⚪︎第一章 二話 忘れた現実と夢の狭間

いつのことだか、わすれてしまった。

夢を見た——知らないはずの、どこか懐かしい夢。

ある夜に、研究所を抜け出して、音色に連れられどこかへ『走って』向かう自分。

その音色はピアノだったり、バイオリンだったり色々。

一つ一つに聴き覚えがあって、そのどれもが悲しい音色をしていた。

音に導かれた僕は、幾つもの街を越えた。

そして街からは少し離れたところまで来ていた。

僕が行き着いた先は、昔ながらの立派なお館であった。

僕は躊躇わず館の門を開く。

鍵は掛かっていなかった。

その先には、西洋風の庭園が広がっていた。

花壇や噴水、彫刻などあり、その風貌から丹念に手入れされていることが伺える。

外とは隔絶された世界を持っていた。

その奥に聳え立つ館から微かな音色が聴こえてくる。

両脇を花壇に挟まれた通路を通り、少し歩くと、このお屋敷の玄関口に辿り着いた。

僕は迷いなく、玄関を開けた。

キイィッいう蝶番の音。

それすらも不思議と懐かしく思えてしまった。

そして眼前に広がる、月光の差し込む長い廊下。

その最奥の部屋から音色が聴こえる。

誰もいないのか、しぃんと静まり返っている。

その静寂の合間を縫うように聴こえてくる寂れた旋律。

導かれるかの様に、廊下の突き当たりの部屋まで歩いていった。

その部屋は両開き扉になっており、僕は扉の片側をゆっくり開けた。

蝶番は鳴らなかった。いや聞こえなかった。

その部屋にあったのは月下に佇む一台のピアノ。

そこから懐かしい音の波が押し寄せていた。

誰かが演奏をしている。

僕は部屋の中央まで歩き、ピアノの前の椅子に座った。

とても心地よい音、同時に徐々に心が締め付けられるような不思議な音。

しばらく聴き惚れていた。

(誰が演奏しているのだろう....)

しばらくして、ピアノの方を眺める。

僕は少しだけ驚いた。

子供の様な黒くて小さい影が演奏していたのだから。

けど不思議と怖くはなかった。

それよりも、親戚の子供と久々にあった時のような、自分の昔の写真を見たときのような懐かしさがやってきた。

(この子がこんな悲しい旋律を刻んでいたのか)

同時に、僕は感嘆していた。

こんな綺麗な演奏、僕の『記憶』にはなかったから。

僕は興味が湧いて、影に近づいた。


すると急に音は止み、影も霞がかかったように消えてしまった。

(消えた...?)

どこへ行ってしまったのか、僕はあたりを見渡した。

あたりには、観客用の椅子とピアノがあるだけで、他には何も無かった。

(何だったんだろう....あの子、どこか見覚えのあるような....)

僕は何となくピアノに座った。

何故だか分からないけどそうしたかった。

譜面台には楽譜が置いてある。

(さっき弾いてた奴かな?)

僕は、先程の演奏より遥かにゆっくりとした速さで

演奏を始めた。

徐々に慣れてきて影の演奏へと近づいていった。

そのうちに楽しくなってきて、一つ一つ音を刻み、一枚一枚楽譜を捲っていった。

僕が奏でたのは、先ほどと似たり寄ったりの旋律だった。

しかし、演奏者によって驚くほど変わる。

影の子と同じ曲を弾いているはずなのに、僕では音の波は起こせなかった。

僕の演奏には、ほんの少しの不純物が紛れ込んでいたみたいだった。


その後、どのくらい時間が経ったか分からない。

ただ楽譜のページは最後の一枚になっていた。

僕は、音を奏でる傍らで急いで楽譜を捲る。

ページを捲った拍子に、何かの欠片が宙に投げ出された。

(えっ?)

僕は慌てて演奏を辞め、地面に衝突する直前で受け止める。

(よかった、間に合った.....コレ何だろう、宝石?)

僕は手にした欠片を見る。

とても綺麗な色をしていた。

何の宝石なのかはわからなかった、けど月明かりを纏ったそれは、とても美しかった。

月光を浴び、孤独に煌めくソレをずっと観ていた。


もう忘れてしまった夢。

今では、琥珀に閉ざされた蟲のように、見えても触れられない。

もしかしたら僕自身が閉ざされた蟲なのかも知れない。

月下のピアノ、あの景色は一体———。


事件から数年経って、僕は記憶が曖昧になりはじめているのを感じた。

最初は、今日何をするだったっけ?のような軽いものだった。その時は僕も大したことに思っていなかった。

しかし今は妹の年齢は愚か、自分が何者なのかも時々思い出せなくなるほどにまでなってしまった。

その度に、僕の足は痛むのだった。

ちなみに叔父と妹にはこの事実は伝えていない。

ただでさえ両足がなくて心配をかけているのに、これ以上余計な心労をかけたくなかったからだ。

余程、『記憶の混濁』が進んだのか、ついに僕はいつからこの研究所にいて、なぜ足を無くしたのかも、忘れてしまった。——大切だったはずなのに。

いつかに「何で僕には足無いんだっけ?」と冗談っぽく言った時に、叔父が教えてくれて足がない理由だけは新しく記憶した。

しかしこの頃は、記憶の混濁も頻度を増している。

全て忘れるのも時間の問題かもしれない。


僕の大切な記憶を混ぜ合わせて重くして、心の海の底に沈められたように感じる。

それと忘却の度に時々、聴こえる音の欠片。

鯨のような、微かな旋律。

それが何かを訴えかけてきている。

しかし、肝心の僕は、何かを忘れてしまったことだけしか思い出せない。

———どこか遠い場所に大切なモノを置いてきてしまったような気がしている。

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ブラックゲンガー オリーブ・リード・フレグラント @R_SweetP_KING

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