第5話 狐狸

 男の細い呼吸に合わせてその毛先は細かく揺れている。コスプレの類には見えない。

 『口裂け女』と同じ、本物だ。


 ◯◯◯


「二百……一っ! 二百……二っ!」


 午前5時20分。太陽が地平から昇る直前の濃い赤紫色の光に染められた玉汗が手元に滴り落ちる。自重を支える両腕と腹筋がじりじりと汗ばんでいく。

 

 もう少し。あと少し耐えろ。


「ん、んん……——」


 ふいに横から聞きなれない呻き声が聞こえる。目をやれば、部屋の柱にもたれ掛かったスーツ姿の男が軽く身を捩らせながら目を覚まそうとしていた。


「ふぁぁああ。あーよく寝たぁ……。こんなしっかり寝たのは久しぶり——っふぁ!?」


 男が目を皿のように見開く。


「お、お前さんなんでワシの部屋に……ってワシの部屋じゃない!? 何!? どこ此処!?」

「ちょっと静かにしててくれ! まだ朝の5時だ!」

「いやワシからしたらそれどころじゃないんよ! これはアレか? またワシ飲みすぎてもうたんか? アカン、早よ家帰らんっだふぁっ!」


 男は急に立ち上がろうとして、後頭部を勢いよく背後の柱にぶつけた。

 状況を理解できない様子で男が自分の体に視線を落とす。


「なんやこれ縄? 」

「柱に括り付けさせてもらった。ついでに両手足も縛ってあるから何もできないぞ」

「縛るってなんでそんな……あっ! そっかぁ、そういうことかぁ」


 ようやく合点がいった様子で男が1人で何度も頷く。


「ようやく目が覚めたか?」

「あーすまんすまん。やっと分かったわ。ワシお前さんと酒屋ハシゴしてる内に酔い潰れてもうたんやな。ワシの分も酒代払ってくれたんやろ? ほんまおおきになばふぁっ!」

「俺はっ、高校生だっ」


 プランクの姿勢を維持したまま足で枕を掴んで男の顔面に投げつける。

 

 なんなんだコイツは。ただの飲んだくれのオッサンじゃないか。『口裂け女』と違いすぎないか?

 とはいえ、危険じゃないに越した事はない。

 事によれば拷問も辞さないつもりだったが、これは考えを改める必要がありそうだ。


「二百九十九……っ! 三百っ! ぶはっ」


 目標のプランク五分を終えて床に腰を下ろす。


「んー、居酒屋で会った飲み仲間はいい線いってると思ったんやけどなぁ」

「本当に覚えてないのか? 昨日あんたは怪異統括機構って所の所属だって名乗ってたぞ」

「怪異統括機構! なんで人間のお前さんがその名前……あ、そっか。お前さんもワシと同じ類の怪異なんか。でもワシがあんなおっかない連中の仲間だなんて……。仲間だなんて……。んん?」


 男が眉根を寄せる。空中に浮かぶ何かを凝視するような顔で暫く唸った後、男は愕然とした様子で俺の顔を見つめた。


「そうや、思い出した……。ワシ、先月怪異統括機構に就職したんやった」

「じ、自分の職を忘れてたのか?」

「ま、待て。今記憶がふつふつと……。昨日は初仕事の日で、緊張を紛らわそうとしてワシは近くの居酒屋に入った。それでその後……妙に楽しい気分になって、仕事は対象の観察やったんに変化へんげして家に入ったんや……」


 先ほどまでの明るい様子はどこへやら。男は顔を青ざめさせながら、消えいるような声で話を終えた。


「あ、あかん。こんなんバレたら絶対クビや。金稼がなあかんのに……! 」

「何か訳があるのか?」

「……娘がおるんや。今は離れて暮らしとるけど、ワシ以外家族がおらん。せやから、ワシが稼がなあかんのに……くそっ、くそっ! 何やっとるんやワシは!」


 男の目尻に涙が浮かぶ。

 その頼りのない姿に、懐かしい面影が重なって見えた。


「なぁオッサン。あんたの仕事は対象の観察だって言ったよな? 今からでもそれが出来ればクビにならずに済むか?」

「……そら、そやけど」

「なら取引しろ。俺は今知りたいことが山ほどある。知ってる限り答えてくれるなら、俺が協力してやってもいい」

「ありがたいけど……無理や。うちには相手の記憶を読み取れたりする怪異もおる。いざって時に記憶を読まれでもしたら、すぐバレてまう」

「記憶か……」


 しばらく部屋に静寂が立ち込める。

 再び俺が口を開いたのは、朝日が完全に姿を現した頃だった。


「分かった。俺の記憶を消そう」

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