ラズベリー・パイ

 その日の晩、真梨まりはあるものを用意した。一つは小型の全指向性マイク、もう一つはポータブル・ルーター――そして最後の一つは、精密機械の基盤のような器物だ。今回の計画の要となるのは、その器物である。さっそく、真梨は基盤のようなものに全指向性マイクを接続し、それを辞典のブックカバーに挟んだ。続いて、そのブックカバーを外箱に入れた彼女は、新しいレンタルスマホを起動する。


 その脳内で、悪魔は訊ねる。

「あの基盤が、どう役に立つの?」

 今の真梨が欲しているものは、クラスの裏で起きている事柄の証拠だ。一見、単なる精密機械の基盤だけでは、その目的は果たせそうにないだろう。そこであの基盤について説明するのは、堕天使である。

「あれはラズベリー・パイ――小型のコンピューターだよ。本来はモニターにつないで使うものだけど、現代のテクノロジーではよりコンパクトな使い方ができる」

「と、言うと?」

「スマートフォンにはリモートデスクトップという機能がある。これを使えば、スマートフォンでコンピューターを遠隔操作することができるんだ。当然だけど、ラズベリー・パイも例外ではない。言うならば、これは盗聴に使える手段なんだ」

 確かにこの手法を使えば、情報収集ははかどるだろう。しかし堕天使には、一つ理解できないことがある。

「そんな大がかりなことをしなくても、素直に盗聴器を用意した方が良いと思うけど」

 この時点まで、盗聴器では成し遂げられないことの説明はされていない。無論、真梨は決して、無意味に回りくどい手段を選んだわけではない。

「アリバイ工作だよ。盗聴器は事後にしか回収できないけど、ラズベリー・パイで録音したデータであればクラウドを介して即座に回収できる。これなら、真梨が録音したことは疑われにくいというわけだよ」

「なるほどね。相変わらず、抜かりがなくて安心したよ」

「明日手に入れる情報は、交渉材料だ。いじめの音声データを手に入れれば、こっちはいじめグループの人生をまるごと握れる。つまり、使える駒が増えるということだね」

 そう――普通の盗聴器では速やかにデータを回収することなどできないが、ラズベリー・パイにはそれができるのだ。彼女たちの背後では、全身に重傷を負った磔の天使が震えている。

「これ以上、千郷ちさとを傷つけるな」

 天使が案じたのは、千郷の身であった。そんな彼女に対し、堕天使は相変わらず冷淡な態度を保つ。

「千郷が真梨に依存するには、依存先を限定される必要がある。千郷をいじめの標的にすることは、至極合理的なことだよ」

「それが愛に基づいた行動だと言えるのか?」

「当然でしょ。どんな手を使ってでも、あの子を手に入れる。それは紛れもなく、愛だよ」

 何やらいじめっ子たちの情報は、千郷を更に追い詰めることに使われる予定らしい。当然、真梨の善性そのものである天使は反対するが、この天使は至って無力だ。


 イヤホンを装着した真梨は、レンタルスマホを操作し始める。彼女はラズベリー・パイを起動し、音声編集ソフトを立ち上げた。そして録音を開始するや否や、彼女はただ一言だけ呟く。

「ふぅ……今日も一日、疲れたな」

 それは傍目に見て、犯行を疑われるような一言ではなかった。彼女のレンタルスマホの画面には、音声波形が表示されている。一先ず録音を終えた彼女は、音声を試聴する。イヤホンを通して、彼女自身の声が再生された。


――試運転は完璧だ。


 真梨は外箱からブックカバーを取り出し、ラズベリー・パイとポータブル・ルーターを回収した。明日に備え、彼女はこれらを充電し始める。今日のところは、もう寝るだけだ。

「愛してるよ、千郷」

 そう心の中で呟いた真梨は、ベッドに横たわった。

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