第13話

   (十三)

 一月も末、東和へ挨拶に行く前になって、理子に早めの転籍の話をする。思いのほかあっさりと理解をしてくれた。それなりの貯蓄もしており、春からは彼女もパートで勤めに出るつもりだと聞かされた。それは、収入の足しにしたいという気もなくはないが、それよりもちょっとした冒険心のようなものだという。これまで仕事といっても学生時代のアルバイト程度しか経験がない理子にとっては、大きな冒険だろう。

 これまでは子育てと主婦業でそんな余裕もなかったはずだ。ところが、子供たちには次第に手もかからなくなり、佐久間もいなければ毎日の生活に張り合いがなくなる。職場で新しい友達ができ、新しい自分を発見できればそれもいい。理子が活き活きとしていることは、佐久間にとってもそれだけで嬉しいことである。

 そして二月に入り、ひと月ぶりに大阪へ出張に出ることになった。もうすでに東和へ顔を出すことが、「帰る」ことではなく「出向く」ことになっているのも面白いものだ。

 相変わらず医事業務については、今一つ腹に入らないで悶々としていた。しかし、管理部のメンバーとは次第に良い関係が築けつつある。彼らにしてみれば、佐久間の籍が東和化学であろうが病院であろうが大きな影響はないのかもしれない。また、東和としても、他の異動とは異なり、すでに東和の人事権の及ばないところへ出てしまっているのだから、籍を残しておく必要性はない。

 そういう意味では、過去に例はなくとも、佐久間の思いによって動いてくれるとは思っていた。

 二月七日、沖田常務理事とともに、松山から飛行機で伊丹へ飛び、空港からはタクシーで東和化学に着く。一人ならば慣れた通用口から入るのだが、沖田が一緒であることから、中央大通りに面した玄関から入る。

 受付の女子社員も佐久間が新人研修をした一人であり、佐久間の異動も知っているはずだ。

 お久しぶりですと言葉にはしないが、ちょっと驚いた表情と笑顔にその思いは込められていた。人事部長との約束だと告げると、エレベーターまで案内してくれて十一階でございますと型どおり丁寧に案内をしてくれる。

「いい課長だったようだね」

 エレベーターで沖田がそう言う。

「は?それはどうでしょうか、自分では何とも」

「今の受付の子の顔にそう書いてあった。なのにきちんと分と礼をわきまえている。これが社員教育の原点だよ」

「分と礼ですか。なるほど、勉強になります」

「今の子供たちにはそのままの言葉では伝わらないだろうがね」

「たしかに」

「病院というところは、ある面では客商売なんだが、そのあたりがやはり不足している。これから特にその部分の教育、躾を頼むよ」

「いや、職場のみんなは分かっていますよ。ただ訓練が少し足りないだけです」

「うむ、しかし、組織の文化を変えるのは簡単ではないからな」

「はい。そのあたりはいくらかご期待に添えると思います」

「はやひと月になるか。聞くところ医事でてこずっているようだな」

「ええ、企業とはずいぶん違います。今一つ、考え方の枠といいますか、物差しといいますか、そういうものが見えてこないので」

「ははは、それは仕方がない、医療と経営とを緩やかなつながりの中で管理していくとなると、まあ二年はかかる。あまり物の本に書かれていることを鵜呑みにしてはいけない。自分の眼でしっかりと見て感じることだ」

「そういうものですか」

「やがて必ず分かる。ところで、転籍の話、進めていいんだな」

「まあ、あまり無理をするつもりはありませんが、私の気持ちとしては早く勝山会の人間になりたいとは思っています」

「分かった。珍しい男だ。東和にとっても君のような人材こそ必要だったはずだろうに。いよいよ人事の内藤常務には頭が上がらんな」

「何をおっしゃいますか。かいかぶりです。化けの皮がはがれるのも時間の問題です」

 エレベーターが十一階に止まると、受付から連絡が入っていたようで、大西がドアまで出迎えてくれた。

「沖田さん、ご無沙汰をしております」

 そう言って折り目正しく頭を下げる。そして佐久間にも笑顔で会釈をする。

「おお、大西君か。わざわざ君が出迎えることもあるまいに。元気にしているか」

「おかげさまで。佐久間さんがいなくなって頼りなくていけませんが」

「そうか、申し訳ないな」

 沖田は満足げな顔で、人事部の面々に片手を上げて挨拶しながら、大西の案内を待たずにすいすいと部長室へと向かう。

 部長室へ入ると内藤常務も同席で、それぞれの経営状態から最近の事件にまで話に花が咲く。歓談の途中で轟専務が顔を出し、沖田はそちらに合流することになった。

 十一時五分前になると、約束の時間だと、常務、部長に連れられて最上階の社長室へ挨拶に行く。社長の池部とは、まだ池部が管理職になる前から、研修で知り合っていたため、たまにエレベーターで一緒になるときには気安く声を掛けてくれるが、社長室で面会するとなるとそうはいかない。

 新しい業務について佐久間なりの感想と、それなりに苦労している点もざっくばらんに報告する。

 仕事には苦労はつきものであり特に言葉はなかったが、話が単身赴任になると社長自身が経験した思い出もあり、思いのほか長い時間談笑することとなった。

「奥方をないがしろにしてはいけないが、男たるもの多少危ない橋を渡ることも勉強になる。常務も部長も表向きはともかく、すねに一つや二つの傷はある。急いで爺になることはない」

 最後に怪しげなお墨付きをもらって退出する。

 一瞬、詩乃とのことが社長にまで伝わっていたのかもしれないと冷やりとするが、内藤常務から単身赴任の出向者にはいつも同じ話だと教えられ、ほっとする。

 昼食は人事部長、大西、後任の東京支社から転勤してきた鈴木課長の四人で、地下のテナントで入っている料亭で贅沢な食事となった。

 やはりもうすでに佐久間の存在は外からの客だった。そうでなくてはならないとは思う。

 病院という業務が珍しく、あれこれ質問攻めにされ、佐久間も詳しくは分からないまま、答えられる範囲で答えていく。

「ところで、佐久間君、転籍の話だが、大西君から聞いてはいるが、本当にそれでいいのかね。退職金は早期退職扱いで多少は上乗せすることはできても、知っての通り、やはり幾分損をすることになるが」

 部長から切り出される。

「いえ、そんなことは気にしないで下さい。早く向こうの人間になったほうが良いと考えてのことで、沖田常務理事にも了承を得ていますし、家内も理解してくれていますから」

「わかった。それでは年度末で、という方向で話を進めよう」

「無理を申します」

「無理を聞いてもらったのは我々の方だ。まあ転籍となってしまうと縁遠くなるだろうが、たまには状況を聞かせにきてくれよ」

「はい。落ち着けば月に一度は家にも帰りますから、そのときにでもお邪魔するようにします」

 部長の言うように、転籍となれば、公式に東和を訪れる機会はぐっと減るだろう。年に二回、関係法人を集めての会議には常務理事が出席する。その時にかばん持ちという口実で同行することはあるかもしれないが、その程度のことになるだろう。

 二時半に懇談を終えた。鈴木から仕事の確認事項がいくつかあるとのことで、しばらく付き合い、その後は送別会をしてくれた同期の連中に礼を言いに社内を回る。

 沖田は今日の夕方の飛行機で松山へ帰ることになっていたが、佐久間は家で一泊してくるようにとの計らいで明日のうちに帰っておけばよい。

 四時半頃に再度大西に礼を言いに行くと、『モリ 十九時 いかがですか』というメモを渡される。公然と誘うならば鈴木も誘わないわけには行かないのだ。あまり遅くならなければ理子も分かってくれるだろうと、頷くだけでそれに答える。

 とはいえ、店が開くまでには少し時間がある。梅田の本屋へでも寄って、あとは喫茶店ででも時間をつぶせばいい。そう思いながらエレベーターを降りて、今度は通用口から出ようとそちらへ向かう。ふと、受付の社員に沖田の言葉を言ってやろうと振り返る。春木だったか春本だったかそんな名前だったと記憶している。

 エレベーターホールから右へ曲がると受付カウンターがある。

「君、今日はありがとう」

 と声をかけると、彼女は他の社員と立ち話をしていて、佐久間の声で二人が振り返る。その相手は詩乃だった。ほんの一瞬視線が絡み合う。しかし何も言葉にはできないばかりか、そんな素振りを見せてはいけない。

 詩乃は外から帰ってきたばかりなのかこれから出かけるのか、制服の上にカーデガンを羽織って書類の袋を胸に抱えている。髪形は無理をしてフェリーに乗り込んできたときのスタイルのままで、制服姿だと、一層イメージが変わって見える。そのことを知らなければ詩乃だとは気がつかないかもしれない。

 そういえば、彼女たちは同期入社であったようだ。

「あ、佐久間課長、いえ、今は・・・部長さんですね」

 事前に渡されていた来客リストを見ながら言い直す。

「何か」

 話の途中だったのかもしれないが、詩乃は「じゃあ、またね」と笑顔を残しながらその場を立ち去る。佐久間には軽く会釈をするだけでそっけない。佐久間はどうしてもその姿を眼で追ってしまう。そして、呼び止めたいのを何とか耐える。

「あ、元井さん、髪を切って変わったでしょう」

 彼女は佐久間の視線を都合よく解釈してくれた。

「そうか。いや、実は今日一緒だった沖田さんがね、君をほめていたのでそれを伝えたくて、声をかけたのだが、邪魔をしたようだ」

 無理にも平静を装って彼女に向かう。

「いいえ、ただの世間話ですから。私のことを?」

「うむ、きちんと分と礼をわきまえているとね。よく教育ができていると私もほめられた」

「分と礼・・・ですか?」

「やはりピンとこないか。まあ、懐かしい人であることは表情を見て分かるが、それに馴れることなく、今は受付担当として、外からの客に丁寧に礼儀を尽くして応対できている、ということだ」

「実は、お久しぶりですって出そうになったんですけど、ご一緒の方もおられるので我慢しました」

「そういうことだ。私を立ててくれることで、ご一緒の方を立てることにもなる。それが礼ということになる。ちゃんと見る人は見ているからね。それで、今日の君は合格ということになった」

「良かった。でも危ないところでした」

「ま、これからも頑張ってくれ」

「はい。でも、わざわざそれを言いに来てくれたんですか」

「いいことも悪いこともちゃんと伝える。それが私の仕事だ。いや、仕事だった、か」

「ありがとうございます。だから、佐久間さんは人気があるんですね。今の元井さんも以前、素敵だなんて言ってましたから。でもどうしたんやろ、わかってるはずなのに」

 もうそこにその姿はないのはわかっていながら、詩乃の歩いていった方向を見つめる。

「急いでいたんだろう。じゃ」

「失礼します」

 以前にもいくつかの偶然によって引き寄せられた。そして今もまた。もしも、沖田が彼女をほめなければ、佐久間がそれを告げるために振り返らなければ、詩乃が立ち話に寄っていなければ、そしてその時間がほんの僅かでもずれていたら、顔を合わすこともなかったのだ。

 ここへ来るといやでも詩乃のことを考えてしまうことは分かっていた。それでもできるだけ意識しないように、そして思い出さないように努めていたのだが、運命の神がまた悪戯心を起こしたのだろうか。

 大嫌いと言われた声は今でもはっきりと耳に残っている。それでも、こうして偶然顔を合わせてしまうと、今も変わらずに詩乃のことを愛していることをあらためて思い知らされる。離れていた時間があっただけにその思いはより新鮮によみがえる。

 だからといって、どうすることもできない。

 このほんの一瞬の再会を詩乃はどう受け止めているのだろう。もはや何の動揺もなく、むしろ会いたくはなかった過去の人に出会ってしまったことに、ほんの少しばつが悪いという程度なのなのだろうか。

 佐久間は東和化学という会社ではなく、詩乃の面影に後ろ髪を引かれるような気持ちで外へ出て、数歩歩いて振り返る。そこには重厚な面持ちの十四階建ての本社ビルが変わらずにある。

 近々社を去ることにもちろん多少の感傷はあるものの、佐久間の人生に置いては転機だという思いの方が強かった。こうして佐久間を振り返らせるのは、やはり詩乃との思い出であり未練だった。

 今夜の酒は辛いかもしれない、そう思いながら地下鉄の駅へ向かう。

 その途中で携帯電話が揺れる。知らぬ番号だった。

「はい、佐久間です」

 歩道の端へ寄って立ち止まり、そう答える。

「京子です。今、よろしいですか」

「ああ、これはこれは。ちょうど会社を出たところです」

「お久しぶりです。先日はごめんなさいね、夜遅くに。あの人、やめてって言っても、きいてくれなくて。そのくせ、ちゃんとお話もできへんのに」

「いやなに、嬉しかったですよ。今日も七時にそこで待ち合わせをしているんです」

「はい、どうしても連れてくるって意気込んでましたから」

「計画的か」

「七時までには時間がありますよって、よろしかったら、早めにおいでになりませんか?」

「それはありがたい。どうやって時間をつぶそうかと考えていたんですよ」

「じゃ、ママは今日は遅出で八時の出勤ですけど、うちが六時には鍵だけ開けておきます」

「分かりました。厄介になります」

 退屈する時間が短くなってほっとする。絶妙すぎるタイミングの電話だった。

 京子の大西に対する呼び方が、「あの人」となっていることに気がついて、思わず笑いが出る。だが、あえてそれには触れないでおいた。

 以前、詩乃が共犯者と言ったが、既にこちらの成り行きで共犯関係も終わってしまっている。

 それでも一時間以上時間がある。梅田の本屋へ寄って、音楽コーナーへ行き、三味線の初歩の本を探してみる。ピアノやギターに比べるとほんの僅かしかない。それだけ需要がないのだ。ようやく見つけてぱらぱらと眺めてみても、数字や記号が並んでいるだけでこれまで見てきた五線の楽譜とは全く異なる。タイトルは独学で学ぶ三味線となってはいるが、本当に理解できるのだろうかと半信半疑で買ってみた。

 近くに楽器店もあったはずだと、覗いてみたが、三味線は置いてなかった。最初から高いものは必要ないだろう。しかし、どれ位するものか検討もつかない。やはり、エリに聞いてみようと思う。

 そうしているうちに、六時が近くなり、モリへと向かう。

 表の明かりもまだ点けてはおらず、ドアを開けてもいつものバーテンダーの声もない。カウンターの明かりだけがともされ、京子がお絞りを畳んでいた。

「やあ、無理を言いましたね。お久しぶり」

「いらっしゃい。クリスマス以来なのに、何だかずいぶん長かった気がします」

「そうですね。ひと月と少し、ずいぶん田舎者になりました」

 コートを京子に預けて、カウンターの席に座る。

「よう言わはる。どうしましょう、何か飲みますか」

「いや、それは『あの人』が来てからにしましょう。昆布茶でもいただこうかな」

「もう、佐久間さんもいけずやわあ」

 そう言ってほんの少し微笑む。そんな表情は、外見が似ているとはいえ詩乃よりもずっと大人の顔だった。エリに限らずやはりそれなりに苦労をしてきたのだろう。

「しかし、どうしてあのタイミングで私に電話を?」

「ああ、あのほんの少し前に詩乃ちゃんから、電話がありましてん。これから会社を出るようだってお聞きしまして」

「彼女から?」

「あれきり会うてないんでしょう」

「まあ・・・ね」

「それはまた後で。今日は突然佐久間さんに出会うて、どないしょう、て」

「どうしようって、言葉も交わさずにすれ違っただけだが」

「そこが女心。ドキドキが止まらへんからうちの声を聞いて落ち着きたかったんやて。それも半べそで」

「しかし、以前、私には・・・」

「大嫌いって?」

「ええ」

「そのこともあったから余計に動揺したんやないかなあ。ほんまに可愛い子。高校生の初恋みたいで。できることならうちもあんな心のままでいたかったと思てしまうくらい」

 やはり佐久間には理解できない。

「まあ、私も偉そうなことは言えない。突然で言葉もかけられなかった。やはり動揺していたようです」

 京子が熱めの昆布茶を入れてくれる。

「はいどうぞ。佐久間さんは詩乃ちゃんにきつう言われて何か変わりました?」

「いや、まあ、彼女の存在が少々遠くなったようには思うけど、だからといって気持ちは変わらないようですね」

「偉いわあ、やから甘えていられるんですよ」

「電話もかけてくるな、というのが甘えていると?」

「はい。佐久間さんが何にも言わずに行ってしもうたことに腹も立っていたとは思いますけど、その時はやっぱり辛かったんですよ。そのちょっと後やと思いますけど、えらいこと言うてしもた、って」

「・・・やはり私には分かってあげられないようです。まあ、本気で大嫌いといわれるほど嫌われているとは思いたくはないが」

「あほな。好きで好きで仕方がないのんです。やから、なあんも言うてくれんかったことが辛うて、そんな言葉になったんです。けど、その気持ちは気持ち。その言葉をどうするのかは詩乃ちゃん次第やから」

「どうするかって、どういう意味?」

「ほんとのことにしてしもうてこのままにするか、冗談にしてまた甘えていけるか、迷てんのちゃうかなあ。やから佐久間さんの顔見て、あんなに動揺するんですよ」

「なるほどね。実は、そんな気もしていたんです。電話を切ったすぐ後から泣いている顔が浮かんできました。だが、それでも私は何もできなかった」

「それでええと思いますよ」

「まあ、私は動かずにいようと思ってはいるんです。私が揺れると余計に彼女を困らせてしまう。仮に彼女が離れていくことになっても、ずっと見守っていてやれればいい、なんて。気障ですけどね」

「なんといっても『パパ』さんですからね」

 京子はそう言ってウインクする。

「おっと、これは見事に一本返されました」

 佐久間も大げさに、おどけてみせる。

「うちなら、行き着くとこまで流されていけるんやけど、詩乃ちゃんはそこまですれてないから・・・どうなってもパパは許してくれる?」

 京子が詩乃の喋り方を真似てにこりとする。よく似ているだけに、それだけのことでどきりとしてしまう。

「それはやめて下さい。君に言われと本当に動揺する。しかし、今さら許すもなにも、最初から全て許してしまっている」

「そんな風に言うてくれるやなんて、詩乃ちゃんが羨ましいわ」

「私が所帯持ちだから言えるのかもしれません」

 やはり詩乃は揺れているのだ。ただ、今日の偶然の出会いに動揺してくれていることが嬉しくもあった。

 結果は京子が言うようにどうなるのかは分からない。今の状況からは、あの言葉を区切りにしてしまうような気がする。それは仕方のないことだと思う。

 七時前になって、エリとバーテンダーが出勤してくる。

 エリは和装で現れた。その身のこなしはさすがに板についている。

「京子姉さんおはようございます。そこで、松本さんに会うて」

 バーテンダーが松本という名前であることを初めて知る。

「おはようさん。エリちゃん、どないしたん、えらいめかし込んで」

 京子がエリのコートを脱がしてやる。都襟の淡い緑にクリーム色の飾り紐が娘らしい。

「そやかて、今日は久しぶりにお父ちゃんに会えるんやもの」

 そう言って笑顔で佐久間の前に立つ。

「お父ちゃん、お久しゅう」

 佐久間に着物の知識はない。しかし、どう見ても色目といい柄といい、エリの年齢には地味である。もっともそれが却って若々しさを引き出している。

「どうどすか?」

 そう言って、舞うようにゆっくりと一回りしてみせる。

 遠目にはベージュに見える友禅小紋に舞扇を織り込んだ深い茶色の名古屋帯、前髪はそのままで耳元から後ろをアップにして飾りのないお箸のようなかんざしを二本さしている。

「ああ、とても可愛い。それにやはり着こなしが違うな。少し地味に見えたがよく似合っている」

「おおきに。お母ちゃんの昔の物を仕立て直したんどす」

「なるほど」

 そう言っているところへ大西がコートの襟を立てて入ってくる。

「お待たせしました。部長を撒くのにちょっと苦労しまして」

「いや、時間通りじゃないか。私が勝手に早く来ていただけだよ」

「お、エリちゃん今日はお父ちゃんのためにおめかしかい」

「はい、久しぶりのお着物なんです」

 大西と京子はビール、佐久間はいつもの薄い水割り、エリは珍しくカクテルで乾杯となった。

 バーテンダーの松本も、いつもは気配を消しながらも店の隅々に気を配っているが、今だけは気の置けないメンバーでくつろいでいる。佐久間がすすめると、恐縮して一杯だけといいながらビールを飲む。

「少しは向こうにも慣れましたか」

「仕事は皆目だが、松山近辺はいろいろと行ってみている」

「一人では退屈でしょう」

「ああ、平日はともかく、休みになると時間を持て余して、どうしようかと思っていた。ようやくそれにも慣れてきたところだ」

「そうでしょう。私も静岡へ行ったときに、女房が身重で、半年ほど一人だったんですが、大変でした」

「そうだったかな。私が東京にいた頃か」

「ええ」

「それにしても、趣味のひとつでもあれば良かったと今さらながら後悔している」

「これから始めればいいじゃないですか。時間があるうちに」

「そう思ってね、今計画中だ」

「盆栽とか骨董とかじゃないでしょうね、そんな年ではないんですから」

「ははは、まだそこまでは枯れてはいない」

 まだ始めてはいないが、三味線をと言うのが少々照れくさく小声で言う。

「三味線、ですか」

 大西は驚いて却って大声になる。

「大きな声で言うなよ、恥ずかしいじゃないか」

「意外だなあ、佐久間さんのイメージからすると西洋風のことかと思いましたが」

 大西の声に、やはりエリが興味を示す。

「お三味線がなんどすか」

「佐久間さんが始めようかって。驚いていたんだ」

「珍しおすなあ、男しさんで。お父ちゃん、ほんまですか」

「ああ、昔から憧れていてね。実は君に相談しようと思っていた。今からでも遅くはないかな」

「そんな、好きなことに早いも遅いもありません。どっかで習うてらしたんどすか」

「いや、全くの初めてだ」

「そら大変や、まずは正座することから慣れなあきません」

「そうか」

 たしかに、椅子に座っているのは津軽三味線では見かけるが、座敷ではやはり正座だった。それには自信がない。

 大西は三味線に興味はないらしく、京子と別の話で真剣な顔になっていた。二人の間に何かがあったのか、京子は否定しなかったが、店では馴染みの客として振るっている。それ以上詮索するのは野暮なことだ。

 実は、と先ほど買ったばかりの教則本を見せる。

「あら懐かしい。けど、やっぱり習わはるんどしたら、お師匠さんについたほうがええと思います」

「そう思ってこれから探してみようと思ってる。だが、三味線というものは、どれくらいするものかな」

「そうどすなあ、練習用なら、四、五万から上は五、六十万、もっと高いのんもおすけど、まあ、一般的な長唄三味線なら三十万程度かと」

「ほう、そこそこするものだね」

「長いこと使うもんどっさかいなあ。もう、お父ちゃんが近くにいたはったら、うちでも少しはお役に立てるのに」

「そうだね、私も残念だ。エリちゃんになら叱られても楽しいだろうな、なんて思ってた」

「お父ちゃん・・・」

「ん?」

 一瞬、エリの表情が優しく切ないものに見えた。

「あ、もう一杯もろうてもよろしおすか」

 その表情もすぐに消えてしまう。

「ああ、でも飲むと眠くなるんだろう」

「今度はジュースにします」

 エリが何かを言おうとしたようにも思えたが、それを尋ねることはしなかった。

 絵梨子という名前も、お父ちゃんと呼ばれることも佐久間の中ではやはり詩乃につながる。今日の詩乃のあえてそうしたのだろうそっけない態度と、京子から聞かされた詩乃の動揺、そしてひと月前の電話。また、複雑な表情でエリを見つめてしまいそうになる自分に気付いて、苦笑いしてしまう。

 そうしているとママが現れ、佐久間のことをひどく懐かしがってくれ、また松山の話に戻る。寒い季節の間に店を幾日か休みにして、皆で道後温泉へ行こうかという話になって盛り上がり、大西もそれに乗ってくる。

 とはいえ、このての話は酒の上の話であって、実行されることはまずない。

 新地には数え切れない店があり、生き残りをかけて毎日しのぎを削っている。正月の幾日かは休むものの、それ以外に定休日でもなく店を閉めることは、それだけ客を失うことになる。そうそう休んではいられないはずだ。

 やはり、佐久間はこの店の福の神なのだろうか、九時になる前から客が増えてきた。

 ひと月ぶりの我が家へも遅くなるわけにも行かないと、大西を残して店を出ることにする。

 京子からはまた詩乃から何か言ってきたら連絡すると言われる。佐久間が席を立つと皆が見送りに立とうとする。それを手ぶりで押さえて、また来ることを約束する。

 エリがコートをかけてくれて、表まで見送りに来てくれる。

「じゃあ、少し腕を上げたら、教えてもらうよ」

 そう言って三味線を弾く真似をする。

「はい、その時は厳しく叱ってあげます」

「じゃあ、また」

「行ってらっしゃい」

 花街流のお辞儀に片手を上げて応え、背を向けるとエリが呼び止める。

「お父ちゃん、ちょっと」

「なんだい」

 左手で右の袂を押さえながら、少し首をかしげるようにして二本さしてある簪の一本をすっと抜く。

「うちのことも忘れたら許しまへんえ」

 そう言って、差し出す。

 漆を黒と赤とに塗り分け金粉を風紋の柄に散らした粋なものである。

「ああ、もちろん。大事な娘だ。ありがとう、大切にしよう」

 それを受け取って、視線を残しながら階段を降りる。

 詩乃の言った、エリが佐久間に好意を持っているという言葉を思い出す。それをそのまま信じるほど自惚れてもいないし、仮にそうだとしても、だからといって物のように譲られても困る。

 ただ父親の顔を知らないエリが、少し年が足りないと言いながら佐久間にその姿を見ているのであれば、その真似事程度はしてやれるかもしれない。そういう佐久間もエリの中に会えなかった娘の姿を見ているようにも思える。

 それすらもやはり詩乃への愛情の一部なのだ。

 電車の中でその簪を見ていると、今頃詩乃は一人の部屋で何を思っているのだろうと考えてしまうのだった。あるいは動揺を隠しながら彼との時間を過ごしているのかもしれない。

 不思議なことに、詩乃から彼のことをいろいろ聞かされた時には佐久間を虜にしていた嫉妬心も次第に薄れてきている。付き合いの始まった頃は、詩乃にそういう相手がいることが少しも不自然ではないと思っていたのだ。お互いの思う気持ちは変わらなくても、お互いの存在にはそれだけ距離ができたということなのだろうか。

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