甘言

「ねぇ、沙奈さな。ここだけの話、私は好きな人がいるんだけど……」

「親が進路の話をしだすのが怖いんだ。その話になるとすぐ癇癪を起こすから」

「最近、彼氏がずっと機嫌が悪くて、アタシまで病みそう」

 気づけば、生徒たちは沙奈を頼るようになっていた。それを面倒だと感じることもあったが、彼女は皆が望む返答を与えていった。彼女は教会にて、あることを学んでいた。

「良薬は口に苦し。そして『なんの解決にもならない優しさ』は甘美なもの。誰も健康になるための苦労なんかしたくないし、現実を俯瞰しているという自認の下で自己正当化のために認識を捻じ曲げる」

 内心そう考えていた沙奈は、当然ながら周囲の者たちを見下していた。さりとて、彼女はその姿勢を隠し通している。同級生たちからすれば、その場の溜飲を一時的に下げるだけの言葉をいくつも紡いでくれる彼女は、女神のような存在だったのだ。


 ある生徒は、成績不良に悩んでいた。

「最近、学校の授業についていけなくて、困ってるんだよ」

 そう語ったのは、一人の男子だった。無論、ここで沙奈が与えるものは、建設的な助言ではない。

「まあ児玉こだまくんは地頭がいいからね。大抵の人間は、自分がつまづいた時にそれに気づけないものなんだ」

「そうなの?」

「うん。元々、日本の教育は児玉くんには合っていないからね。無理に勉強しなくてもいいし、思い悩む必要もないよ。理不尽な大人たちと、マヴのワタシ……どっちを信じる?」

 言うまでもなく、それは彼女の本心から出た言葉ではなかった。しかし児玉と呼ばれる男子生徒は、彼女の言葉を鵜呑みにしてしまう。

「ありがとう。そう言ってもらえると、気が楽になるよ。そっか、沙奈から見たら、俺って頭良く見えてたんだ」

「そうだよ。児玉くんは理知的で、物事をよく考えている人だと思う。だからこそ、そうやって真剣に悩むんじゃないかな」

「まあ、確かに何も考えてない奴って多いもんな! ありがとな、沙奈!」

 機嫌を直した児玉は、何の疑いもなく笑った。彼は確証のないお世辞を真に受けたまま、嬉しそうにその場を去る。その後ろ姿を見つめつつ、沙奈は思う。

「ほら。結局、児玉も自分の存在を許して欲しかっただけなんだ。現状を許された人間は、得てして成長が止まるものだね」

 無論、彼女を責める者は誰一人としていない。彼女が小学生の頃から知っていた通り、綺麗事は無責任であっても許されるらしい。沙奈はその味を占めていた。


 別の日、一人の女生徒が彼女に相談を持ち掛けた。

「沙奈。ウチ、なかなか人に好かれないんだよね。なるべく真面目に、誠実に振る舞ってはいるんだよ? 人の悪口は言わないようにしているし、相手に気を遣ってもいるつもりなんだけど……」

 この時、沙奈は少しばかり邪推した。今自分の目の前にいる少女は、誠実性に見返りを求める類の社会不適合者である――少なくとも、沙奈はそう感じた。当然ながら、彼女はそれを口にはしない。

「それはアナタのせいではないよ。人間の多くは正しくないんだから、皆正しい人間を嫌いになっちゃうだけ」

「そういうものなのかな……」

「ワタシはアナタのそういうところ、大好きだよ。だからワタシはアナタのマヴなんだもの」

 案の定、沙奈は甘言で相手を堕落させることを選んだ。そして、相手もその甘さに溺れてしまう。

「そうだよね。ウチには沙奈がいるもん!」

「もちろん。だから、自分を愛してあげて。間違っているのは、世の中のほうなんだから」

「えへへ……沙奈は優しいね。ウチ、なんだか元気が出てきたよ」

 この少女もまた、満足して教室を後にした。沙奈は実感する。沙奈は確かに、人心掌握の術を順調に習得してきている。この善意を装った悪意を止められる者は、誰もいなかった。

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