狸と柴犬と広田さんと
春日 いと
第1話
いつかこんな日が来ると知っていた。だけど、いつになったらその日がくるのか分からない。広田さんがそんな事を言った。何でもないような声で。
私はその話を右の耳で聞いて左の耳に流した。いつからか、左の耳はほとんど聞こえなくなった。治るかもと期待して医者に行った時には、もう遅かった。だから左の耳は出て行くだけの穴になった。
久しぶりに会った広田さんはスイカの匂いがしていた。
「スイカ、食べた?」
「いや食べてない」
戸惑ったように言う。だから私は頷いて、だったら今日一緒に食べたいなと笑った。広田さんは私の笑顔に、にっこりと応じた。そしてそっと手を握った。恋人繋ぎではなくて指の先を撫でるように。
「うん?」と私はそのままにした。
広田さんとは学生時代からの付き合いだから、いつの間にか十年近くになる。でも、私から誘ったのは今日で二度目。広田さんが聴いてみたいと言っていたギタリストのチケットが手に入ったから。そうはいっても、久しぶりのデートだからおしゃれをしてみた。細い肩紐の黄色いワンピースの裾が揺れる。
演奏会が終わったのは九時過ぎ。だから「ちょっと飲んで行こう」と誘われても、そんなに時間はないのは分かっていた。それなのに。
「今日はゆっくり出来ない」
広田さんは座ってビールを注文すると、すぐ宣言した。そしてホッケにサラダに卵焼き。「セットでいいよね」と独り言のように言いながら焼き鳥十本セットも頼んでいる。どうしてそんなに沢山注文したのだろう。だから「つくね食べたい」と言ってみた。そうしたら、「何でそんな物食べたいのかなあ」と言いながら頼んでくれた。
運ばれたつくねを見ていると、
「明日は早いから、だからね」と、言いだすので被せて言ってやる。
「私はこれからまっすぐ帰ったって十時半だよ」
弁解なんて聞きたくないと、つくねに卵の黄身を絡ませる。口に入れると、黄身がトロトロと喉をとおっていく。余った黄色が唇の右端から流れ落ちた。
「あなたのアパートは私んちよりずっと近いよね、もっと早く家に着くんでしょ」
行ったことのない広田さんのアパート。私は手の甲で唇を拭いた。ビールを喉に入れる。おいしい。広田さんは黙って焼き鳥の串を外しながらビールを飲む。私は串を持ってかぶりつくのが好きなのに、広田さんはちまちまと外している。仕方なく黙ってバラバラになって寂しそうなレバーを食べる。ああ、おいしい。
「うん、そうだね。ここからだと、君の家は遠いよね」
広田さんはやっと頷く。二度も三度も。それでも自分の家には誘わない。私のバッグには替えの下着とストッキングが入っているのに。
学生時代の広田さんは学生寮に住んでいたので、いつも私のアパートで一緒に過ごした。社会人になっても「時間が出来たから」とか、「近くに来たからついでに」とか言ってやって来た。それが、私たちの付き合い方になっていた。
どうして今日の感想を話さないのだろうか、私たち。「私たち」ではなくなったのだろうかと、小皿に取ったサラダの上に残っていた卵の黄身をかける。
よくそんな気持ちの悪い物を食べるなとでも言いたそうに広田さんは私の手元を見ている。だから、焼き鳥のももと皮もその上に乗せて、えいっと口に入れる。おいしい。ホッケの身をむしって口に入れる。おいしい、おいしいとビールで流し込む。もういい。これ以上はまずくなる。さあ、帰ろうと、中ジョッキに残っていたビールを飲み干して立ち上がる。
財布からお勘定の半分程度のお札を出してテーブルに置く。そして、
「じゃあ、遅くなるから、お先に」と軽く手を振って店を出る。駅までの道は夏なのにまるで木枯らし。背中から風がヒューヒュー吹き付ける。だから急ぎ足になる。
「ちょっと、待って」
広田さんが呼び止めた。早く帰るんでしょと無視して歩く。肩に引っ掛けていた明るいオレンジ色のショールが引っ張られる。仕方なく足を止めた。振り返ると、広田さんは何も言わないで立っている。だったらもういいから、もう飽きたからとホッケの匂いに寄って来た猫に言ってみる。そんな事を今更言ったってと、猫は太い尻尾を振り回して恫喝する。
「どっかへ行け、猫なんか嫌いだ」
四人連れの男性の笑い声が追い抜いていく。アベックが不思議そうに私たちを見ながら通り過ぎる。風まで不機嫌な高笑いを響かせた。広田さんは私をじっと見ながらやっとショールから手を離して、ズボンのポケットに手を入れた。私はショールを巻き直して黙って並んで歩く。
体中に残っているタンゴのリズムで歩いていると、さっきの猫が寄り添うように付いてくる。周りで柴犬までがワンワンとうるさい。広田さんは手を握って来た。家においでという誘いかなあと、つい思う。
「そんな事ぜーったいないよ」と、柴犬が笑うので、蹴っ飛ばしてやる。何さ、久しぶりの外でのデートだったんだよ。柴犬はキューン、キューンと尻尾を巻いて逃げていく。
ああいい気味と私は広田さんの手をほどいて足を速めて歩く。広田さんが私の歩調に合わせて後ろから付いて来るので、小走りになって改札口を抜ける。サンダル靴がカンカンと響いた。振り返らずに電車に乗って、気が付くと足元には太い尻尾の猫一匹。尻尾が楽しそうに揺れている。まるで狸だ。猫も狸もいらない。柴犬なら一緒に家まで連れて行ってあげるけど。
「じゃあ、一緒に帰ろう」と柴犬が笑った。いつの間にか私の前を先導するように歩いている。駅から我が家への少し暗い近道。だけど、柴犬と一緒だから平気だ。
玄関でサンダル靴を脱いで蹴飛ばす。ベッドに飛び込むと、猫が一緒にジャンプする。
「ただいまあ。疲れた」
広田さんが抱きとめてくれた。
「それで? 今日は何処に行っていたの?」
「アルゼンチンタンゴを聴きに行ったの」
「ああ、昔、僕も一緒に行ったね。大学時代だったか」
あーあ、広田さんったら忘れてる。
「違うよ。もっと後。狸に騙されたんじゃないの」
「ああそうか。そうだった。君が一人でつくねを全部食べた、あの時だね」
あれは広田さんに引っ張られて涙を流した日。
「で? ギター聴いたの? リベルタンゴとか?」
「うーん。哀しい曲ばかりだった。哀しいのは嫌だ」
私は広田さんに抱きついた。
「じゃあ、楽しかった場所に行ってくればいい」
「今が幸せ。こうしてただ一緒にいたい。ずっとくっついていたいの。そうだ。アルゼンチンに行こうかな。真夏の太陽がぎらぎらした国で明るいタンゴを聴きたいなあ。ねえ、行こうよ」
腕枕してもらいながら、ちょっと甘えて訴える。
「おやおや。今のアルゼンチンは冬だよ」
すっかり禿げ上がった広田さんが私の白い髪をなでる。
「冬? こんなに暑いのに?」
南半球だからねと広田さんは笑う。スイカの匂いがする。
「ねえ、今日、スイカ食べた?」
「ああ、暑かったからね。冷蔵庫にまだ入っているよ。食べる?」
どうしようかな。つくねがまだ胃の中にあるような気がする。
「いい。明日頂戴」
私の枕の上で勝手にくつろいでいる猫が、「すいか、すいか」と笑う。いつの間にか我が家に居ついた野良猫のくせに。こいつはいつも私と広田さんの邪魔をする。
「違うよ、狸だよ」猫は尻尾を揺らして自分は狸だと主張する。騙されないよと、私はあかんべえをする。
「夢を見ていたみたい。あなたと別れる決心をした日の夢を」
「えっ、別れる? ああ、あの情熱的なタンゴの夜」
「情熱的? あなたは冷たかったわ」
「君が逃げ出したんだよ。僕はダイヤの指輪をポケットに入れてドキドキしていたというのに」
「そうなの? 知らなかったなあ」
しらばっくれて笑ってやる。
「追いかけて、追いかけて。やっと捕まえた」
違う、逃げたんじゃない。哀しかっただけだ。だから広田さんの腕の中でワーワー泣いてしまった。
「捕まってなんかいないよ。わたしはいつも一人ぼっちだった」
「僕たちはずっと一緒じゃないか。あと二年で金婚式だよ」
そう言って私に触れる広田さんの手はサラサラと気持ちがいい。ゆったりとした眠りに落ちていきそう。眠ってはダメダメ、と猫が私の手を舐める。
「どこか行こうよ、涼しい所に。アルゼンチンには行かないの?」
アルゼンチンは涼しいんじゃなくて寒いんだよと、撫でてやる。
「だったら、北海道はどう?」
広田さんが猫を撫でながら言う。
「昔と違って最近の北海道の夏は暑いよ」
そうだ青森、八甲田山に行こう。今はきっと一面のお花畑だ。八戸でレンタカーを借りて、ロープウエイで登ろう。
高山植物が咲き乱れる遊歩道を歩いていく。どこまでも、どこまでも。このまま進んで行くと青空に吸い込まれそうだ。襟のある長袖シャツにロングのスカート。先を行く広田さんは時々立ち止まってはカメラを構えている。
「それじゃあ歩きにくいでしょ」と、猫がスカートにじゃれながら訊く。
「邪魔、邪魔」と振り払いながら歩く。スカートの裾を翻して大股で進む。
「ジーンズのほうが良かったんじゃない?」と、柴犬までが言う。
大丈夫、靴は山歩き用に持ってきたトレッキングシューズだものと、蹴っ飛ばしてやる。
柴犬は道の先まで飛んで行きながら「キャンキャン痛いよ」と叫んでいる。うるさい。 その鳴き声に合わせて鶯がルルルケキョケキョーと大声で鳴きだした。
「ここの鶯はまだ鳴いているのね」
「そうだね、抱卵中だから警戒しろって鳴いているんだろうね。こんなに低い木ばかりなのに、卵をどこで孵しているのだろう」
広田さんがきょろきょろとした。
「ほんとうだ。卵が孵ったら獣に取られそう」
どこかに雛を狙う狐や狸がいそうだ。だから、私たちが近づくと必死で泣いて威嚇するのだろう。私もそうだ。私ならいい。何があっても我慢できる。寂しくたって耐えていられる。だけど、子どもを害する者は絶対許さない。例えそれが広田さんだって。
「こんなところに狸なんていないよ。熊なら出てくるかもね」と、柴犬が笑う。
「キャリーバッグに入れば犬もロープウェイに乗れるんだよね。もちろん猫も。だから狸だって乗れちゃうんだよ」
柴犬を押しのけて猫がしっぽを振る。狸のようなしっぽ。思い出した。あんたの名前は「タヌキ」だった。広田さんがつけた野良猫の名前。
「来てよかったね。いい記念になった」
嬉しそうに広田さんが私を見る。空気は澄んでいて海まで見渡せる。周りの山々が私を呼んでいるようだ。隣で何もなかったように笑う広田さんを見ていると、柴犬がワンと吠える。やっぱり無理。何年振りかで二人で旅行しても、私の心に刺さった棘は消えていかない。
「帰ろうかな」と呟くと、「そうだね、帰ろうよ」とタヌキが私の腕に飛び乗った。遊歩道をショートカットして走って戻る。発車間際のロープウエイにとび乗ってフーッと息をつく。後ろから「おーい」と叫ぶ広田さんの声。ワンワンという柴犬の声が重なって聞こえて来る。
いつのまにかベッドの足元に柴犬が座って甘えて吠えている。子ども達が巣立った後に広田さんがどこかから貰って来た柴犬。広田さんより先に腎臓の癌になってしまった。
「おやおや、今度は柴ワンコまで連れて帰って来たの?」
私の目線を見て広田さんが呆れる。
ああ、そうだ。寝ていた私の身体の上に広田さんがポンと放り投げたのだ。驚いて見ると、茶色く染めた私の髪と同じ色のモコモコの可愛い仔犬だった。思わず引き寄せて抱きしめた。あれはいつの事だったか。
「今度はどこに?」
「八甲田山」
ぶっきらぼうに答えてしまう。
「ああ、銀婚式の旅の? 君はあの時、僕を山に残して先に帰ってしまったね」
たとえ私を裏切った広田さんを許せたとしても、子どもまで傷つけた事は許せなかった。だけど、これ以上子どもの心を冷たくは出来なかった。だから私は家庭を壊せなかった。壊された心を修復できないまま、家庭を守った。
「あの時、君は僕を許してくれた。そんな君を失う事には耐えられなかった」
「だから真珠の指輪?」
家に帰ってから手渡された指輪。私は許したわけじゃなかったけど。
「そう、指輪を持って八甲田山に行ったんだよ。上で渡そうと思ってね」
広田さんは優しく手を撫でる。私の隣で顔の皺が笑っている。
ああ、やっぱり私はこの人が大好きだ。好きでたまらない。服を脱いで寄り添うと、躰が震える。うーんと伸びをすると、
「暑くてもパジャマ着ないと。汗が取れないでしょ」
夏掛けを私に掛ける。暑いよと跳ねのける。のどが渇いた。
「スイカ食べようかな」
そう言いながら、抱き付いてしまう。
「邦子さん。いつかこんな日がくるのは分かっていたでしょ」
広田さんの声が遠くから耳に届く。深くて優しい胸にしみ渡る声。
「分からない。そんな事は知らない」
私の右の耳に優しいタンゴの曲が流れてくる。
「金婚式はどうするの?」と柴犬が私の横にすり寄る。
「うるさい馬鹿犬。重いよ。ベッドから出て行け」
タヌキが「やーい」と笑う。
顔も声も忘れても、私の躰は広田さんを忘れない。いつまでも寄り添って、いつだって蕩けていく。だから、こんな日もそんな日も絶対来ないんだ。私は安心してゆったりと眠りにつく。
耳元にはアルゼンチンタンゴのメロディー。聞こえない左耳から流れたタンゴが頭上高く鳴り響く。白いドレスを着た私はそれに合わせてステップを踏んでみる。長い裾を引きずって、ちょっと転びそうになる。
「タンゴじゃ駄目だよ」と、タヌキが足を踏んづける。
「うんそうだね」と、メンデルスゾーンの結婚行進曲に合わせてそっと歩く。被ったレースのショールが揺れている。私を待つ広田さんの真っ白なタキシードが眩しい。
広田さんに向かって、タヌキという名の猫と柴犬と一緒に歩いて行く。私だけの広田さんのもとに。いつか。きっと。
狸と柴犬と広田さんと 春日 いと @itokasugaito75
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