第16話

   (十六)

 七月から始めた三味線は、無理を言って毎週水曜日の夜六時からにしてもらった。初心者コースの応募者は佐久間ともう一人女子高校生の二人だった。彼女は元々琴を習っていたらしく、多少の基礎ができているらしい。全くの初心者の佐久間とは同じペースにはならないだろうと、特別にその時間を設定してくれた。

 お師匠さんは七十になる女性だったが、姿勢が良いのと声に張りがあるのでその年齢には見えない。最近になって稽古の合間に世間話もするようになり、佐久間がはじめて教室に行った時には、どうせ長続きはしないだろうと特別な時間枠にしたのだと聞かされた。

 最初のひと月ほどの稽古はまったく面白くなかった。

 とりあえず音を出してみましょうと、お師匠さんの練習用の三味線を渡されたものの、音そのものよりも姿勢やら構え方ばかりを注意される。何よりもきちんとした正座を続けているのが辛かった。エリの言ったとおりである。

 正座に慣れるまでは、椅子に腰掛けて稽古してもよいと勧めてはくれたが、お師匠さんがいつもきちんと正座をしているのに、教わるほうが楽をするわけにもいかない。幾分の意地もあって最初から正座に取組んだ。最初はものの十五分も経つと足の感覚がなくなり、休憩といわれても立ち上がることさえできず、数分間は痺れに耐えるばかりだった。それが今では三十分の稽古時間はしっかりと座っていられるようになった。

 弾き方の面ではあまりほめてはもらえないが、それだけはよく辛抱したと言われる。

 特に和楽器は姿勢が基本であり、見た目だけではなく、その基礎ができていないと上達しないそうだ。

 音の方は、ピアノで言う音階練習のように同じ弦で三つほどの音を鳴らし、次の弦へと移ってまた同じことをやるという反復練習ばかりを延々と続ける。

 三味線はギターのようにフレットがないために、鳴らすたびに微妙に音程がずれる。また、バチも正確に狙った弦には当らない。最初はその微妙な音の違いもよくわからなかった。

 楽器そのものが約一メートルの長さで、胴を右ひざに乗せると、左手は肩よりも上で弦を押さえることになり、すぐに腕がだるくなる。次第に腕が下がってきて、一緒に棹が下がり始める。そうするとお師匠さんから注意される。また、指示された長さ弦を響かせるためには、指先で結構しっかりと弦を押さえていなければならない。

 しばらくは、肩は凝るわ指先はじんじんと痛むわで、粋な姿どころではなかった。

 ところがお師匠さんが弾くと、全く腕や肩に力が入っておらず、それほど強く弦を押さえなくてもちゃんといい音が響く。

 慣れてくると力が抜けて、響きだけでなく音程も正しくなる、と言われたことを信じて、この三ヵ月は基礎練習に取組んできた。人間の学習能力とは素晴らしいもので、気がつくと構えから次第に力が抜けているのが分る。そして言われたとおり、押さえる位置も次第にばらつきがなくなってくる。

 ちょうどそのことが分ってきた頃、お師匠さんが簡単な曲をやってみましょうかといくつかの練習曲に取組むことになる。

 粋な曲とは到底言えないが、それでも反復練習ばかりにはいささか飽きてきた頃であったので喜んでしまう。

 十月に入って、大阪へ帰った土曜日に、久しぶりとなるモリへ顔を出すことにした。

 エリにそんな苦労話をしてみたいと思ったのだ。

「いやあ、ほんまに続けてはるんどすなあ、えらいもんどす」

 としきりに感心してくれる。しかし裏を返せば、本当に習いに行くとも、まして続けることができるとも思ってなかったようである。

「エリちゃんの言う通り、正座には苦労したよ。やっと三十分の稽古時間はそう苦にならなくなってきたがね」

 この三ヵ月基礎練習ばかりやらされたことや、何かにつけて叱られるばかりだったことを話してやる。

「そらあお父ちゃん、ええお師匠さんどす。それにええお弟子さんどっさかい、そうして本気で教えてくれんのちがいますやろか」

「ほう、習いに行くと皆同じステップで教わるものじゃないの」

「いいえ、お師匠さんも商売どっさかいお弟子さんに途中でやめられたら困ります。うちらには厳しおしたけど、普通のお弟子さんは三ヵ月もそんな基本ばっかしやと嫌になります」

「なるほど、確かに少々飽きてきたところだ」

「急がば回れって、何でもそうどすけど、最後には基本がものをいいます。三ヵ月そればっかしやらせるやなんて、舞妓志望のお仕込みさんと同じ方法どっせ」

「私の飲み込みが悪いからだとばかり思ってた」

「たぶん、逆やと思います。まあなんぼかはどこまで本気かを瀬踏みもするところもおしたんどっしゃろうけど。見所ありと思われたんと違いますやろか」

「そうだと嬉しいんだけどね」

「ちょっと左手見せていただけますか」

 言われるままに手を出すと、指先を触って頷く。

「ちょうどええ硬さになってます。最初の頃はもっと硬うなってたんとちゃいますか?」

「ああ、力任せに押さえていたからね。指先がたこのようになっていた」

「みんな通る道どす。それにしても、よう辛抱してはる」

「今は何もかもが新鮮だからかな」

「そうどすなあ、辛いのんはこれからかもしれません。これまでのように自分が上手になってんのかどうか分からへんようになります。それに何べんも壁にぶつかります」

「なるほど。これまではとにかく正しい音が出ることばかりに夢中になっていたな。それがゴールじゃないんだ」

「うちらの舞いもおんなじで、足掛け六年稽古してひと通りのことはでけるようになりましたけど、やっぱりおっきいお姉さんの舞とは月とすっぽん。どこがどうと言葉では言えませんのどすけど」

「奥が深い世界なんだな」

「例えば、舞いも覚えたての頃は、形どおりやることが精一杯どすけど、そのうちに形は同じでも指先に蝶々が舞うたりもみじがはらはらと落ちていくのんが見えるようになるんどす。それは舞う側の心にその姿とその時の心がはっきりとあって、指先だけやのうて体全体がそう感じているからこそ見てはる方に伝わるんどす」

「ほう、これは勉強になる。単なる形や演技ではなくて、本当にその気持ちになることで始めて相手に伝わるってことかな」

「そういうことどす。一つだけアドバイスさしてもろうてよろしおすか」

「いや、ぜひとも」

「うちがお姉さんから教えてもろうた受け売りどすけど、これからは、とにかくお師匠さんの姿を見て、感じることどす」

「自分で練習することじゃないんだ」

「もちろんそれは当たり前。けどそれだけではすぐに限界がきます。目標になるもんがないと」

「バチや指のさばきを見るってこと?」

「それもあります。けど細かな技術もいずれ教えてくれはります。もっと大事なんは全体から伝わってくる雰囲気どす。お師匠さんの呼吸とか気持ちの緊張と緩和とか、心を無にして集中していますとそういうもんが伝わってくるんどす」

 さすがに苦労してきただけのことはある。

 今のところ佐久間は自分のことで精一杯で、お師匠さんの言われることも満足にできてはいない。エリの言っていることは漠然とは理解できても、その域に到達するのはやはり相当先のことに思える。

「ぼんやりとは分る気もするけど、私にはまだまだ先のことのようだな」

「いいえ、今が大事なんどす。まだお父ちゃんには何の色も着いてません。そのときにきちんと目指す方向を心で感じてないと迷いが出ます。そこが芸事の難しとこで、技術だけやったら上手な人はぎょうさんいてはりますけど、心に響くのんは技術やおへん」

 芸事の話になると、柔らかい言葉ながらも厳しいところを突いてくる。

「なるほど。いや、言われてみるとその通りだな・・・無心で、か」

「ごめんなさい、偉そうに言うてしもうて」

「なに、この道では大先輩だ。それも、私のように趣味なんかじゃなくプロとしてやっていたんだ。お師匠さんが二人いるようなもので、実にありがたい」

「芸事を習うてはるお方は多おすけど、習い方を教えてくれることはあんまりありません。花街ではお母はんやお姉さんからそういうことを教えてもらえんのがええのんどっしゃろうなあ」

「まさに歴史と伝統の世界だね」

「・・・お父ちゃん、うちの夢、きいてもらえますやろか」

「お師匠さんの夢?」

「もう、お師匠さんはやめておくれやす。今は新地のエリどっさかい」

「はは、で、何だい夢って」

「笑わんとって下さいね。うち、いつか、お父ちゃんのお三味線で祇園小唄を舞うてみとおす」

「望むところだ。しかし、まださくらさくらが満足に弾けないのだから、いつの日になるか」

「それまでお稽古続けてくださいね」

「それは約束しよう。折角始めたことだし、そういう目標があれば励みになる」

 とは言ったものの、祇園小唄を十分知っているわけではない。テレビの懐メロ番組で何度か聞いたことがある程度だった。

 そもそも舞妓や芸妓の舞う姿も実際に見たことはなく、その三味線がどんな節でどれくらいの難しさなのかも知らなかった。

 後で調べてみると、祇園では欠かせない曲で、様々な発表会でも必ずと言っていいほど演奏され、舞が披露される。またその歌詞には舞妓の切ない思いが綴られている。芸妓になることを諦めたエリにとっては特別の思いのある曲であることも理解できた。

 今更舞妓の着物姿というわけにはいかないだろうが、エリの着物姿は板についていて、その舞姿を見てみたいと思う。

 エリは確かに魅力的である。そして京子には危ない橋を、と釘を刺されてもいるので、少し踏み込みすぎにも思えてしまう。ただ、自分の胸に手を当てるまでもなく、佐久間の心の中では最初から割り切れている。

 エリに限らず、詩乃の代わりに誰かを見つめていくことはできそうにない。詩乃との別れで、佐久間の人生も一つの季節が終わるのである。

 松山へ帰って、次の稽古の日にお師匠さんに、経緯も含めて祇園小唄を習いたいと申し出た。

 エリの境遇や佐久間のほんの少し父親の真似事をしてやりたいという気持ちも理解してくれて、それも粋の一つと快諾してくれた。

 但し、それは年が明けてからで、それまでは今の課題をきちんと仕上げてからという条件付きだった。本来は三味線と一緒に歌うものであるらしいが、そこまでは到底無理と、歌はお師匠さんに頼ることにする。

 エリに受けたアドバイスに従って、お師匠さんのお手本に集中してみる。心を無にしてというのはなかなか難しい。

 その中で気がついたのは、お師匠さんのお手本もいつも判で押したように同じではないということだった。偶然なのか、その時の気分なのか、ある部分を強く鳴らすと、どこかでバランスを取るように緩むところがある。もちろん、佐久間のレベルのように、音を出してみないとどんな音が出るのか分らないというものではなく、一定の幅に納まりながら、その中では自由度を持っている。

 そのことをお師匠さんに尋ねてみると、ひどく驚かれた。いつもは上手に歳を重ねてきた女性らしく、凛とした雰囲気にも柔らかさが前面に出ている人で、佐久間に限らず誰の前でも微笑を絶やすことはない。だが、その時だけは真っ直ぐな視線を佐久間に向けて、なぜそれに気付いたのかと、問いただされる。

 何か悪いことを言ってしまったのかと、冷や汗ものでエリにそういうアドバイスを受けたことを正直に告げる。

 すると、左様で、と次の瞬間には元の柔らかい顔にもどり、いい先輩を持ったとほめられた。しかし一方では、その分これまでのような甘い稽古ではなく、真剣にお師匠さんの持っているものをできる限り教え込むと脅された。そうでなければ、佐久間ではなくエリに対して失礼になると言う。

 詳しく聞いてみると、お師匠さんも若い頃は浅草で芸者として身を立てていたとのことで、東京と京都の違いはあっても芸の道は同じである。祇園小唄は東京でもよく演奏されるらしい。何より作詞作曲ともに東京出身の作家と作曲家の手によるとのことに驚かされた。

 言葉通り、稽古の内容は一気に厳しいものになる。厳しいと言っても、きつく叱られるわけではなく、何を思い何を感じながら音を出そうとしているのか、何を伝えたいと思うのか、といったかなり抽象的な内容が増えてきたのだ。

お師匠さんの言葉では、三味線にしても箏にしても、伝えたい気持ちや思いがあって、曲が生まれ、弾き手はそれを理解し上手く伝えるために技を磨くのだという。

 そんな風に考えていくと、休みの日にも何かが気になったり、思い付くことがあれば三味線を取り出して練習することになり、おのずと触れている時間も長くなってくる。

 そんな中で佐久間は四十八歳になった。

 一年前の誕生日に松山行きが告げられた。振り返るとこの一年が佐久間の人生において、転機になったことは間違いない。

 仕事そのものは慣れてしまえば、ストレスや悩みは同じようにあり、同時に遣り甲斐も生まれてくる。ただ、仕事に向かう姿勢には変化があった。決して手を抜くわけではないが、以前のように我を忘れて没頭するということはなく、一歩離れたところで自分を見ながらペースやエネルギーの配分をコントロールするようになってきた。

 また、単身生活に慣れてきたこともあって、理子や子供たちとの関係においても、これまでとは少し変わってきたようである。もちろん、いい夫でありいい父親であろうという思いに変わりはない。しかし、いつも一緒にいて、いつでも自由なときに思いを伝え合うことができないとなると、話をするにもその内容を吟味するようになる。こちらの思惑だけではなく、彼らが何を望み、何を必要としているのかと考えるようになってくるのだ。そうすると、これまでいかに彼らのことを理解しようという努力を怠ってきたかに気付かされる。そのことが却って家族の大切さを認識するきっかけにもなった。

 その日の夜になって、詩乃から電話がかかってきた。

「パパ、お誕生日おめでとう」

 詩乃のいつもの声がひどく懐かしく胸に響いた。

「ああ、ありがとう。憶えていてくれたか」

「忘れるわけないやないの」

「どうだ、元気にしているかい」

「うん。それなりに」

「花嫁修業、頑張ってる?」

「まあまあ。でもなあ、ほんとにこれで良かったんかなあ・・・て」

「なんだ、もうマリッジブルーなのか」

「ちょっと・・・清水の舞台から飛び降りたはずやのに、どっかの木の枝に引っかかってるような感じ」

「なんだい、それは」

「かというて、もう舞台には登られへんのやけど」

 確かにこれまでの経緯からしても、普通の恋愛結婚のように迷いなく飛び込んでいけないところはあるのだろう。

「なあ、パパ、うちのことまだ好きでいてくれる?」

「ああ、私は何も変わってはいないよ。しかし、どうした?」

「ううん。うちがお嫁に行っても好きでいてくれる?」

「もちろんだ。いつかママになった詩乃だって、やっぱり大好きだよ」

「ありがとう。安心する」

「どうしたんだ?大丈夫か?」

「自分でも分らへん。自分が無うなるみたいな変な気持ちやねん」

「自信が持てなくなるってこと?」

「ううん。自信なんか元から無いもん。自分のことやのにどっか他人事のような感覚。何かあってもそれをどう受け止めたらええのか迷うし、詩乃てこんな人間やったかなあて、心のどっかが麻痺してるみたい」

「それは、きっと詩乃が生まれ変わろうとしているんだよ。自分では気がつかないだけで」

「そうかなあ・・・やとしたら今度はパパのこと利用してるみたい」

「利用するって?」

「何か不安になったら振り向いて、そこにパパがいてくれることで安心して、また歩きはじめる。やけど、その行き先はパパのところやないのに」

「そういうことか。遠慮せずに利用すればいい。私はね、詩乃がそんな風に思ってくれることが嬉しい。私は詩乃が幸せになるまで手を引いて歩いてやりたい」

「お父ちゃんよりお父ちゃんみたい」

「私にはそれしかできないからね」

 六月の誕生日に、詩乃はそれまでの自分に別れを告げてはいた。ところが、新しい自分を作り上げて行くにはそれなりに時間がかかる。一応の覚悟をして、彼のプロポーズを受けたものの、まだ自分の歩く道に自信が持てないでいるのだ。実際に結婚してしまって、日々の生活が始まってしまえば、そんな疑問を持つこともないのだろうが、婚約期間というものはまだあやふやな時期でもある。

「あんなあ、うち、エリちゃんに嫉妬しててん」

「ほ、どうしてまた」

「京子姉さんに聞いてん。パパがお三味線に一所懸命やし、そのことでエリちゃんと熱心に語ってたて」

「それで嫉妬を?」

「うん、おばかやろう。エリちゃんにパパのこと頼もうなんて思うてたはずやのに」

「ああ、おばかだ。何度も言ったと思うが、詩乃で最後なんだよ。確かにエリちゃんは彼女なりの魅力もあるし、その道では大先輩だから教わることも多い。尊敬するところもある。だが私の心は動かない」

「うん。信じてる。っていうのもおかしいけど。詩乃だけの鳥かご、もう戻られへんのは分ってんのに、それまで無くなったら、ほんまに自分が無くなりそうな気がして」

「ちょっと重症だな」

「そう思う。もうずっと前やけど、キャンディでパパにぎゅうっと抱きしめられて、ねんねになって甘えてられた。時々あの頃に戻りたいて思うねん」

「ははは、その前には泣き出したくせに」

「そっか、ねんねなりに悩みはあったんや」

「あれからでも、もう二年近くになる。詩乃もずいぶん大人になった」

「あの時もパパは同じこと言うてた。けど、そんなに変わってへん。今の方が頼りないかも」

 この五ヵ月間、佐久間の心にもぽっかりと小さな穴が開いていた。同じ時間をすごしてきたのだから、詩乃に同じことが起こっていても不思議はない。佐久間にはこれまで長く生きてきた中で築いてきたいくつもの顔の一つに過ぎないが、詩乃にとっては大きな空間であったのかもしれない。

 詩乃が本当の人生を選び、それに向けて生まれ変わろうとしていても、その空間を埋めるには佐久間よりも長い時間がかかるのかもしれない。

「今頃こんなことを言ってはいけないのかもしれないが・・・」

「なあに?」

「浮気、してみる?」

「あは、今さら浮気やなんて。そっか、うちも売れ先決まってるから、これから何かあったら浮気になるんや」

「そう、お互い居るべきところや夫婦の愛情は少しも揺るがない。そういう浮気だ」

「できるかなあ、パパは今と一緒やけど、詩乃はちゃあんとここへ帰ってくる自信ない」

「詩乃だって今までと変わらないんじゃないの」

「まあなあ、けど、まだ夫婦でもないし、パパは奥さんのこといっぱい愛してるから心配ないんやろうけど、うちはまだそこまで彼のこと愛しきれてない気がするし。やっぱり怖い」

「ははは、冗談だ。まあ二人で悪魔になってみるのも悪くはないが、詩乃には少し早い」

「もう、意地悪なんやから。本気になったらどうすんの」

「しかしね、詩乃の一人歩きは心配だ。不安になったり、淋しくなったりしたら、もっと早く電話しておいで。顔が見たければ会いに行くから」

「そうする。何かちょっと元気出た」

「危なっかしくて仕方がないが。彼はどう?仕事、頑張ってる?」

「うん。毎晩遅うまで残業してる。それでやっとうちと同じお給料。しばらくは専業主婦にはなれそうもない」

「若いうちはそれでいいんじゃないか。一つずつ手に入れていくことで二人の歴史が積み重なっていくものだ」

 詩乃は自分では頼りないと言っているが、佐久間の眼に映る詩乃は、ずいぶん大人の女性になったと思える。太陽の光をいっぱいに浴びて輝いているような若さがあり、いろいろ考えながらではあっても、佐久間の前では無条件に甘えていた。そんな詩乃が、泣いたり笑ったり、その時の気持ちをそのままぶつけてきてくれるのが嬉しくてたまらなかった。

 そんな詩乃がここ数ヶ月の間に、静かな月明かりを眺めているような落ち着きと優しさを持った女性へと変わろうとしている。

 自分の変化に戸惑っているところもあるのだろう。そしてまだその途中で、以前の自分を懐かしむ心もあるのかもしれない。

 佐久間が自分の中に残っていた、若さへの郷愁があったように。

 年が明けて、新年のあわただしさも落ち着いてきた頃、二つの知らせが届いた。

 一つは、エリからの電話で、三月初めにモリのママ他の女四人が去年は実行できなかった温泉旅行で松山へ来ることになったということだった。祇園小唄は弾けるようになったかと尋ねられ、これから教わることを告げると、約束どおり着物で行くからそれまでに仕上げておくようにと詰め寄られた。二ヶ月ほどで何とかなるものなのかどうか佐久間には見当がつかない。

 年始の挨拶のつもりで稽古に行き、そんな話をすると、お師匠さんはそれは大変なことになったといきなりその日から練習が始まってしまった。これまでのペースでは半年はかかるらしい。それをわずか二ヶ月で舞えるレベルに仕上げるのは無謀なようだ。ともかく、ぎりぎりまで頑張ってみようということになった。

 もう一つは、詩乃から結婚式が二月二十二日になったと知らされた。正月に双方の両親が話し合って決まったらしい。彼の仕事が一年続けばという条件付きだと言っていたが、その一年が経とうとしている。先方の両親がひどく詩乃を気に入ってくれて、話が早まったようだ。

 年度が替われば親戚連中も何かと忙しくなり、式場や旅行の予約も混み始める。二人の気持ちが変わらないのであれば、いっそ早めに済ませてしまおうということになったのだ。

 詩乃はそれを申し訳なさそうに佐久間に告げた。

 覚悟はできていたはずだが、具体的に日にちまで決まってくると、やはり心の奥から湧き上がってくる淋しさがある。だが、それを無理に押さえ込んで、そんな詩乃の物言いを優しく叱ってやる。これから幸せになり一番輝かなくてはいけないときに、佐久間に気を使っていてはいけない。自分たちだけのことを考えなさいと。

 詩乃はそれに、はいと答え、四年間いろいろ教えてもらってありがとう、こんな自分を愛してくれてありがとうと言う。

 まるで父親への挨拶のようだと茶化すと、その練習をしていると冗談半分で柔らかく笑う。

 二人の思い出と同じくらいの未練はある。それらはきっといつまでも佐久間の心に残り続けるのだろう。娘というには熱くなり過ぎ、かといって若かった頃の恋というには二人の年齢の差があり過ぎた。中途半端な関係ではあったが、それが却ってお互いを引き寄せたのかもしれない。

 四年という時間が長かったのか短かったのかは分らない。ただその間に、多くを語らなくてもお互いの気持ちが分りあえる親しさが生まれている。この親しさは詩乃が嫁いだからといって薄れるものではない。それだけに、どうしても詩乃には幸せになってもらいたい。佐久間との時間が詩乃にとってマイナスになってはいけないのである。

 とはいえ今の佐久間には詩乃の結婚をにこやかに見つめていることはできそうもない。

やはり愛情を注いできた女性という思いが強い。

 日課にしている三味線の練習を終えた後、越智に教えてもらったスナックへ飲みに行き、 その夜だけは深酒をしてしまった。

 詩乃への祝杯でもあり悲しい酒でもあった。

 二月も中ごろになると、祇園小唄も何とかそれらしくなってきた。もっとも時おり音程の怪しいところもあるし、バチも狙った弦に当らないこともある。歌は節も歌詞もすっかり憶えている。ところが、一緒にとなると、上手く行かない。どちらかに気を取られると、片方が留守になって間違えてしまう。

 詩乃の式の前日、二月二十一日稽古から帰って一息ついていると、その詩乃から電話があった。当然、明日が式の日だということは覚えていたが、そのことを思えば言いようのない切なさがこみ上げてくる。だから敢えてそのことを考えないようにしていたのだ。

「パパ、いよいよ明日になりました」

「ああ、そうだね。いいのか?大事な晴れ姿の前の日に」

「やから、ちゃんとお礼を言わなあかんて。パパ、ありがとう」

「私は何もしてやれなかった。むしろ礼を言うのは私の方だ。こんな年寄りのわがままに良く付き合ってくれた。一生、忘れないよ」

「詩乃も。明日お式やのに、パパのこと遠い人やとは思われへん。やっぱり大好き」

「私もだ。詩乃、幸せにしてもらえ」

「はい」

「あれこれ言ってやりたいことはたくさんあったはずなんだが、いざとなると何も浮かんでこないものだな」

「ええの。パパの言いそうなことは分かるもん。なあ、たまには電話してもええ?」

「当たり前だよ。この親しさは変わらないだろう」

「たまには会うてくれる?」

「・・・この小悪魔め。それももちろんだ。詩乃が私を必要だと思うならば。ただ、前にも言ったが、詩乃が幸せなときに限る」

「なあ、たまには甘えてええ?」

 詩乃は涙声だ。

「ああ、もちろんだ」

「パパ・・・詩乃、お嫁に行きます」

「ああ、やはり私は笑顔では見送ってやれそうもない」

「泣いてくれる?」

「詩乃、いい奥さんになって、いいママになりなさい」

「頑張る」

「明日はちゃんとご両親に挨拶するんだぞ」

「うん。きっとお父ちゃん逃げ回るやろうけど」

 詩乃の泣き笑いの顔が眼に浮かぶ。

「それから亭主に言っておいてほしい。詩乃を泣かせたら許さないとね」

「もう、そんなん言われへん」

 眠れないかもしれないが早く休むように言って電話を切る。そう言う佐久間も眠れそうになかった。

 三日ほどたって、手紙が届いた。差出人は京子だった。

 封を切ると、詩乃の結婚式の写真が三枚と短い手紙が入っている。

『パパさんへ。詩乃ちゃんのお式に招かれて行ってきました。詩乃ちゃんとても可愛い花嫁さんでした。一人っ子やったはずやのに、と何人もの方に姉と思われて、それも楽しかった。パパさんにはちょっと辛いかもしれませんが写真送ります。三枚目は、私がパパさんに送る写真と言って撮りました。私も頑張らなきゃ。三月三日はお世話になります。よろしく』

 初めて見る彼が、思っていたよりも好青年であることにほっとする。そして、そうでなくてはいけないのだが、満面の笑みの詩乃がいた。やはり切なさでその詩乃の顔はにじんで見えなくなった。

 年甲斐もなく、と涙をぬぐってはみたものの、三枚目には二年前に戻ったような、あどけない甘えた眼をした詩乃がいた。

「詩乃・・・」

 佐久間の心に迷い込んできた娘は可憐な小鳥だったのか、したたかな小悪魔だったのか、どちらにしろもう二度と戻っては来ない。

 二人の四年間は全てこの瞬間に向かって流れていたようだ。そして過ぎ去った時間ももう二度と元には戻らない。佐久間にとっては人生の一つの季節が今確実に終わったのだ。

 ただ、詩乃の写真を見てひととき感傷的にはなったが、思いのほか静かに受け止めている自分に驚いた。喪失感ももちろんある。しかし、詩乃が幸せへの一歩を踏み出したことが、やはり他人事ではなく嬉しいのだ。ちょうどそのバランスが取れていて、ちょっとした切なさだけが心の底を静かに流れているような気持ちだった。

 翌日、エリたちが松山に来る前の最後の稽古だった。いつもなら弦の音程を合わせながら集中していくのだが、今日ばかりはまだそのあやふやな気持ちが流れていて、これまでのようにいかない。ただ、曲は体が覚えていて、短い前奏に続いてお師匠さんの歌が始まると、自然に両手が動く。いつもなら一番が終わると、止められて細かく注意をされるのだが、今日はそのまま二番に進み、そしてまた短い間奏から三番へと続いていく。

 あらためてお師匠さんの歌を聞いていると、歌詞にこめられた切なさが伝わってきて、四番の「雪はしとしと丸窓に積もる逢瀬の差し向かい」あたりからは、佐久間の口から自然に歌が呟かれてきた。

 お師匠さんは、まださびの部分で音程の怪しいところはあるものの、今日の音には心があったとほめてくれた。どうやら、これまでは正しく弾くことにばかり気が向いていて、粋で切ない曲の心がなかったらしい。繰り返し繰り返し体に覚えさせた後は、心のままに流されていけばよいと教えられた。

 三日の土曜日の昼過ぎに一行を松山空港へ迎えに行く。ママが和服で他の三人は洋服だった。それぞれに店に出るときとは当然センスの違うおしゃれをしているが、どことはなく新地の女性然とはしている。皆バッグだけで荷物はなく、聞けば二泊分の荷物は宅急便で宿へ送っているとのことだった。その宿は『湯の里子規』で、道後でも指折りの老舗で普通の主婦やOLでは二の足を踏む値段のはずだ。

 店の女性を他へ引き抜かれないために、こうした旅行では、旅費から宿泊代そして若干の小遣いまでママが面倒をみるのが慣行と聞いている。モリの場合は、そこまでしなくてもママの人柄で大丈夫だとは思うが、その気風のよさもママの魅力である。

 その日は、四人を車で案内して宿に送り届けた。

 ママから案内のお礼に是非にと誘われて、夕食を一緒にご馳走になる。

 京子には写真の礼を言い、エリには明日の朝九時半に迎えに来ることを伝えて早めに引き上げる。

 祇園小唄の場所はいつも稽古に通っている楽器屋の座敷を借りることにしていて、お師匠さんが午前中なら付き合ってもらえることになっていた。弟子の粋な計らいに同席するのが師匠としての責任だと笑いながら言ってくれたが、実際のところは佐久間一人では覚束ないのだ。

 翌朝宿まで迎えに行くと、エリは昨日の洋装とはうって変わって、舞い用の裾引きの濃い青の着物、アップにした髪に小さな淡い緑のつまみ簪とひと目でプロとわかる出で立ちである。着物の派手さもあるが、裾を持った立ち姿には花があり、それだけで眼を引く雰囲気がある。

 車の中でお師匠さんが若い頃は浅草で芸者をやっていたことを教えてやると、緊張すると言う。

 店の正面に車をとめると、そのお師匠さんが出迎えてくれ、眼を細めてエリを見つめる。

 座敷へ上がると、エリは深々とお辞儀をして、橘絵梨子と名乗り、祇園では糸菊という名前で舞妓を務めていたこと、訳あって芸妓になる前に引退したことを告げて、よろしゅうおたの申しますときちんと挨拶をする。

 お師匠さんも芸者の間は夢奴という名だったと告げ、そこからようやく普通の会話になる。やはりこの道では先輩後輩の序列は厳しいものがある。ともに引退した身ではあっても、その関係は変わらない。

 佐久間も三味線の準備が整うと、いつもはお師匠さんの正面に座るのだが、今日は下座に座って、作法どおり三味線を前に置いて深く一礼する。

「佐久間さん心の準備はできましたか」

「はあ、いささか緊張しています。プロお二人の前ではどうなることやら」

「まあ、しばらく深呼吸でもして」

「はい」

 お師匠さんの前にも三味線が置かれていることで、少し安心する。

「お父ちゃんちょっと」

 とエリが佐久間の三味線を手にとって、お師匠さんの弦に合わせてくれる。佐久間が合わせていたのでは時間がずいぶんかかってしまうと思ったのだろう。そしてそれを佐久間に渡すと少し下がって裾を広げるようにして座りなおす。

 お師匠さんが一礼して構えて、調弦の微調整をする。佐久間もそれに倣って構える。八畳ほどの座敷にピンと緊張が走る。そしてエリがこちらのほうへまた深く頭を下げ、袖を抱えるようにすっと前を見つめると簪が小さく揺れる。これが今から舞を始めるという合図だった。

「よっ」

 お師匠さんの小さな気合で、二人の三味線が前奏を始めるとエリも慣れた身のこなしで、舞を始める。エリがお師匠さんの歌に合わせているのか、お師匠さんがエリに合わせているのか、寸分たがわぬタイミングで舞が進んでいく。佐久間はそれに合わせることだけを考えていた。いつもより少しテンポは遅めではあったが、一つ一つの音を気にしている余裕はない。

『夢もいざよう紅桜忍ぶ思いを振袖に』

 気がつけば、お師匠さんはいつの間にかバチを膝に乗せ、エリの舞に見とれるように歌っている。佐久間はそのことに気付いて少し心が乱れる。するとエリが視線を佐久間に向けて小さく微笑む。開き直ってこの間ほめてもらったときのように、お師匠さんの歌に心を任せて、眼はエリの舞をぼんやりと眺めていく。そうするとまた三人の息と間が一致してくる。

 ほんの三分程度の時間がずいぶん長く感じ、そこには何度も詩乃と歩いた京都の町が様々な表情でよみがえってくる。

 曲の最後の『祇園恋しやだらりの帯よ』と背を向けたところで、エリの肩が揺れていることが分かる。お師匠さんは最後に再びバチを持ち、短い最後の繰り返しを殊更ゆっくりと弾き、佐久間もそれにあわせる。

 その一瞬で、エリが心の乱れを押さえ込む間を与えたようだ。そしてエリはゆっくりと振り返り手を揃えて頭を下げる。

「久しぶりにきれいな舞を見させてもらいました。糸菊ちゃん、何か思うところがあったんじゃないの」

 お師匠さんが声をかける。

「お姉さん、お父ちゃんありがとうございました。未練、断ち切れました」

「おやまあ、未練だなんて悲しいことを。まだまだ若いんですからね、どんな未来も糸菊ちゃんの思うように生きていけばいいんじゃない?」

「はい。ありがとうございます。お姉さん」

「どうですか、佐久間さんのお三味線は。途中でちょっと乱れましたけど」

「お父ちゃん、ずいぶん上手にならはって、おおきに。うちの夢を叶えてもらいました。でも、『忍ぶ思いの』んとこの動きがちょっと稽古不足どす」

 エリは柔らかくそう言ってほんの少し厳しい眼を向けた。

 お師匠さんが、ゆっくりして行きなさいとエリに声をかけて、お茶を入れてくれるために席を外した。

「糸菊か、そういえば初めて聞いたね」

「はい。うちも早う忘れとうて、誰にも内緒にしてたんどすけど、今日ばっかりは」

「その道の大先輩だからね」

「舞を見られているだけやのに、うちの心の中までお見通しで。けど、やっぱり縁どすなあ。こんな立派なお師匠さんに、こんな遠いとこで会えるやなんて」

「ところで、未練って言ってたが、私も気になるところだ。よかったら聞かせてもらえないか」

「舞妓芸妓は秘すれば花。決して心ん中をお見せしませんのどす」

「そういうものなのか」

「はい。けど、それも終わりどっさかい、お話します。舞妓の糸菊は、今日お父ちゃんに衿替えしてもろうたんどす」

「例の旦那を持つこともあるっていう、衿替えのこと?私にはそんな甲斐性はないよ」

「いいえ、気持ちどす。割り切って祇園を出たつもりやったんどすけど、やっぱり舞妓の夢は一人前に衿替えしてもうろうて芸妓さんになること。その夢があるから辛いお稽古やお座敷も辛抱できるんどす。けど、うちにはその日がないまま卒業どしたから。それに、やっぱり好きな道にお別れするには何かがないと」

「なるほど、それで今日の舞を最後にしたかったわけだ」

「はい。うちの最後の晴れ舞台どした」

「しかし、私のような初心者にそんな大事な役目をよく任せる気になったものだ」

「それがもう一つの未練どした。初めてお父ちゃんて呼ばせてもろうた日、あの時の父ちゃんの視線がこの胸に焼き付いて。けどお父ちゃんには詩乃姉さんがいてはって、うちの出番は娘だけやて諦めてました。そこへお二人がさよならしはるておうかがいして、うちでもお父ちゃんの役に立てるんやないかて思うたんどす。けど、それも叶いませんどした」

「そうか、済まなかった。醜態をさらしてしまったことが、かえってエリちゃんの心を乱してしまったようだ」

「そんな、お父ちゃんは悪いことおへん。新地はそういうとこどっさかい。うちが勝手にそう思うただけどす。それで、姉さんがお嫁に行かはるんやったら、もしも、て。これも未練どすなあ。けど、お父ちゃんの心の中にはやっぱり姉さんがいたはって、うちの入り込む場所はおへん」

「いい年をして、情けないとは思うが、その通りだ。そして、そんな風に言ってくれるエリちゃんの前で言ってはいけないのかもしれないが、私の心から彼女が消えることはないと思う」

「ちょっと詩乃姉さんが憎おす。こんなお父ちゃんを放っておいて」

「それは仕方がないだろう。私は彼女と一緒に人生を歩いていくことはできないし、どこまで行っても私では彼女を幸せにしてやることはできないからね。それに、彼女も自分の人生を歩き始めなければいけない年頃だった」

「適齢期、どすか」

「そういうことだ」

「けど、それも今日で断ち切れました。うちも姉さんに負けんように素敵な人を探します。やっぱり舞妓に恋はご法度どしたけど、それも今日で終わり」

「それがいい」

 お師匠さんが、盆に急須と湯飲みを乗せて現れて、未練談義は終わりましたかと尋ねる。店の中の狭い空間で、二人の話はすっかり聞こえていたかもしれない。

 エリはすかさず盆を受け取り、微笑みながら、はいと答える。

 お師匠さんは笑顔で昔の浅草や、何度も訪れた祇園の話を聞かせてくれた。こんなに楽しそうな姿を見たことはなかった。

 エリが午後から、ママ一行と合流して観光と伊予絣の反物を買い物に行くことになっているというので、宿まで送ることにする。

「糸菊ちゃん、断ち切らないといけない未練と、そのままにしておいてもいい未練がありますからね。人生ってそんなに単純じゃありません。またいつでも遊びにいらっしゃい」

「はい、必ず。お姉さんも、ぜひ京都へ遊びに来てください」

 エリは左手で着物の裾をとって、例の花街流のお辞儀をする。

 佐久間が丁寧に礼を言うと、次の稽古の日が水曜日だと念を押された。そして、奥さんを大事にしなさいと言う。それにも、わかりましたと答えて車を出す。

 エリを送って、お昼過ぎに佐久間は一人の部屋に戻った。

 エリとの祇園小唄もとりあえず約束を果たすことができてほっとする。

 まさかそこまで深い意味のある舞だとは考えてもみず、安請け合いをしたものだと反省もさせられた。

 窓のカーテンをあけると日差しが暖かく、そのままフローリングに横になる。

 未練といえば、エリの存在は佐久間の詩乃に対する未練そのままであるように思えてくる。

 病院帰りに詩乃が泣き、佐久間はそのときに初めて詩乃との関係を終わらせなければならないと思った。ちょうどその頃、エリは現れた。

 まるでやがて離れていくだろう詩乃への未練と、心の中だけにしかいなかった二人の子供への未練が、偶然にも同じ名前の娘として現れたようだ。

 そして佐久間の心が揺れながら詩乃を見送ろうと思うにつれて、エリは佐久間に関心を寄せてくれていた。

 松山へ赴任するときに、忘れてくれるなともらった簪は今も机にある。

 京子に危ない橋をと言われたのは、詩乃への未練と戦っていたときでもある。

 今、詩乃の結婚で佐久間の未練がなくなったわけではないが、静かな切なさへとその形を変え、ひとつの終止符が打たれた。

 すると、エリも気持ちの整理が付いたと言う。

 やがてエリが適齢期を迎え、佐久間から姿が見えなくなるときには、詩乃への思いも佐久間の心から見えなくなるのだろうか。

 それはそれで幾分淋しくも思えてしまう。

 お師匠さんの言った、人生はそんなに単純なものではないという言葉は、佐久間の胸にも響いた。

 京子の送ってくれた詩乃の写真をあらためてながめてみる。

 佐久間に向けられたあどけない表情に、ふっと苦笑いが湧いてくる。

 佐久間だけが知っている詩乃の一面だった。いくらか演じていたところもあったように言ってはいたが、佐久間を騙すつもりで演じていたとは到底思えない。詩乃にとって、そうする必要はなかったはずだ。

 相手が佐久間だったから見せることのできた詩乃の顔だったのだろう。

 ただ無条件に愛されて甘えていればよかった相手だった。

 女性の二十代前半という年頃は、いくつかの顔を自分の心に住まわせ、やがて来る『選ばなくてはならない時』に向けて使い分けているのかもしれない。

 それが一面では、小悪魔に見えてしまうところもある。だが、それくらいの自由はあってもいいのだと思う。いつかモリのママがいったように、そうしていくつもの選択肢を準備して、そして諦めていくことを繰り返して大人になっていくのかもしれない。

 そしていつの時代もそれは変わらないのだ。ただ、その『選ばなくてはならない時』は人によって違っていていい。中には選ばないという道を選んでいる場合もある。

 いつか詩乃が言った、早いも遅いも、そしていいも悪いもないことなのだろう。

「小悪魔も適齢期の前に屈する、ってところか」

 そう呟いて、封筒に戻し、机の奥へしまいこむ。

 そうすることで詩乃との思い出や、いまだに詩乃を思っている気持ちを心の奥へしまいこむことができるかもしれない。

 そんな気がしたのである。

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適齢期 ゆう @haru_3360

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