第4話:裂けた空の下、真理に届かぬ模倣
天の輪郭が、かすかに軋んでいた。
空はどこか薄く、灰と銀を溶かしたような色に染まり、
高台に築かれた観測塔「エルナ・ヴィレータ」は、まるで世界の端に生えた知の芽のように静かに呼吸していた。
騎士は、兜越しに塔を見上げていた。
回転する歯車式の天球儀、その中心に据えられた観測塔。
外装には、上位構造の数式が無数に刻まれている。
「……神の体系に触れようとした者どもか」
静かに剣を下げたまま、騎士は街へと踏み入れる。
——と、
鈴の音のような、しかし骨を擦るように乾いた音が、地に響いた。
目の前の路地に、数人の白衣の男たちが現れる。
背に幾何学の刺繍、腰には金属細工の装飾を施した杖。
観測塔の主であろう彼らは静かに騎士を見据え、円陣を描くように道を塞いだ。
「第一使徒。あなたの剣は、理を断てぬ」
声は、決して怒号ではなかった。
それは、あくまで知る者の口調だった。
「我らは知を求めただけ。祈るのではなく、観測しただけ。神に届かぬ声よりも、天を記述せんとしたまで」
騎士は応えぬ。
ただ、背に差した剣に手を添える。
「その知の果てに、何を見た?」
一歩、前に出る。
白衣たちが同時に杖を掲げる。
空間が歪み、魔法陣のような幾何学模様が足元に浮かび上がる。
重力場の反転、加速干渉、因果操作。
彼らはまだ不完全な術式を構築し、騎士を包囲する。
——放たれた第一撃。
白衣の一人が杖を振り下ろすと同時に、地面がねじれ、螺旋状にせり上がる。
騎士の足元から重力が逆転し、空へと引きずられる。
しかし騎士は剣を地に突き刺し、己の身体を留めた。
右から突進してきた別の術者へと、一閃。
鎧袖一触。刃は骨と血を穿ち、白衣の者は呻き声ひとつ上げて倒れた。
「構造に触れたつもりか。未熟」
再び背後から、炎を帯びた衝撃が走る。
騎士は半身をひねり、炎を肩に受けながらも、前に出る。
鎧が焦げ、肉が焼ける音が響く。
だが、彼女の剣は止まらない。
敵の術式に割り込むように斬撃が走り、幾何学模様が砕け散る。
白衣の一人が、恐怖に声を失った。
「なぜ……理を超えて来られる……ッ!」
騎士は応えない。
その問いは、彼女の“役目”には属さぬ。
最後に残った者が、叫ぶ。
「……我らは、主の影に過ぎぬ!あの方こそ真理に至る者! 貴様は何も知らぬ!」
騎士の動きが一瞬だけ止まる。
「主……?」
——その刹那。
目の前の者が構えた杖が、脈動し始める。
それは、まだ未完成の模倣呪式。
だがその輝きは、既に人の域を超え始めていた。
「……せめて、貴様を道連れに!」
杖が爆ぜた。
熱と光が暴走し、空間が歪む。
騎士は、その中心へと飛び込んだ。
肩が裂け、鎧が砕ける。
熱風が皮膚を剥ぎ、耳が焼ける。
それでも——剣は迷わず。
一閃。
彼の中心、心臓に届いた刃が、すべてを鎮めた。
——静寂。
騎士は地に膝をつく。
肩口から血が滴る。
それでも、立ち上がる。
倒れた男が、わずかに指を動かしながら、呟いた。
「……我らが主が……必ず……」
騎士は、黙して歩き出す。
観測塔が静かに崩れ落ちていく。
天は、何も語らなかった。
夜が深く沈んでいた。
かつて観測者たちの塔がそびえていた場所の外れ、崩れた小さな礼拝堂の片隅に、ひとつの影が膝をついていた。
焚き火がゆらりと揺れ、紅い光が石壁に踊る。
その中心で、騎士は黙々と手を動かしていた。
左肩の鎧はほぼ砕け、下の皮膚は焼け焦げていた。
彼女は革の紐を口にくわえ、ぐっと布を巻き締める。
滲み出た血が包帯を濡らすたび、顔がわずかにしかめられるが――声は漏れない。
傍らには、解体された鎧の部品が並べられていた。
火の明かりの中、金属片を砥石で削り、割れた部分に代わる補強をひとつひとつあてがっていく。
火花が散る。
金槌が石に触れる音が、夜の静寂を淡く裂く。
「……これで、良い」
兜を外した顔には、疲労の色がわずかに浮かんでいた。
だがその瞳は、まだ曇っていない。
焦げた金属の匂い、血の香り、火の音。それらをすべて抱えてなお、彼女はただ己の務めを果たす者として在った。
剣を傍らに立てかけると、最後にもう一度、右腕の包帯を締め直す。
かつてそこを貫いた矢の傷も、まだ完全には癒えていない。
だがそれでも、明日は来る。
次の道がある限り、止まることはない。
騎士は静かに立ち上がった。
火に背を向け、仮面をかぶる。
そして、誰もいない夜の街を、ただ歩き出す。
背後で、焚き火がパチリと音を立ててはぜた。
その小さな灯は、夜の闇に呑まれることなく、しばしそこに在り続けた。
翌日、塔の外れ。静かな川のほとりにて。
騎士は剣を研いでいた。血の錆が残るその刃を、黙々と磨き続けている。
それはもはや儀式のようでもあり、思考を無にするための習慣でもあった。
「ねえ、それって楽しいの?」
声がした。
柔らかくて、明るくて、どこか無邪気さを含んだ声音。
騎士が顔を上げると、少女がそこにいた。
黒い服を纏い、黒色の髪を風に揺らし、漆黒と真紅の目がこちらを覗き込むようにして笑っている。
「……誰だ」
「皇城澪音(すめらぎ みおね)。ここから少し離れた街でちょっとだけ偉い人間だよ」
彼女は屈託なく名乗った。
騎士は言葉なく、ただ視線を返す。
「君のこと、噂で聞いた。どこまでも真っ直ぐに歩いてきて、誰も歪まず斬ってきたって。だけど、私は……君に聞きたいんだ」
「君は、ほんとにこの世界が――『間違ってる』って、思ってる?」
騎士は返さない。
だが、澪音はそれでも構わず隣に座る。
「私はね、争いが嫌い。人が傷つくのを見るのが、本当に嫌なの。でもそれって、きっと弱い理想なんだろうなって分かってる。それでも……誰かに話したかった。……君になら、聞いてもらえる気がしたの」
風が吹き抜ける。
剣の刃に、陽が反射してきらめいた。
澪音は微笑んだまま、ふと小さく呟いた。
「君は、怖い。……でもね、優しさを捨てた人の目じゃない。だから、私は君と一緒に行きたい。一緒に見たいんだ、この世界の行き先を」
「私を、連れて行ってくれない?」
沈黙が落ちた。
やがて、騎士は立ち上がる。
剣を背に戻し、川面を見つめたまま、ひとことだけ答える。
「……勝手にしろ」
それは、拒絶ではなかった。
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