第五章
5-1
「もう傷は良いのですか?」
「たいした怪我ではございません」
王宮図書館へ出勤しようとしたとき、ケディンが無事な姿を見せたので、ナイティスは心から安堵した。それより前にタリスのところにも見舞いに行ったが、彼の方はヤグドに監禁されていた間に受けた傷がようやく癒え、床から起き上がったところだった。
ケディンは長い黒髪を後ろできちんと束ねている。その髪が戦いで乱れ、傷ついた顔に落ちかかったときの異様な美しさを思い出し、ナイティスはどきりとした。
広い背中がむき出しになっていたときの、流れる汗にしとどに濡れた、引き締まった筋肉――ナイティスは慌てて首を横に振った。
――騎士というものは武芸で常に身を鍛え、その体は美しいに決まっている。たまたま間近で裸の姿を見たくらいで、私は何を動揺しているのだ。
しかも今のケディンはいつもの黒い騎士装束にきっちりと身を包み、髪も乱れなく束ね後ろに流してある。
そんな彼に対して、あのときの裸体を思い出すのは、ひどく不埒なことをしているように思えた。それでもあの美しい筋肉質の体が
――いろいろなことをやましく感じる私は、最近、なんだか心の中が乱れておかしくなっているようだ。
そんなことを考えながら歩いていると、不意にケディンが振り返った。
「あのとき、ナイティス様はどこから小刀を出されたのでしょうか」
ナイティスは立ち止まり、今日も履いていた、レイユスから贈られた靴に目を落とした。
「この靴に入っているのです」
ケディンは驚きの目で、ナイティスの足元に屈みこんだ。大きな彼に足元に屈みこまれ、濡れたようにつややかな黒い髪の頭を見下ろし、ナイティスはまた動揺が止まらなくなった。
「そんな仕掛けが」
「踵から取り出すのです」
ナイティスはレイユスから靴をもらったことを語りながら、自分も屈みこみ、踵から小刀を出してみせた。ケディンは細く華奢だが、切れ味の鋭い刃を光にかざしてみた。
「さすがオーラン。ソディアにはない工夫です」
「これがなければ、あのときどうなっていたか――」
考えるだけでぞっとする。ヤグドに思いのままにされ、あの男の言う通り、二度とシグレスの元へ戻れなかっただろう。ケディンもタリスも、無事に帰れたとは思えない。
「よくぞこの靴をナイティス様に差し上げてくださったものです。青宮妃様のお心遣いに救われたということですね」
ケディンは感慨深げに言った。
王宮図書館の執務室まで、ケディンはナイティスを送る。ケディンは今まで読書の習慣がなかったと聞くが、最近は本を読んでいるらしく、ナイティスに本を勧めてほしいと言うのだった。彼は自分のマントの下から本を取り出した。
「ナイティス様、先日お勧めいただいた本は読み終わりました」
ケディンが真面目な顔をして告げ、ナイティスは慌てて、手元にあった、学生の教科書にも使っている歴史書を取り出した。昨日まで彼が読んでいた、ソディアの地理に関する本より、少し内容が難しくなる。
ケディンは礼を言って受け取ろうとして、本を持つナイティスの手に触れた。初めは偶然のように思えたが、彼はナイティスの手と本の両方を包み込むようにしっかりと手を重ねた。
思いがけない動きに、ナイティスの心臓がどくどくと鳴った。無骨な大きな手に目をやったまま動かせない。顔を上げて、どんな顔をして自分を見つめているのか、確かめるのが怖い。
「礼を言ってませんでした」
「……礼とは?」
「あのときの。ナイティス様は俺をかばってくださった」
あのときとは、ヤグドの屋敷のことだろう。しかし礼を、そして謝罪をすべきは自分だった。自分がヤグドを捜しに行こうとしたために、ケディンを巻き込み、あのような目に遭ったのだ。結果的にタリスを救い出すことができたため、ナイティスとケディンはさほど咎められることはなかったが。
「そんな、礼を言うのは私の方――」
ナイティスはそこまで言って、思わずぐっと言葉を飲み込んだ。ケディンが不意に重ねた手ごとナイティスの手を引き寄せて、口づけしたのだ。温かい唇を当てられた感触に、かっと体が火照る。
発情とはまた別に、心と体が一度に反応して、全身の血が体中を一気に駆け回るようだ。唇を離したケディンが顔を上げ、視線がぶつかった。その黒々とした双眸に、体が釘付けられたように動かなくなる。
「剣を構えた敵前にさらされた俺の前に、身を投げ出してかばってくださった。俺は忘れません」
ナイティスは唇を動かすこともできない。呆然と見つめていると、彼はあるかなきかの微笑を浮かべた。
「俺は貴種ではないので、種器の匂いは感じないと思っていました。しかしあなたの匂いだけは分かる。あのとき強く感じ、深く記憶しました。これからもきっと、それだけは分かるでしょう」
ケディンは一礼して、執務室から出て行った。後にはナイティスのざわざわと波立つ心だけが残された。仕事をしている間も、ずっとケディンの深い眼差しが心の中をざわつかせていた。
ナイティスは図書館の帰りに青宮妃レイユスを訪問した。タリスが行方不明になって以来、訪れる機会がなく、まだ靴の礼を言っていなかったのだ。レイユスは白王宮の東翼に居室を構えている。青宮にも居室はあるが、王に請われ一緒の宮に住んでおり、青宮は息子であるシグレスのものとなっているようだ。
レイユスは壁一面を覆う書架に囲まれた部屋で、ゆったりと座ってナイティスを迎えた。白騎士クランが傍らに侍っている。長い金髪の美しいレイユスと、長身で褐色の髪の美丈夫であるクランが並んでいる姿は、挿絵のような光景だった。
王の妃であるレイユスが、騎士の想いというものをどう受け取っているのか。ナイティスはそれを彼に聞いてみたかった。しかしすぐそばにクランが控えている。逡巡するナイティスに気がついたかのように、クランが立ち上がった。
「どうぞ、ナイティス様、ごゆっくりお過ごしください」
耳が不自由で言葉も話せないレイユスとは、筆談で会話する。ナイティスに手帖とペンを差し出し、レイユスは微笑んだ。最初にナイティスはレイユスに小刀を秘めた靴の礼を言った。
『あの靴が早速役に立ったのです。本当に助かりました』
レイユスの顔から笑みが消え、驚いたように美しい眉を顰めた。
『隠し刀を使ったのですか?』
武装ができない貴婦人の護身用とはいえ、あの靴を履く人間が、実際にあの刀を使うような事態はまず起こらないという想定であったことが、レイユスの驚愕した表情から分かった。ナイティスはしまったと後悔したが、文字に書いてしまったことをごまかすことはできない。
レイユスにニメイ栽培のことから始まったらしい、タリスの拉致事件について説明した。彼の真剣な表情は、聞くにつれ深刻な色を帯びた。
『その薬種商人の後ろにいる黒幕が誰かは分からないのですか?』
『私たちの前では、ヤグドは決して詳細を話しませんでした。しかも、その後シグレス様の申し立てでヤグドの取り調べを王宮で行おうとしたのですが、タリス殿を拉致監禁したのは配下のならずものが勝手に行ったこととして、その者が処罰され、ヤグドは釈放されたということです』
レイユスは凝然として、虚空に厳しい眼差しを向けた。ヤグド釈放の報を受けたときのシグレスの表情と全く同じだった。
『王宮の中に、ヤグドの怪しい薬を流通させている者がおり、彼に便宜を図ってやっているのですね』
『信じたくはないのですが、そのようです』
『そのような怪しい者に、王宮内の何者かが便宜を図っている――あなたはこれからも王宮の中で、気をつけていなさい。必ず騎士を身近に置いて身を護らせるように』
ナイティスはうなずいた。ナイティスもヤグドが何の咎めもなく釈放されたことを聞かされ、天地がひっくり返ったほどに驚愕した。信じられない事態に、必要なら証言をしようと思っていたのだが、ナイティスが召喚される間もなくヤグドの疑いは晴れたということになり、彼はさっさと屋敷へ戻っていったのだという。
『タリス殿はもう良いからと言って、ニメイ栽培に専念するため薬種院に戻られました。しかし私はそれで良いのかと疑問に思っています』
王宮の取り調べがどのように行われているのか、ナイティスには分からないことだった。この事件が王にどのように報告されているかは、シグレスから聞いたが、ごく簡単なものであったという。御前会議のような公式の場には、むろん出されなかった。
『私が証言に行きたいと思ったのですが、シグレス様から止められました。妃がこのような事件に関わっていたことは、表だって言わない方がよいと』
レイユスはすぐ続きを書かず、しばらく美しい目を伏せて考えこんでいた。
『あの子はヤグドにつながる者に心あたりがあるのかもしれません』
「では、なぜ私に教えてくださらないんでしょう!」
ナイティスは思わず声を上げ、気がついて慌ててペンを執り、同じ言葉を手帖に書きつけた。
『王宮はあなたが思っているより、もっと複雑で恐ろしいところなのです。あなたの好奇心旺盛で追及せずにはおられない性質を知っているから、あの子はそのようにしているのかもしれません』
『でも、私にも教えてほしいのです』
『あの子自身にもまだはっきり確信がつかめていないのでしょう。推測で言うわけにはいかないのです』
レイユスはナイティスの目を見つめ、諭すようにうなずいてみせた。ナイティスもこれ以上この問題に拘っても、レイユスから心当たりが出るものではないと悟った。青宮妃ともあろう者が、憶測でものを言うわけにはいかないのだ。
『この件で誰も怪我をしなかったのですか?』
レイユスの問いに、囚われたタリスが痛めつけられたこと、ケディンが自分を助け怪我をしたことを正直に書き記した。ふたりとも今はもう回復して、ケディンは今日から自分の供についていることを書くと、レイユスはやっと愁眉を開いた。
『あなたの騎士を大切になさい』
ナイティスはその言葉を見て、ずっとレイユスに聞きたかったことを尋ねた。
『分かりました。大切にします。――ところで、白騎士のクランはレイユス様にとって、どのような存在なのですか?』
『彼は私の大切な騎士です』
『クランの――』書きかけてナイティスはペンを止めた。大切な騎士クランの想いをどう受け止めているのか、直接レイユスに聞くのは、やはり無礼な気がした。クランはレイユスに仕えるとともに、深い思慕を彼に寄せている。クランを親しく身近に置き、優しい眼差しを注ぐレイユスを見ると、クランへの愛があるのではないか、とナイティスは思うことがある。
レイユスはクランの愛にどう応えているのか。王の妃として、騎士の愛について、どう振る舞うべきと考えているのか。王への愛と騎士への愛は両立するものなのか。ナイティスは答えを聞きたいと強く願う反面、レイユスに直接尋ねることをはばかる心もあった。
その葛藤を感じ取ったのか、レイユスはペンを執って書き込んだ。
『私にとって王もクランも、この上なく大切な存在なのです』
大切――自分の中にもケディンを大切に思う気持ちはある。それは愛と同じことなのだろうか。それに――ナイティスは今まで聞きたくても聞けずにいたことをとうとう書いた。
『王はお許しになっているのでしょうか』
『騎士が妃に想いを捧げることは、ソディアだけでなくオーランでも、グレルドでもあることなのです。どこの宮廷でもそれはあり、そういうものとして王は受け止めておいででしょう』
それは知っている、とナイティスは自分の思いを伝えきれず唇を噛んだ。昔から宮廷で行われているとは知っている。歴史書にもある。物語にもある。
それでもソディアの王は、レイユスに対するクランの愛をどのように思っているのか、自分はそれを知りたいのだ。ナイティスの沈黙をどうとったのか、レイユスは言葉を書き続けた。
『王は私のことをすべてお許しくださっています。クランのこともお許しくださいました』
レイユスの書いた文字をナイティスは食い入るように見つめた。
『シグレスもあなたと騎士のことを許すでしょう』
紙に文字を書き続けるレイユスの、シグレスに良く似た横顔は美しかった。
――本当に? シグレス様はそんなことを許されるのでしょうか。
レイユスはナイティスに向き直り、書いた文字を見せながら微笑んだ。
『あなたがシグレスを愛するなら、きっと許しは得られるでしょう』
確信に満ちた美しい笑顔に、ナイティスはそれ以上の問いを重ねられなかった。
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