第2話 疑念

1 贖罪

 決まりが悪くなった彼は彼女をおいてホテルを颯爽と出た。眠らない街を誇る渋谷だと言うのに、ホテルを出ると外は逢魔時が如く暗然としていた。彼は狭い道を走ると懐に違和感を感じ、羽織っていたシャツの胸ポケットを弄った。すると、いくらかの金が入っていた。彼はますます罪悪感を感じて、現実逃避のために直走った。すると道が徐々に開けて、向こう側には街のネオンが見えた。通りに出た彼は逃げるように渋谷駅の改札に向かった。終電があるかどうかは二の次だったが、駅に着くとまだ何本か電車が残っていたことに気がついた。


(これで帰れる)


 彼は駅のホームで呆然と立ち尽くしていると、稲妻が走ったかのような着信音が鳴った。


「電話? げ、奈那子さんからだ」


 マッチングアプリの通話機能で電話をかけてきたのである。彼は「もうすぐ電車が来るから後で折り返し連絡します」とだけ文体で告げてスマホをそそくさとしまった。

 家に着くと彼は折り返しの電話をした。


「もしもし」

「政宗くん? 今日はありがとね」


 予想外の返事だった。お金まで貰っといて感謝される義理はないはずである。


「今日は本当にごめんなさい」

「え、何が?」

「え......」


 彼は閉口した。


「その、ホテルのお代も払わないで勝手に帰っちゃって」

「そんなこと? お金なんてどうでもいいの。それよりまた会いたいなって」

「はぁ」


 彼にとって自分を好いてくれる人がこの世にいるなんてことは信じがたいことであった。それと同時に、この先こんな出会いは一生に一度たりとも巡ってこないだろう彼は焦燥していた。


「私もまた会いたいです」


 政宗はこの人と添い遂げる気持ちで言った。


「良かった。じゃあ、来週の火曜日会える?」

「大学のレポートが忙しいくて」

「7月の末だもんね。学期末だから忙しいか」

「大丈夫です。早く終わらせればいいだけなので」

「じゃあ、そうしてもらえる?」

「はい」

「じゃあ、またね」


 思いの外彼女の態度はサバサバしていた。予定が決まると声色が天地をひっくり返したように変わったこと。そのことに彼は驚いた。


2 素性

 当然、レポートは終わらなかった。

この間にも彼女との連絡は怠らなかった。彼女の素性だとかについては未だ何もわからない。唯一わかるのは名前だけである。かえって何も知らないことが彼の想像を掻き立てていた。彼が高校生だった頃、ある女の子を異常なまでに好きになったことがあった。彼の内気な性のせいで最後まで話すことができなかったが、彼はその状況をある種楽しんでいた。彼女は隣町の中学校の出身だとか、彼女はダンスが得意だとか......考えればきりがない。逆に考えるだけの余地がある、すなわち楽しむだけの余地があると考えていた。とはいえ例の奈那子に関しては、楽しむ以前に踏み入ってはいけないもの感じてしまう。もはや今の彼は、状況を楽しんでいるかつての傍観者のような余裕などない。それどころか、彼女の内に取り込まれってしまっている。そんな気さえした。取り越し苦労に明け暮れたばかりに夜も眠れず、レポートも手につかず、デート当日は当然のように寝坊した。


(彼女なら多めに見てくれるだろう)


 と、淡い期待を抱いて池袋駅前の広場に行くと案の定彼女は許してくれた。


「髭伸びた?」

「そうかもしれないです」

「政宗くんって童顔だけど髭が似合うのね」

「そ、そうですか」


 政宗ははにかみながら髭が伸びた顎をさすった。


「また渋谷ですか?」

「違うよー。今日はデートっぽいことしよ。ね?」

「は、はい」


 政宗は彼女を抱いている。しかし、その魅力は枕を一回共にした程度で損なわれることはなかった。

 すると彼女は、目線の置き場に困ってどもる政宗の腕に、自分の腕を絡めてやった。


「行くよ」

「どこに?」

「そんなん成り行きに任せようよ」


 この日は特段進展がなかった。

 量の割に高い喫茶店で3時間もだべった後に、カラオケで喉を潰した。帰る頃には互いに疲弊していたが、気持ちのいい別れ方ができた。

 ここにきて政宗の懸念は取り除かれた。もう彼女に対する疑念は消え失せていた。


「早く会いたいです」


 彼は家に着いたやいなや、間髪入れず電話した。


「来週の月曜日でいい? その日しか会えないかな」


 彼女はいつも嫌なタイミングを選ぶ。


「8月の4日ですか......」


 確かに、大学はもう夏休みに入っている。しかし、世の大学生の宿命とも言うべきものが彼を待ち伏せていた。


「就活のキャリア説明会が入ってて」

「えー、この日会えなかったら当分会えないかもよー」

「そう言われても」

「私もキャリア説明会行ったけど、別に休んじゃっても問題ないよ」

「でも......」

「政宗くん要領いいから、とんずらこいても大丈夫だよ」

「その言い方やめてください」


 と、苦笑をこぼした彼はとんずらこいた。

 その日、彼女は彼の家で過ごすことにした。前日のメールで「暑いから政宗くんの家で過ごしたいかも」と彼女が我儘を言ったために、政宗は部屋をろくに片付けることができないままデート当日を迎えた。

 彼女は昼過ぎに政宗の家に着いた。彼女は暴風が強襲してきたかのように、扉をドンドンと叩いた。


「待ってましたよ。てか、何でインターフォン使わないんですか?」

「田舎者の名残でね」

「田舎でもインターフォンくらいありますよ」

「もうっ、いいから早く中に入れて!」

「はい、はい」


 彼女の白いワンピースには、体の線に沿ってできた汗の大河が流れていた。


「思ったより綺麗な部屋だね」


 彼女は床に落ちているゴミを踏みながら言った。


「お世辞早めてください」

「えー、だって本当じゃん。他の男性だったらもっと汚いことあるから」

「見たいことあるんですか?」

「え?」

「他の男性の......部屋」

「内緒だよ」

「ふーん」


 何が訳がありそうだった。抜け殻になった彼女をホテルに置いたまま逃げ去ったあの日の政宗の顔に似ていた。何か人に言えない業を背負っている悲壮な顔だった。

 彼女は顔をこわばらせたまま、雪のような垢が積もったベッドに腰掛けた。


「こないだのデートの時に聞けなかったんですけど、出身のことについて詳しく聞きたくて」

「出身は山梨県のN村ってところ」

「へぇ、聞いたこともないです」

「今度行ってみる?」

「えらい急ですね」

「百聞は一見にしかずよ」

「まだ百聞もしていないように思うんですけど」

「いいから行ってみない? 旅費出すよ」

「そこまでいうなら」

「やったっ。じゃあ、再来週の金曜日に行こうね」

「まだ予定が決まってないからわからないですけど」

「今決まったじゃない」

「わかりました。行きます」


 政宗は彼女の圧に耐えられなくなって折れてしまった。歳上というのもあって強く言え上、彼女の子供のように無邪気な顔を見ていると断るのが申し訳なくなってしまう。彼女の我儘に付き合ってしまうと、気づいた時には北極なんかにいるのではないかとも思ってしまう程、彼は彼女の手のひらで遊ばれているようだった。


(けれど、N村ってどこかで聞いたことがあるよな)


 政宗は妙に喉がつっかえたような気分でいた。というのも、死んだ彼の父は山梨県の生まれで、河口湖町の西に生家があると母から聞いたこがあった。父は生前、素性にまつわることはほとんど喋らなかった。その生家というのも、現にそこにあるのかどうかすらわからない。父が死んでしまった以上、すべてが山の中に葬られたも同然である。その葬られた真実を探るためにも、彼女の出身だというN村に行くべきではないかと彼は考えた。

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