰めとく必要ある!?」


「や、大事じゃん? 私が全裸で透明人間をしてるのか、着衣透明人間なのか。前者だと服が浮いちゃうから全裸確定じゃん。好きな場所で透明化を解除できないから着衣透明人間一択だよね」


「えっ……言われてみたら全裸透明人間にメリットなくない? 下位互換だ」


「ん。そうだよ。しいて言うなら個人の性癖が満たされるとかじゃない? ま、私はそういうのはないから着衣透明人間で」


「……ちなみに何するの。性癖は別として……こっそり悪いことするとか?」


 俺が冗談めかして言うと、彼女は力なく首を振った。


「や、そういうのじゃないよ」


 彼女は、一度、言葉を切った。そして、まるで、心の奥底から、大事な宝物を取り出すみたいに、ゆっくりと、静かに続けた。


「誰の視線も気にせずに、一日中、ただの景色として街を歩いてみたいから」


「全裸で?」


 七瀬さんは「服は着てるから〜」と笑いながら俺の肩をべしべしと叩いてくる。


「後は、カフェのテラス席に座って、行き交う人たちを、何時間でもぼーっと眺めてたい。本屋さんに入って、床に座り込んで、誰にも邪魔されずに一日中、本の匂いを嗅いでたい。有名店の行列に並んでみたい」


 それは、あまりにもささやかで、そして切実な願いだった。


 俺たちが当たり前に享受している、誰にも注目されない自由。彼女にとっては、それが魔法を使わないと手に入らない、特別なものなのだ。


「そっくりさん」として生きるということは、常に誰かの視線に晒されるということなのだろうか。「本物」と比べられ、評価され、時には好奇の目に晒される。俺が想像するよりもずっと、息苦しい世界なのかもしれない。


 彼女が抱えるものの大きさや、その痛みの深さは、きっと俺には本当の意味では分からない。でも、彼女が今、すぐ隣で、少しだけ寂しそうにしていることは、分かる。


 俺は、なんて声をかければいいのか分からなくて、とりあえず、自分の気持ちをそのまま口にした。


「……透明だと、行列は飛ばされちゃうね」


「ふふっ……確かに。意味ないね。じゃ……誰も私を私と思わなくさせる魔法とか」


「七瀬さんを見て、夕薙凪だと思わせなくするってこと?」


「ん。そう。幻術魔法だよ」


「なるほどなぁ……それなら透明にならなくても済むね」


「陽介はどうやって魔法にかかったの? さっきの設定だと幻術魔法は効かないって話だったのに」


「それは七瀬さんが勝手に決めたやつだし……そもそも俺ってかかってるの!? 何に!? いつから!?」


「ふふっ、アバダケダブラ〜」


 七瀬さんはネタバラシはしないと言いたげに笑いながら俺の頬をつついてきた。


―――――


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