第3話 渡し船
1 出発
彼はN村について調べていた。
「ここか......」
空いた口が塞がらないほどの田舎であった。ネットで散見されるN村の画像を見るに、生活に苦労することは間違いないことがわかった。
N村は樹海を挟んだ富士山の麓にあった。東に幾分か進めば、かの天下茶屋があるようなところで、西湖や河口湖のほとりにあると言った方がわかりやすいであろう。
「富士には月見草がよく似合う」とよく言ったものだが、厠の窓から見るものと、温もりあるヒノキの縁側であぐらをかいて見るものでは話が変わってくる。N村は前者の方である。かの天下茶屋とは違って、低地でジメジメした上に、人気を寄せ付けない荘厳な樹海と接している村であるから、他の街からは嫌厭されるような場所である。世の人々からは知らない場所と言うよりは、知りたくない場所として憚られて、できることなら時勢という名の水に流してしまいたいような村のように思えた。こういう事情があって、彼女は素性を隠したがっているのではないかと彼は勘ぐった。
8月18日。その日は朝から雨が降り続いていた。
政宗は彼女と新宿で落ち合うことになっていたが、夜分遅くの出発ということもあって、日が登っている内は呑気に荷造りをしていた。
新宿に着くと雨が止むどころか、かえって強まっていた。新宿駅の南口では、轟轟と降り続ける雨に歩く気力を奪われた人々が、傘を片手に茫然と雨宿りをしていた。政宗はその人の波を縫うようにしてバスターミナルに向かった。
階下にいた政宗がバスターミナルのエスカレーターの向こうを見上げると彼女がすまし顔で待っていた。気づいていないようである。
(あの人のことだ、きっと怒られない)
彼はそれでもと、駆け足でエスカレーターを登った。すると彼女はふと我に戻ったかのように笑顔を振りまいた。
「待ちました?」
「ううん、まったく」
「良かったです」
裂けんばかりに口角を吊り上げて笑っているようだが、目が笑っていない。
2人は互いに絶妙な距離感を保ちながら、22時発の夜行バスに乗り込んだ。夜中で景色など見えるはずもないのに、彼女は窓側の席を譲って欲しいと彼にせがんだ。
バスが出発すると、横風荒ぶ暴風雨の中でもみくちゃにされているような乗り心地になった。洗濯機の中にいるような乗り心地を気にもかけない彼女の横顔からは、えもいえぬ哀愁が漂っていた。
政宗は他のお客さんが寝ない内に、彼女と話したかった。
「僕、調べてきたんです。N村について」
「どうだった?」
「え、それは......その」
「高校がないって思ったでしょ」
「はい、まさしく。まさかですけど、引っ越したりはしてないですよね」
「まさか、そんなことするほどお金ないわよ。しょうがないから、隣町の高校に通うことにしたの」
彼女は雨が打ちつける窓から目を背けて俯いた。
「私高校でいじめられてたの」
彼女の哀愁の原因はそれであった。
「それは知りませんでした。地元に帰るのは辛くないんですか?」
「そうね......お父さん独りだし、たまにこうやって行ってあげないと可哀想じゃない?」
彼女は悲母観音のような柔らかい笑みをこぼしながら言った。
「お母様は?」
「死んじゃったよ。私を産んですぐにね」
「難産だったんですね」
「そうなの」
彼女はそう言うと体を伸ばして、軽いため息をついた。
「ほんっと、大変だったんだから。お母さん死んだのもそうだけど、うちの村はよそから憚られてるから大変だったの。高校行くと『獣くさい』とか散々言われてさ......帰ってみたら父さんが家で変な儀式やってるしね」
「儀式?」
「新興宗教よ。うちの村の人たちはほとんど入信してるわ」
「そ、そうなんですか。それで奈那子さんは入信してるんですか?」
「一応ね。子供の頃とかはそれでも信心深かったのよ」
「なんでですか?」
「父さんに気に入られたくてね。今も私の根底には信仰心みたいなものはあると思ってるわ」
「そうですか......」
それ以上は聞きたくなかった。政宗は、彼女が自分に優しくする理由が、その信仰心にあるとすれば、今までの包容力はすべて目的だったのかもしれないと考えてしまった。
「お父さんがなんでも教えてくれるよ」
彼女はそう言って深い眠りについた。
2 父
早朝。昨日の雨が信じられないほど晴れていた。
彼女はごわごわとした政宗の太ももに手のひらを置いてさすってやった。
「朝っぱらから厭らしいですね」
「初めての朝じゃない?」
「そういや、そうですね。だからと言って太ももをさするのやめてください」
「あっ、そう」
彼女が政宗の家に来た時は泊まらなかった。彼女は「終電逃した」という決まり文句を心の底から嫌っており、吐き気がする程あざといと思っていた。そのためか、あの日は終電の3本前の電車でそそくさと帰っていた。政宗に神社横のホテルで抱かれた時から、彼女の貞操観念は高まっていた。だから、政宗もその日以来、一度も彼女を抱いていない。
2人は駅に着くと一息つく間もなくN村に向かった。
「N村って明るい内に行かないと怖いのよ」
「そうは言っても早すぎませんか?」
「いやなの、早く行きたいの」
彼女の悄然とした顔を見ていると、これから地元に帰る人のようには到底思えなかった。
30分程電車に揺られていると終点を知らせるアナウンスが不気味に流れた。思えば、さっきから乗り降りする人の影が見えない。彼は慌てたように車両の中を見回したが誰もいない。ただただ、この電車は河口湖町の空気をN村まで運んできたに過ぎなかったのである。
N村の駅は栄枯盛衰すら思わせない根っからの無人駅だった。年季の入ったヒノキの壁は煤がついたように黒ずんでいて、ところどころ腐食している。隙間風が通りそうな穴ぼこには外側からトタンが貼り付けてあって、僅かながら人々の営みを感じることができた。
「いやぁ、着きましたね」
「まだよ」
「え?」
「ここから1時間歩くの」
「えぇ、そんなぁ。バスとかないんですか?」
「あるわよ」
「ならっ!......」
「けど、3時間も待てる?」
「あ」
「そういうこと」
彼は田舎に対して無知だったし、己の無力さというものを感じた。彼は埼玉に生まれてこの方、県外から出たことがなかった。デカルトの「方法序説」を部屋で読み漁って満足する程度の人間だったかもしれない。彼女がいつか言った「百聞は一見にしかず」とはこのことだった。実際にその場所に行ってみなければ分からないことは五万とある。彼は、自分のような都会人気取りの自称教養人が、いかに無知で、愚かかということを身に沁みて感じた。
歩いて1時間ほど経つと沢に着いた。沢には苔むした石橋がかかっており、川を挟んだ向こう側は樹海の暗闇に包まれていた。
彼が橋を渡ろうとした時、袂に瓦版のような看板があることに気がついた。
「命は親からいただいた大切なもの......」
「どうしたの?」
「この看板が気になって」
「あぁ、それね」
彼女は感慨深く言った。
「私この看板に勇気をもらってたの。登下校の時必ずここを通るんだけど、学校で嫌なことされて帰ってきた時にこの看板見るとね、お母さんのことを想像するんだ」
「亡くなったお母さんのですか」
「顔も知らないけど、お母さんも私の顔なんて知らないからね」
「奈那子さんを産んですぐに亡くなられたんですよね」
「そう。だから、お互いに顔を知らないの」
「お母さんのこと本当に好きなんですね」
「そうなの。お父さんには感謝してるけど」
「けど?」
「好きじゃないの」
彼女は立ち止まった。その瞬間、静寂だった森の中が鬱蒼と騒ぎ立ち始めた。
政宗は立ち止まった彼女の送る視線の方へ目を配ると、かすかに人の影が見えた。
「あれは......?」
「お父さんよ」
政宗は血の気が引くのを感じた。もはや、自分が生きているかどうかも危ういくらいに、体の先々から力が徐々に抜けていくような心地だった。
萎縮する政宗と奈那子に歩み寄っていた父の影は、一定の距離を保つと立ち止まった。
すると突然、
「奈那子!!!」
と、その影が叫んだ。
「何!? お父さん!」
「おかあがな! 生き返った!」
それを聞いて政宗は驚嘆したが、彼女はいつものことだと聞き流していた。
「おまんの隣にいるのは誰だ!? もしや、弟じゃあらんな!?」
政宗は錯綜する情報の中で混乱していた。弟がいたということも知らなかったし、何より彼女の母が生き返ったということも信じ難かった。
彼女は父の問いに答えないまま政宗の方に振り向いた。無言のまま見つめる彼女の目には、募り募った負の感情が濁った涙となって現れていた。
樹戒 @masamune1992
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