貞美

 ある日、沙奈さなのもとに一人の女生徒が駆け込んできた。女生徒は目に隈ができており、その顔色は極めて病的であった。

「それで、アナタは何に困っているの? 話してみて、貞美さだみ

 沙奈は訊ねた。また一人、彼女の甘い悪意に呑まれる獲物が増えた瞬間だ。その真意など知る由もない貞美は、一切の迷いを見せずに語りだす。

「お母さんが、離婚してからずっと様子がおかしいの。誰にも狙われていないのに盗聴器を探したり、見えない何かに対して大声で怒鳴ったり」

「それはそれは……病院で診てもらったほうが良さそうだね……」

「でも、お母さんに病院の話をすると、殴られるの。アタシ、逃げられないのかな……?」

 壮絶な境遇を明かした彼女は、酷くすり減ったような表情をしていた。その陰鬱な雰囲気を前に、沙奈は密かに悦びを見いだす。

「この子は、もう冷静ではいられない。ゆえに、操りやすそう」

 相手がどんな苦しみを抱えていても、彼女は決して同情しない。そればかりか、彼女は嗜虐心を掻き立てられている。

「児童相談所には行ったの?」

「行ったんだけど、何もしてくれなかった。だから自殺防止のホットラインにも電話をしたんだけど、まともに取り合ってくれなくて……」

「まあ、大人たちは簡単には動いてくれないよね。それこそ、大きな事件でも起きない限りはね」

 さっそく、沙奈は危険な誘導を始めた。無論、貞美も最初からそれを是とすることはない。

「ア、アタシ……犯罪だけは……」

「もちろん無理強いはしないし、犯罪を勧めるわけでもないよ。ただ気になったのは、アナタに法を守る義理があるのかってところだね」

「え、法は守って当たり前なんじゃ……」

 法を守る義理――その前提を疑う発想など、彼女にはなかった。沙奈は優しげな声色で誘導を続ける。

「貞美。法はアナタを守ってくれなかったでしょ? 法がおかしいから、アナタの人生は救われないんだよ」

「で、でも……」

「そういう状況に置かれた青少年が非行に走ることは、決して珍しいことではないよ。児相が事前に動けないのなら、ワタシは彼らの非行を許されるべきものだと思う」

 それは紛れもなく、歪んだ正当化だった。冷静な人間であれば、その言葉に屈することはないだろう。さりとて貞美には、逃げ場などない。精神的に限界を迎えていた彼女からすれば、今この場で示唆された可能性は数少ない希望なのだ。もっとも、それで抵抗がなくなるわけではない。

「できるのかな……アタシに……いや、ダメだ、こんなこと考えちゃ……」

 この時すでに、貞美の脳裏には犯罪という選択肢があった。この時点で、彼女は女郎蜘蛛の巣にかかったようなものだ。

「そういえば、これは与太話なんだけど、重大犯罪でなければ未成年者の犯行には前科がつかないんだよね。それに、アナタは未成年のうちに親から離れておかないと、目も当てられないことになると思う」

「うーん……」

「親の強制力が強い家庭ほど、実家を出るのは難しい。それが三十代近くまで続いて細々と生き続け、心を削られていくような人間だってごまんといる。目に見える範囲だけでも、ね……」

 沙奈の言い分には、妙な説得力があった。そこに強い裏付けがあるわけではないが、彼女の挙げたような例は想像に難くないのだ。


 極めつけは「許し」による操作である。

「児相が手を打ってくれない以上、これからアナタがどんな人間になっても、ワタシはアナタを許すと思う。ワタシたちは、ずっとマヴだよ」

 この瞬間、貞美を繋ぎ止めていた良心は崩れ落ちた。

「ありがとう。沙奈は、アタシのこと、裏切らない?」

「裏切らないよ、マヴだもの」

「へへへ……そうだよね」

 こうなればもはや、彼女は沙奈の駒である。


 貞美はまだ知らない――己の人生が、これから更に崩壊することを。

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