第15話
(十五)
五月四日の理事会で、予定通り沖田は常務理事を降り、仁科が事務長を兼務で後任に、そして佐久間が新しい管理部長として紹介された。
その後しばらくは、仁科常務理事と二人で、医師会や病院協会、近隣の病院、そして自治体の関連部課などへの挨拶回りでほとんど病院にいない日が続いた。中規模ではあっても勝山会病院は五十年の歴史があり、地域ではそれなりに一目おかれている存在だった。
それだけの期間事務長や部長がいなくても、業務は滞りなく流れている。
ただ、会議や委員会の多さにはあらためて驚かされる。立場上、内容がほとんど理解できていなくても出席はしなくてはならない。日中、医師たちは本業の診察があるために、どうしてもほとんどの会議は夕方からである。日によっては六時からの会議の後八時から次の会議というのも珍しくない。
医者をはじめとした医療職たちのバイタリティと責任感の強さには頭が下がる。個人の医院では院長個人の判断で全てがほんの数分で結論が出せることに、そこそこの規模の病院では何度も会議を重ねなければならない。一つのミスが人の健康や命をも左右する世界ならではの文化だとは思う。やはりコストがかかってしまうのだ。
事務系のセクションでは、そこまでの緻密さは求められてはいない。極力会議そのものと集めるメンバーの数を減らした。企業であればほとんどの案件は担当者が一人で決め、上長がそれを承認すれば話が終わる。多少の不足があってもその都度修正していけばいい。
同じ病院の中であっても、役割によって多少の文化や精度の違いがあってもよいのだ。
ともあれ、五月の中旬になって、ようやく落ち着いて仕事に迎えるようになった。
そして計画していた三味線教室もようやく見つけた。
松山の繁華街の大街道というアーケード街から少し入ったところに、岩崎楽器という和楽器の店があり、そこで琴と三味線の生徒を募集していた。
初心者コースは四月からすでに始まっており、次は七月から始まるということなので、申し込みだけ済ませるつもりで店へ行った。ひと口に三味線といっても、楽器も細棹、中棹、太棹があり、それぞれ長唄、常磐津、地歌、民謡など活躍の場も違う。一度、教室のある日に、見学をかねて覗いてみて、先生と相談してみることを薦められた。
生徒は様々で、中学生の女の子から佐久間よりも年長の男性まで数は多くはないが、その分、個人の熟達に合わせて面倒を見てくれると聞いて安心する。若者と一緒では覚えの早さにとてもついていける自信はない。六月になってから再度訪問することにした。名刺を渡すと、あなたが新しい管理部長さんですかと、驚かれる。
店主の娘が看護師として勝山会病院で勤めていると聞かされる。世の中は意外と狭いものだ。
一方、理子とは花屋で仕事を始めたことで、休みが合わなくなった。三月末に子供たちと一緒に遊びに来て依頼松山へは来ていない。
勤め先の花屋も何とか新しい構想が軌道に乗り始めて、理子も活躍できているようだった。仕事をすることが新鮮であるだけでなく、眼の前で自分が深く関係している企画が世の中に受け入れられているのだから、これほど面白いことはない。
一週間に一度は必ず電話をかけてきて、佐久間の心配もしてくれるが、大半は自分の仕事の話になる。生活の場面では子ども扱いされていた佐久間も、舞台がビジネスとなれば立場が逆転する。原価計算やマーケティングの話は特に興味とともに必要性を感じているらしく、あれこれと疑問点をぶつけてくる。
大企業と個人商店では全く同じとは行かないが、基本は変わるものではない。疑問点に丁寧に答えてやると、尊敬もされ、佐久間も面目躍如できた。また、それが花屋の利益にも実際に貢献できているらしい。
長く続けていく上では、また、事業を拡大していこうとすれば、更に悩まなくてはならない点は山ほどある。しかし、今は仕事が楽しくて仕方がないようだ。
理子が新しい世界で活き活きとしていることは、佐久間にとってもこの上なく嬉しいことである。子供は簡単に親離れをするが、特に母親はなかなか子離れができない。中にはその空虚感から体や心を病む場合もあるらしい。どうやら、今の理子にはその心配は必要なさそうだった。
しかし、あまり深入りされてしまうと、何年か先には松山へ引っ越して来る計画が狂ってしまわないかと心配になる。子供たちが大阪の大学へ行くことにでもなれば、今のまま理子が大阪で子供たちの面倒を見ている方が経済的でもあり、子供たちとっては都合がいい。更に就職先まで大阪となれば、佐久間は定年まで一人松山に放り出されることにもなりかねないのだ。
ただ、今の理子にそんなことを言って水をさす気にはなれない。もしもそうなればなったときに考えればいい。
詩乃からも、何度か夜遅くになって電話があった。
特に用事があるわけでもなく、これまでの三年間の思い出を語って笑いあう。また、彼への不満を聞かされたり相談されたりするのは、嬉しくもあり嬉しくもなしではあるが、詩乃が一人で抱え込んで悩んでいるよりはずっと安心できる。
その彼も、四月から文具の卸会社へ就職したらしい。中途入社だから、しばらくは安月給であることは仕方がない。それでも親から援助をもらうことはなくなるだろう。そこで辛抱して頑張っていれば、いつかは認められて役職にもつける可能性が生まれたのだ。
詩乃はそのことについて、事実だけを伝え、それ以上のことは言わなかった。その事実をどう受け止め、どう考えていくのかに慎重になっているのだ。しかし、詩乃の人生が一歩手の届くところに近づいたようにも思える。
会いたくなったら、いつでも帰っておいで伝えると、笑いながらまだ大丈夫だと答える。かと思えば、ずっと鳥かごの中の人生が楽かも知れないと言ったりもする。
どうやら自分の心の中にあるいくつかの自分を、どれも今あるがまま受け止めていこうとしているようだ。それを告げると否定しない。詩乃の中に佐久間がいて、いつも今の詩乃でいいと言ってくれているような気がすると言う。ずいぶん大人になったものだと思う。やがてその言葉は自分の声になり、佐久間の出番はなくなっていくのだろう。
詩乃が佐久間を卒業してしまう日は意外に近いのかもしれない。
それでも佐久間は詩乃のためにいつまでも窓を空け続けていくのだろうと思う。
もう二度とこんな恋に落ちることはない。詩乃との思い出を大切にする気持ちよりも、そんな自分がいたことを忘れたくないために、いつまでもその小さな部屋は空き部屋にしておきたいのだった。
六月も後半になって、詩乃の誕生日が近づいてきた。去年は東京へ出張していたために一緒にいて祝ってやることができなかった。
六月二十七日は日曜日で、どこか出会おうと電話をした。
しかし、すでにその日は約束ができていると申し訳なさそうに告げられた。その代わり前日の土曜日に会いたいと言う。昼過ぎまでは母親と買い物の予定があり、夕方には自由になる。そして今では縁のなくなってしまったフラミンゴで食事をしてモリへ連れて行ってほしいと言う。
夕食には少し早めではあるが、五時に待ち合わせることになった。
昼前に松山を出ればゆっくりと間に合う。詩乃へのプレゼントを準備していないことを思い出して、朝から百貨店を見て回る。詩乃は六月生まれなので真珠を買ってやろうと思う。
ネックレスやブローチとなると、服装によって合う合わないが出てくる。イアリングにすると髪型とのバランスもあり、指輪となるといささか気が引ける。
結局ペンダントにしようと決めて、ショーケースを眺めていると、店員が笑顔で声をかけてくる。誰かにプレゼントかと尋ねられ、やむを得ず娘に、と答える。二十六歳になり、近々嫁に行くので最後に何か買ってやりたいと嘘をつく。信じたのかどうかは分からないが、優しいお父様ですねとほめられた。
ざっと見渡していてみると、デザインもいろいろで、値段も数千円から三十万を超えるものまでずいぶん幅がある。あまり高価なものだと詩乃が重荷に思ってしまうだろうと、五万から十万程度のものにしようとぼんやりと考えていた。
こういう店の店員は客の人となりや目的によって予算を見抜くのか、お嬢様にならと取り出してきたのが、十八金のハート形のフレームの中に五ミリほどの真珠が置かれてある娘らしいデザインのもので、値段も七万円と佐久間の心づもりと一致する。
詩乃がこれを身につけている姿をイメージしてみると、やはり、ネックレスよりは細い金の鎖が似合いそうである。デザインは少し幼く見えるかもしれないが、詩乃にはその方が似合いそうだと思っていると、お父様でしたらお嬢様にはいつまでも可愛くいてほしいものですものね、と心の中まで見透かされてしまう。
他にもいくつか違うデザインのものを見せられて、幾分迷ったものの、やはり最初のものを選んでしまった。
そして電車を乗り継いで、四時半にフラミンゴに着く。支配人に声をかけると、久しぶりだと喜んでくれる。転職して今は松山へ単身赴任中だと告げ、いろいろと世話になったことに礼を言う。
いつもの小さな座敷へ通されて、料理は適当に出してもらうように頼んで待っていると、すぐに詩乃が現れた。まだ約束には十五分前である。
「やっぱり、パパは早く来るて思てた」
「久しぶりだね」
詩乃は、ワインカラーのニットに細身のパンツというシンプルではあるが落ち着いた着こなしで、首回りが少し広く開いている。
「パパは一人で毎日退屈してなあい?」
「一人にはもう慣れたが、詩乃がいなくて退屈している」
「またあ、そんなん言うて、最初から口説きなおすつもり?」
「それもいい」
「そうしてくれてもええねんけど」
そう言って優しい笑顔を向ける。倉敷で見せた表情よりもずっと大人っぽくなっていることに驚く。
「しばらく見ないうちにずいぶん大人っぽくなったな」
「もう明日で二十六やもん。ちょっとは大人にならな」
「あどけない詩乃が見られなくなるのは淋しいな」
「きっと今だけや。パパといてたらいつの間にかねんねに戻んねん」
「是非そうしてもらいたい」
佐久間はブレザーの内ポケットから今朝買ってきたばかりのペンダントを出す。店員に包装はシンプルにしてほしいと注文をつけて、リボンは一重だけである。
「一日早いが誕生日のプレゼントだ。去年は東京ばななで済ませてしまったから」
「ありがと。なあに?」
「あけてご覧、気に入ってもらえるかどうか自信はないが」
丁寧にリボンと包装紙を外すと、ビロードの小箱が現れる。それをゆっくりと開ける。
中には佐久間が選んだペンダントが入っている。
詩乃は黙ってそれをじっと見つめていた。それまで笑顔でいた顔が少しずつ曇る。
「あかん・・・」
詩乃はそう小さく言ってぽろりと涙をこぼした。
「ありがとう、パパ。ほんとに」
「泣くこともないだろう」
「そやかて・・・」
「ん?」
「そやかて、こんなにうちのこと思うてくれる人やのに」
「気にすることはない。私にはこれくらいしかできることがないから」
「ありがとう・・・なあパパ、今日はまた鳥かごに戻ってええ?」
「そのつもりで来たんだろう?」
「ううん、今日は卒業証書もらうつもりやった」
今日、詩乃は佐久間に久しぶり会うのに何を着ていくのかずいぶん迷ったらしい。
そして、今の服装にしたものの、胸元が淋しくてちょうどいいアクセサリーがないのが残念だったと言う。
「すぐに着けてもええ?」
「そのために買ったものだ」
鎖が少し長かったようで、真珠がニットの襟にかかる。それはいずれ詩乃が自分の気に入る長さに調節すればいい。
「どう?」
「かわいい」
「高かったんやない?」
「東京ばななと平均すると大したことはない」
実は、と百貨店での店員との会話を話してやる。
「それでこんな可愛いデザインなんや」
「どうして?」
「パパの話、信じるわけない」
「そうかな」
「本当の娘やったら一緒に来て選ぶし、第一、パパは嘘下手やもん」
「まあ、それはそうだが」
「お店の人はわけありやて見抜いてハート型のちょっと胸にきゅんと来るの勧めたんや」
「なるほどね。で、きゅんときた?」
「通り越して、ずきんときた」
「ははは、面白いことを」
「この真珠が詩乃で、詩乃はパパの愛情で包まれてる」
詩乃は泣き笑いの顔で、ふっとため息をつく。
「あかんなあ・・・パパと一緒にいてたら、やっぱり弱虫のねんねのままや」
「そういう時間も必要なんだよ」
ここフラミンゴには数多くの思い出がある。その一つ一つは詩乃にとって辛いことだったように思える。それらを思い出せば、棘や小石のように詩乃の心は痛みを感じているのかもしれない。
「詩乃はここへ来ることが辛くはなかった?楽しかった思い出もたくさんあるが、どうも私は詩乃を泣かせてばかりいたようだ」
「だからここへ来たかった。詩乃はいっぱい思い出ができたもん。今は思い出したら痛みがあっても、いつかこの真珠みたいにまあるくなって輝いてくれるて思う。そしたら思い出の数は多いほうが素敵やない?」
「時間のかかる話だ」
「前になあ、パパにいっぱい愛情もろてるから辛い思いしても行って来いや、て言うたけど、その辛いのがいつか真珠になってくれたら、ぎょうさん得したことになる」
「そうなってくれたら私も嬉しい。しかし、詩乃にはこれからもっとたくさんの宝物ができてくる。たまには思い出してもらいたいと願うばかりだ」
「そんな風にいっぱい宝物ができたらええねんけど」
「できるさ。詩乃はまだ若い」
「まあなあ。けど、パパの方こそ、そろそろ鳥かごの新しい住人探さなあかんのとちがう?」
「まさか。これからは普通のオジサンに戻るよ。ただその空き家は空き家として残しておこうと思っている。そんな自分いたことをいつまでも忘れないようにね」
「詩乃がダンナ様と喧嘩したり、もしも離婚したりしたら戻ってもええ?」
「だめだ。詩乃は幸せにならなければいけない。幸せなときに里帰りするのなら大歓迎だがね」
「もう、ほんまにお父ちゃんみたいや」
思い出を語りあえば尽きることはなかった。
佐久間の松山での暮らしぶりを話し、暇に任せて三味線を始めることにしたと言うと、理子と同じく吹き出されてしまった。そう言われると、余計に真剣に取組んでやろうと思う。
そして七時を過ぎてモリへと向かった。
早い時間にもかかわらず店は繁盛していて、二人は他の客に少し移動してもらってカウンターの席に座った。
「やっぱり佐久間さんはうちの店の福の神や。ご覧の通りであんまりお構いもできませんけどゆっくりして行ってくださいな」
ママが例によってぽんぽんとそう言う。
「ええと、ほの字はん、いらっしゃい。まだお名前聞いてませんでしたなあ」
「詩乃です」
「詩乃ちゃん、かあいらしペンダントしてはる」
そう言ってちらりと佐久間に笑顔を向ける。佐久間からのプレゼントであることを察したようだ。
「けど首が細い分ちょっと鎖が長いなあ。もうちょっとだけ上げたらどう?」
「やっぱりそうですか」
「どうです?佐久間さん」
「私はそういうのに疎くてね」
「ちょっと待ってて」
そう言って奥で電話をかけて誰かを呼び出している。
「今、そこの宝石屋の大将呼びましたさかい、好みの長さにしてもろうたらよろし」
相変わらずのママのペースである。
五分もしないうちに、髭面の親父が道具箱を持って現れ、ちょっと拝借、と言う。詩乃は佐久間を見てどうしようかと少し迷う。佐久間がプロに任せてみればいいと言うと、安心して外して渡す。親父はそのペンダントを持って、詩乃のシルエットに合わせて少し上下させた後、バーテンダーの松本の定位置で道具箱からいくつかの小道具を取り出して鎖の長さを調整している。松本は居場所を失って、所在無げにその仕事を見ていた。ものの数分で仕上がり、ペンダントは詩乃の手に戻る。それを着けてみるとハートの位置が二センチほど上がっており、おさまりがずっとよくなっている。親父はそれを確認すると、どうも、と言葉少なく店を出て行く。ママが、大将おおきに今度はうちがおごるさかいに、と声をかける。
そして詩乃を見て、その方がずっとおしゃれだと言う。
「そこの角曲がったとこの大将ですねん。新地ではようあることやさかいに」
ママはそう言って他の客に移っていく。
詩乃はグラス棚のガラスに映る自分の姿を見る。左右に少し体を斜めにもして、うんと頷いて佐久間に顔を向ける。
「やっぱりこれくらいかな。パパ、ありがとう」
「調整する手間が省けた」
「なあパパ・・・」
「ん?」
詩乃は注文していたカクテルを一口飲んで少しうつむきながら言った。
「明日、彼と会うねん」
「わかってるよ」
「で・・・彼のプロポーズ受けてもええ?」
佐久間も、今日の詩乃の口ぶりから何となくそんな気はしていたが、やはり眼の前に突きつけられると動揺してしまう。
「そうか・・・しかし、やはり辛いな」
「ごめん」
「謝ることはない」
「けど」
「引き止めたい・・・が、私にはそれもできない」
「詩乃もあかんて言うてほしい気もする。けど、もう二十六やし、そろそろなあ」
「・・・適齢期か」
「うん」
「不思議なものだ。去年はだめだと言えたのに」
佐久間はグラスに半分ほど残っていた水割りを一気に飲んでしまう。
「ま、最初からいつかはこの日がくることは覚悟していたからね。三年もの間よくつきあってくれた」
「そんな、うちこそ大事にしてもらうばっかりで」
「彼の仕事も落ち着いたようだし、喜ばなきゃならないんだろうがね」
「あ、そこは条件つきやけど」
「条件つき?」
「今の仕事が一年間ちゃんと続いたら、って」
「なるほど。それはそうだな。詩乃の話しを聞く限り、少々危なっかしい部分はある」
「やから、結婚も来年。それまでしっかりお尻たたいてしっかりささな、て京子姉さんに言われてんねん」
「はは、今からかかあ天下だ。少々同情してしまうな。ま、その方がうまくいくらしいが」
「それまでは、たまあに甘えさせてくれる?」
さきほどの神妙な顔とはうって変わっていつもの詩乃に戻る。
思わず佐久間もあらためて詩乃を見つめてしまう。佐久間にとっては、それはそれで嬉しいことではある。
しかし、これが女性の持つ魔性というものかもしれないとも思える。
「この小悪魔め」
「なあ、あかん?」
相変わらずの甘えた眼で佐久間を見る。佐久間にそれに抗う術はない。
「まいった。良いも悪いも、詩乃の鳥かごは詩乃だけのものだ」
「ふふ。ありがと」
そういって頭を佐久間の肩によせてにこりとする。佐久間にはその笑顔が変わらずに可愛くて仕方がない。
ちょうど佐久間のグラスが空になっているのに気付いて回ってきたエリがその様子を見ていた。
「お父ちゃん、お姉さん、いらっしゃい。けど、いきなり見せ付けられて、妬けます・・・どうぞ」
いくつもの思いが混じり合った微笑で眼を細めてそう言って、水割りのお代わりをコースターに乗せる。
佐久間が松本に眼で合図をすると、ジンジャエールではなく、ジンライムを持ってくる。アルコールにも少しは慣れてきたようだ。そして三人で乾杯をする。
「エリちゃん、久しぶりだ。ちょっと期待はずれかもしれないが・・・」
詩乃に結婚のことを話しても良いかと尋ねると、少し迷って頷いた。
「実は今ね、別れ話・・・と言うほどのものでもないが、それが成立したところだ。彼女がお嫁に行くことになってね」
「えっ、そんな風にはとても・・・けど、おめでとうございます」
そういって少し戸惑いを見せながら詩乃にお祝いを言う。
「ありがとう。でも、まだ来年のことやから、どうなるか・・・」
「そんなこと言わはって」
「一応、プロポーズ受ける決心はしてんけど、一つの賭けやねん。こんなんでええのやろかて思うところもあるし」
エリと話す詩乃は、やはりそれなりにいくつか年上の女性の顔になる。カクテルのせいか、いつもより饒舌になっているようにも見える。佐久間は二人のやりとりが面白くて黙って眺めている。
「そらあ、女にとって結婚はやっぱり賭けどっさかい。でもそういうお人がいてはることだけでも羨ましおす」
「いつまでもこのおじさんに甘えてばっかりではあかん年になってしもて。女て難しい」
「はい。うちらお姉さんに比べたらまだまだ子供どすけど、それでもそう思います」
「そんなこと。エリちゃんの方が大人やて思てる。うちは年だけはとってるけど、成長してへんし」
「そら見立て違いどす。ちょっと変わった世界で仕込まれただけで、外の世界ではまるで子供。けど・・・お父ちゃん、空き家にならはるんやったら、お姉さんの変わりにうちがいろいろ教えてもろてよろしおすか?」
エリの言葉に佐久間の方がどきりとさせられる。詩乃も小悪魔だと思うが、エリもそう変わらないようだ。
詩乃も詩乃で何を迷っているのか、首をかしげている。
「そうしてもらおかなて思てたけど、もうちょっとだけ待っててくれる?まだ甘えの癖が抜けてないねん」
「はい、それならしばらく待ってます。けど、なんて真っ正直な。うちには言われへん言葉どす。お父ちゃんがお姉さん選んだ気持ちよう分かります・・・うちはその間に正直になる練習しとかなあきません」
エリの言葉は正しかった。確かに佐久間は詩乃のそういうところに惹かれていたようだ。
それにしても佐久間を抜きにして、娘のような年頃の二人で佐久間をやり取りされるのも不思議な気持ちになる。とはいえ、新地の中の話である。あえて何かを言うのも無粋に思えてくる。
エリは他のテーブルに呼ばれてカウンターから離れていった。
詩乃は、多少冷や冷やさせられていた佐久間を振り返ってにこりとする。
「ほらなあ、エリちゃん、パパのこと好きやって。でも、これで安心してお嫁にいける」
「ばかなことを。しかし、小悪魔が二人、オジサンもたじたじってところだ」
「大丈夫や。あの子はうちのようにぴいぴい泣いたり、きゃんきゃん怒ったりせえへん」
「そういう問題じゃない。エリちゃんは単なるファザーコンプレックスだよ。それに、以前にも言ったが、私も二度とこんなばかな恋はしない」
「けどそうしたらパパの心の隙間、埋められへん」
「埋める必要もない。上手に付き合っていける年だ。というよりも恋をする心のエネルギーが無くなっているんだろうね」
「ふうん、じゃあ詩乃だけ?」
「そう」
「どうして?」
「自分でそう決めてきた。もうそういう年でもないからね、普通のオジサンに戻る」
「うちの適齢期と一緒なんや」
「そうだなオジサン適齢期、やはり逃げられるものではない」
時計を見ると九時を回っている。
いつまでもこうしていたい気持ちはあったが、明日プロポーズを受けようとする詩乃をいつまでも引き止めてはいけないと、無理をしてその気持ちを押さえ込む。
「そろそろ帰らないといけないんじゃないか」
「うん、ううん。遅うなるて言うてきたから・・・」
詩乃の言葉にも迷いがある。離れづらい気持ちは詩乃も同じなのかもしれない。
「明日約束しているんだろう」
「やから・・・やから、もうちょっと」
カクテルグラスの小さな泡を見つめながらそう言って、小さくため息をついてうつむくとペンダントが揺れる。それをそっと指先に乗せて微笑んだ。
「パパ、詩乃を真珠にしてくれる?」
佐久間にもその気持ちがなかったわけではない。
しかし、明日その彼と会い、プロポーズを受けようとしている詩乃に求めてはいけないと思っていた。状況によっては、彼とも同じ時間を過ごすことになる。そのときに詩乃は心の整理がつけられるのだろうかと気になる。
「・・・明日、辛くはない?」
「どうせ小悪魔やし、嘘つきとおす決心は最初からできてるもん」
「ちょっと心配だな」
「こんな詩乃嫌い?」
「まさか。ただ今日は驚かされてばかりいる」
「全部、ほんとの詩乃やから」
「そのようだ。じゃ、出ようか」
「うん」
店を出ようとすると、顔を見せることのなかった京子が見送ってくれた。
詩乃の表情から何かを読み取ったのか、甘えてらっしゃいと優しく笑顔を向けて、胸元で小さく手を振る。
詩乃もその言葉に、素直にはい、と答えて左手でペンダントをそっと押さえるように胸に当てて、これも小さく頷いてみせる。
姉が妹を送り出しているように見えてしまう。
「京子姉さんには、明日プロポーズ受けるて言うてんねん。姉さんも賛成してくれた」
「それで、甘えてこいと・・・まったく。女たちの考えることはわからない」
「パパは、ううん、男の人はわからんでええの」
詩乃はそう言って佐久間の腕にしがみつく。
御堂筋に出ると、いつもの通り客待ちのタクシーが二車線を埋め尽くすように駐車している。案内係りに指示された車に乗り、詩乃が新大阪がいいと言うので運転手にそう告げる。
そこも思い出の場所だ。もう一年近くが経ってはいるが、決して甘い思い出ではないはずだ。
あえてそこを選ぶ詩乃の気持ち、そして自分を真珠にしてほしいという気持ちが少し分かるような気がしてきた。
プロポーズを受けるということは、今日と明日は別の詩乃になるということなのだ。そして今日までの自分に別れを告げようとしているのだと思う。
たしかに男は結婚をしたからといって、それは自分の人生で必要な条件を一つ手に入れたようなもので、そのことで別の自分になるなどと考えたりはしない。
また、ただの付き合いの間はいくら親しくてもお互いに帰るべき家がある。ところが結婚すると、そのお互いの帰る場所は親たちの家でなく、二人の家庭になる。これまで行くところが帰るところになり、帰るところが行くところになる。そして、そこに縛られもするが、本当の人生を歩いて行くことになる。
男は、そこが二人の家庭とはいえ、やはり自分の人生に嫁をもらうという感覚の方が強い。
詩乃がたまに甘えにくることがあっても、それは嫁いだ娘が里帰りをするようなものになるのだ。
「卒業か」
タクシーを降りて、佐久間はふとそう呟いた。
「ん・・・」
もう詩乃は涙をこらえられないようだ。
「こらこら、詩乃に泣かれると私まで切なくなる。二度と会えないわけじゃないんだから」
「ごめん。お別れするのは、パパとやのうて今日までの詩乃と」
「やはりそういうことか」
「ほんとは一人でお別れせなあかんのやろうけど・・・パパ向きに育ってしもうたから」
「船頭さんも私の役目、ってところか」
「船頭さんて?」
「倉敷で見ただろう、花嫁さん」
「そうやなあ、白無垢着て生まれ変わんねん。泣くのは今日が最後。明日からは奥さん見習いやもん。小娘は卒業せな」
「小悪魔は?」
「もう、それはもうちょっと待ってて。お式挙げて主婦になったら、そんなこと言うてられへんようになるんやろうなあ。赤ちゃんなんかできたらもっと」
「そうだろうね。幸せになってもらわないとね」
「詩乃の花嫁姿、見たい?」
「やめておく。前にも言ったが、笑って見送るなんて芸当はできそうにない」
「写真送ってあげる。赤ちゃんできたらそれも」
「ははは、別の種類の小悪魔だな。でも、そうしてほしい気はする。やはり詩乃の幸せを見届けたい」
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