ドラゴン

「どうして……どうして……」


 どれほどの時間そうしていたのか分からない。ただ顔を伏せたまま、何度も何度も、私は呟き続けていた。


「……うるさい」


 ふいに、先ほどまでは悪魔の囁きにしか思えなかった、あのツキミの声。


 けれど、今は。そのぶっきらぼうな響きが、何よりも心を温めてくれる、優しい音色にしか思えない。


 私は、ガバッと顔を上げる。


「ツキミさんっ!」

 そこには、ゆっくりと上半身を起こそうとしている、ツキミの姿。


 今度こそ、ありったけの力を。

 本当に、これで全てを使い果たしても良いと思えるほどの最後の力を振り絞って、私はツキミの元へ這い寄っていく。


 時間が経ったおかげか、身体は何とか動くようだ。


 そして、その華奢な身体を抱え起こし、強く、強く抱きしめる。


 ツキミは特に抵抗する様子も見せない。


「よかった……よかった……本当に、よかった……」

 色々な思いが胸に込み上げてくるが、私の口から出てきたのは、そんな至極簡単な言葉だけだ。


 しばらく何も言わず、おとなしく私に抱きしめられていたツキミだったが、やがて、ぽつりと呟く。


「……問題ない。計算通りだ」

 その声は、いつものように淡々としていたけれど、ほんの少しだけ、本当にごく僅かに、虚勢が含まれていた気がして、私の顔が少し緩む。


 ツキミの表情は見えないけれど、ツキミが、ちゃんとツキミのままでいてくれたことが、何故だかとても嬉しくて、私の胸を熱くする。


 言葉には出さず、私は何度も顔を上下させ、ツキミの言葉に頷きで返す。


 そんな時――


「きょくちょー……アタシ……ちょっと、寒いっす……」

 弱々しいけれど、聞き覚えのある、底抜けに明るく、誰よりも強い子の、今はとても愛おしく感じる声が私の耳に届く。


「セイカさんっ!」

 ツキミを抱きかかえたまま、私は顔だけセイカに向ける。


 うつ伏せで倒れていたセイカが、ゆっくりと顔を上げていく。


 その顔は、とても――


(……寒そうだ)


 そうだった。彼女は、寒さが苦手な「ドラゴン」なのだ。


「さむいっすー……」

 か細い声で、唇だけを動かして、彼女は状況の改善を切実に懇願する眼差しを私に向けてくる。


 不謹慎だが、その弱りきった姿すら、私を安心させ、とても愛しく思う。


(すぐにセイカを温めないとっ!)


 私は丁寧に、抱きしめていたツキミからそっと手を離し、ツキミが自力で座っていられることを確認する。


 幸い、ツキミはまだ少しふらつくものの、自分で体勢を保てるようだ。


 私自身、立ち上がるほどの力はもう残っていないし、動く力もほとんどない。


(でも、セイカのためならばこの身体は動くはずだ!)


 なんとか、四つん這いになって、ゆっくりと、しかし必死にセイカのもとまで進む。

 そして、先ほどツキミにしたのと同じように、セイカの小さな身体を起こし、優しく抱きしめる。


「セイカさん、もう大丈夫ですよ。本当に、よかった……。あなたは――本当に強いドラゴンですね」

 気付けば、私はセイカを強く抱きしめていた。


 セイカはそれでも何も言わず、ただ私の腕の中で、まるで安心しきった子猫のように身を預けてくれている。


(よかった……)

 さっきから、それしか言葉が思い浮かばない。


 全員、満身創痍だけれど、みんな無事だ。

 三人とも生きている。


 その事実が、私の心を温かいもので満たしていく。


「トッ、トカゲはっ!?」

 二人の無事を確認し、最も重大なことを確認し忘れていたことに気づく。


 私はセイカを抱きしめたまま、恐る恐る周囲を見回し、部屋の状況を改めて視認する。


 あれだけの轟音をとどろかせ、熱風と粉塵が舞っていた部屋が、今となっては、まるで眠りについた氷の精霊の住処のようだ。


 部屋は冷たく、そして静まり返っている。


 そして、トカゲの姿らしきものは――


(……あった)

 扉の残骸の向こう側。


 巨大なトカゲ――だったものが、まるで時が止まったように、奇怪な形の氷塊に包まれて固まっている。


 それはもはや生物ではなく、氷でできた、禍々しくもどこか神聖な雰囲気さえ漂わせる巨大なオブジェだ。


(やったの……?)


(私が? この私が……?)


 トカゲは、動かない。

 ツキミは、問題ない。

 セイカは、私の腕の中にいる。

 生きている。


 あの地獄のような苦しみから。死の恐怖から――


(私、生き残ったんだ!)


 そう改めて認識した瞬間、私の心の奥底で、ずっと張り詰めていた何かが。


 ぷつん、と大きな音を立てて切れる。


 それは、あまりにも突然で、自分でも抑えようのない感情の濁流だった。


「う……ぁ……うぁ……」

 視界が急速に歪み、熱いものが次から次へと、止めどなく頬を伝い始める。


「うわああああああああああああああぁぁぁぁぁぁんっ……!」

 一度溢れ出した涙は、もう止まらない。


 まるで迷子の子供のように、私はその場で声を上げて泣きじゃくる。


 怖かった。苦しかった。


 もう嫌だ。


 早く家に帰りたい。


 エリートコースだとか、左遷だとか、管理局長だとか、そんなもの、どうでもよかった。


 ただ、ただ、生きていたい。


 その一心で、私は必死だったのだ。


「ひっく……うっ……こわかっ……たぁ……!」


 しゃくり上げながら、私は何度も何度もそう繰り返す。

 体面も、威厳も、何もかもかなぐり捨てて、ただひたすらに、泣く。


 安堵と達成感、そして何よりも強烈な恐怖からの解放感が、今もまだ涙となって止めどなく溢れ出す。


 そんな私の背中を、それまでぐったりと身を預けていたセイカが、おぼつかない手つきで、ぽん、ぽんと優しく叩く。


「きょくちょー……もう、だいじょうぶっすよ……」

 その声はまだ弱々しかったけれど、確かな温かさが込められている。


 そして、セイカは残り少ない力を振り絞るように、私の腕の中からそっと抜け出すと、今度は逆に、泣き続ける私を強く抱きしめ返す。


(セイカ……)

 この温かさに、そのまま身を委ねたくなる。


「よしよし……怖かったっすね。もう、ツキミが無茶させるからっすよ!」


(えっ……?)


 涙でにじむ視界の先で、セイカがツキミの方をじろりと睨んでいるのが見える。


 どうやら、私がこんなに取り乱しているのは、ツキミの無茶な作戦のせいだと判断したらしい。

 セイカの腕の温かさと、その発想がなんだか少しおかしくて、私の嗚咽がほんの少しだけ、小さくなる。


「ツキミ! 局長にちゃんと謝るっす!」


「……なぜ俺が」

 床に座り込み、消耗しきっているツキミが心底不思議そうに、そして少しだけ不機嫌そうに答える。


 その声も、普段よりずっと覇気がない。


「なぜって……! 局長こんなに泣いてるじゃないっすか! ツキミが、あんな怖いことさせたからっすよ! 絶対そうっす!」


「……作戦上、必要なことだった。それに、結果として俺たちは生き残っただろう」


「もー! そういう理屈っぽいところっす! いいから謝るっす! 局長は怖かったんすよ! アタシも、局長も、すっごい頑張ったんすから! ツキミは、ありがとうと、ごめんなさいを言うべきっす!」

 セイカは、まだ自分の身体も辛いはずなのに、一生懸命ツキミを責め立てる。

 その姿は、まるで小さな番犬のようだ。


 ツキミは、ふい、とセイカから顔を背けてしまう。


 また、この気まずい空気……。


(ふふっ。やっぱり、こんなことが続くんだ)

 昼食会を思い出し、少し笑みがこぼれてしまう。


「セイカさん、力を貸してくれて、扉を開けてくれて、ありがとうございます」

 少し名残惜しさを抱きつつ、私はセイカの腕からゆっくり抜け出し、語りかける。


「ツキミさん、危険な作戦を成功させてくれて、ありがとうございます」

 まだ、顔を背けているツキミにも礼を言う。


「二人のおかげで作戦を完遂することができました。ありがとうございます。私たちは勝ちました!」

 私たちはこんなにもボロボロだけれど、負けてない。


 セイカは一度きょとんとしたものの、すぐにいつものご機嫌な笑顔を見せる。


 私がそんなセイカの頭をやさしく撫でていると、顔を背けたままのツキミの――


「……悪かった。負担をかけた」

 ぶっきらぼうで、どこか優しい声が耳に届く。


 セイカから笑顔が消え、パッとツキミに視線を移す。

 そして、すぐに私へと視線を戻すと、セイカはニカッと笑う。


「ふふっ」

 思わず小さな笑みが漏れる。


 一番怒って良いはずのセイカが何故か私の為に怒ってくれた、それに対するツキミの思いがけない謝罪。


 そんな二人の、どこか噛み合っていないけれど、優しく不器用なやり取りが、私の乱れた感情を落ち着かせていく。


 気付けば、もう私から溢れていた涙たちは役目を終えていた。

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