第11話「田辺先生の話」

 午後の国語の時間、田辺先生は古い書物を手にして教室に入ってきた。


「皆さん、今日は特別な話をしましょう」


 先生の声がいつもより真剣に聞こえる。


「文字の持つ力について、古い文献ぶんけんに記された興味深い記録があります」


 みずきの背筋せすじがぴんと伸びた。


「この書物は、江戸時代の学者が書いたものです」


 先生は大切そうに古書を開いた。


「昔の人々は、文字を書くという行為を、とても神聖なものだと考えていました」


 クラスの生徒たちは静かに聞いている。


「特に、心を込めて書かれた文字には、書き手の想いが宿ると信じられていたのです」


 想いが宿る。みずきは万年筆のことを思った。


「先生」


 みずきは思い切って手を挙げた。


「はい、みずきさん」


「その…文字に想いが宿るというのは、どのような意味でしょうか」


 先生は優しく微笑んだ。


「良い質問ですね。例えば、病気の人の回復を願って書かれた文字や、大切な人の幸せを祈って書かれた文字は、ただの文字以上の力を持つと考えられていました」


 みずきの心臓がどきどきした。


「その力は、どのように現れるのでしょうか」


「古い記録によると」


 先生は慎重に言葉を選んだ。


「純粋な心で書かれた文字は、時として小さな奇跡を起こすことがあったとされています」


 小さな奇跡。


「でも先生、それは迷信ではないのですか」


 クラスの男子生徒が質問した。


「確かに、新しい学問の考え方では迷信と言われるかもしれません」


 田辺先生は少し考えてから答えた。


「しかし、文字を書く時の集中力や、相手を思う気持ちが、何らかの形で現実に影響を与えることは、全くないとは言い切れないでしょう」


 小瑠璃こるりも興味深そうに聞いている。


「先生、古い時代には、特別な筆や墨があったのでしょうか」


 恵奈えなが質問した。


「ええ、そのような記録もあります」


 先生は本のページをめくった。


「職人が心を込めて作った筆や、特別な方法で作られた墨は、普通のものとは違う力を持つと言われていました」


 みずきは鞄の中の万年筆を意識した。


「そのような道具と、書き手の純粋な心が合わさった時、文字は特別な力を発揮すると信じられていたのです」


 授業が終わっても、みずきは席を立てなかった。


 先生の話は、まるで万年筆のことを説明しているようだった。


「みずきさん、何か質問がありますか」


 教室に二人だけになった時、田辺先生が優しく声をかけた。


「あの…先生は、そのような力が本当にあると思われますか」


 みずきは勇気を出して聞いた。


「みずきさん、あなたは何か不思議な体験をしたのですか」


 田辺先生の目が、みずきを見つめた。


「わたしは…」


 みずきは迷った。この人なら、話しても大丈夫かもしれない。


「もし、仮にですが…文字を書いて、何かが起こったとしたら」


「それは素晴らしいことですね」


 先生は静かに答えた。


「もしそのような力があるなら、それは大きな責任も伴います」


「責任?」


「人を幸せにする力は、使い方を間違えると、人を傷つける力にもなりかねません」


 田辺先生の表情が真剣になった。


「大切なのは、その力を正しい心で使うことです」


 みずきは深くうなずいた。


「先生、ありがとうございました」


「みずきさん、何かあったら、いつでも相談してください」


 みずきは教室を出た。


 田辺先生の言葉が、心に深く響いていた。


 万年筆の力は本当にあるのだ。そして、その力には大きな責任が伴う。


 みずきは、その重さを改めて感じていた。

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