第12話
(十二)
翌日は、朝から本屋へ行き、タイトルに病院経営という文字が入った本を三冊ほど買い込んで、頼んでおいた家具や電化製品が配達されるのを待ちながら読んでみた。
どうやら大枠は企業の経営と大きくは変わらないようで、いくつかの結論的に書かれてある内容に特段目新しいものではなかった。
しかし、保険点数だの医療の質だのという実態のまるで分からない言葉が並んでおり、どうも腹に入らない。
本を見るだけでも、これまでのようには行かないことが分かる。
医者といえば、まず日頃世話になっている診療所や医院が頭に浮かぶ。どこの大学でも医学部の偏差値は高く、まして大学院を出て国家資格に合格し、特別な知識を持っているのは間違いない。だから、例外なくいい暮らしぶりをしているのはある意味当然だと漠然と思っていた。病院といってもその延長線上の存在で、取り立てて経営云々という視点はなくても、それなりに儲かっているものだと考えていたのである。
ところが、現実には倒産に追い込まれている病院が全国でもいくつもあるらしい。
要は収入と支出のバランスであることは、組織である以上常に問われる。しかし、開業医なら外車に乗ってロータリークラブでも名士でいられ、病院になるとそう簡単ではないというからくりが理解できない。一般社会では、個人商店より企業の方が、中小企業よりも大企業の方が競争力に勝っているということは、大学で経済や経営を学ばなくても誰もが知っている。
佐久間がこれまで二十年以上見てきた、一般の経済界とは異なる特別の何かが医療の世界にはあるようだ。
夕方までに、予定の荷物は届き、本も一冊を読み終えた。実感の湧かない内容を理解しようとするのはひどく労力の要ることで、二冊目に取組む気はなくなっていた。
明日九日が日曜日で、いよいよ月曜日からは出勤になる。
明日一日は松山を観光気分で散策してみようと、近くのコンビニで観光客向けのガイドブックと夕食の弁当を買って帰る。
置いて出てしまっていた携帯に理子からほんの五分ほど前に着信が表示されていた。
「はい、お父さん大丈夫ですか?」
「ああ、すまない。コンビニへちょっと出かけていたのでね」
「晩ご飯はコンビニ弁当なんだ。予想通り」
「そう言われると、何だか侘しくなる」
「ちゃんと栄養とか考えて食べないとだめよ」
「ああ、心がける。職場の誰かに適当な店を紹介してもらうよ。今日は配達待ちと勉強の一日だった」
「全部揃った?」
「ああ、エアコンだけ来週になる。少々寒いが、建物がしっかりしているせいか思ったほどでもない。電気ストーブでしのげそうだ」
「風邪引かないように」
「そうだな、赴任そうそう寝込むわけには行かない。明日は松山を探検して回ろうと、弁当と一緒にガイドブックを買ってきた」
「今度行ったときには、案内して下さいね」
「もちろん。君の好きな温泉もあるし、近くに陶芸の里もあるようだ」
「ありがと。もう一つおいしいお店もね」
「ああ、探しておこう。しかし、一人ってのはつまらんものだな」
「もうホームシック?」
「まさか、いや、そうとも言えるか。これまでに長い出張もあったが、やはり違う。かえってホテル暮らしのほうが割り切れるものなのかもしれないな」
「ふうん、ホテルじゃ味気ないようにも思えるけど」
「はなからそういうものだと思っているから割り切れるのかな。なまじ生活空間になっているから侘しく思う」
「そんな風に言ってくれると、ちょっと嬉しいかな」
「二十年一緒にやってきたからなあ、慣れるには時間がかかりそうだ」
「そうね、真一はともかく、浩二には浪人させないようにさせなくちゃ」
「ははは、いい迷惑だな」
「じゃ、何かあったら言って下さいね。二人の予定を聞いて近いうちに行きますけど」
「そうする」
日頃はそこにいるのが当たり前で、そうそう相手のことを意識することもないのだが、離れるとたちまち物足りなさを感じてしまうのだ。
夫婦も長くやっていると、相手の存在が空気のようなものになるとよく言われる。そこまで無色透明ではないが、お互いに理解しあうことで、良い意味で新鮮さもなくなり、お互いに自然体でいられるようになる。恋愛期間のようにいつもいつも相手のことを思い、見つめ合い、少しでも長く一緒にいたいという意識はなくなり、その分、次第にかけがえのない存在になっていくのが普通なのだろう。
理子との会話が終わると、また一層この広すぎる空間が静かに思える。
使うこともほとんどないだろうキッチンがあり、安物ではあるが、ソファもテーブルもある。
そういえば詩乃が通いで掃除と洗濯のアルバイトに行こうか、などと言っていた。
ここに詩乃がいてくれたら、ずいぶん輝きが違うのだろうと思う。
寄り添い肌を触れ合うことがなくても、ほんの一時間でもそこにいてくれて、その姿を見ているだけで十分だった。
洗濯機が回っている間退屈そうな顔で雑誌を眺めていたり、たまに気が向けば簡単な料理を作ってみたり、ひざ掛けをしてクロスワードパズルに悩まされていたり、そんな詩乃を、ただ見ていたいと思ってしまうのだ。
それは理子との落ち着いた関係とは全く違うもので、やはり生活とは呼べないものだ。
では詩乃との生活は、となると想像がつかないものだった。
ごく若い頃の恋は、その先の生活などイメージすらできないまま焦がれているものだ。今の佐久間の思いは、それに近いもののようである。
ただ、そうした空想もどうやらやめにしなくてはならない。
フェリーで来世のことなどを言い出したのは、それが詩乃のさようならだったのだと思えてくる。
それ以来何も言ってこないのは、やはりそうだったのだとも思えるし、佐久間がいつもの年末年始に加えて、転勤、そして引っ越しと忙しくしていることが分かっていて遠慮していたのだろうか。それとも佐久間の予定も伝えてはいなかったために、連絡もできなかったのかもしれない。
あるいはくだんの彼とともに時間を過ごしているのかもしれないのだ。プロポーズするほどなのだから、多少の同情心はあっても、詩乃にそれだけの思いを寄せていることに間違いはない。
少し悩んだが、こちらの状況くらいは知らせておきたいと思う。
その上で詩乃がどうするのかは、詩乃にまかせるしかない。
やはりさようならを言うのか、これまでのように会うことはできなくてもたまには甘えた電話でもかけてくるのか、それは詩乃次第である。
夕食時間を避けて、八時を過ぎてから電話をかける。
「は・・・い」
佐久間からの電話であることはわかっていたはずだが、返事がおかしい。
「元気か?何の連絡もせずにすまなかった」
一瞬間がある。
「パパのばか、パパなんか、パパなんか大っ嫌いや。もうかけてきても出えへんから」
そうして電話が切れる。
佐久間の方が面食らって、切れた電話を見つめてしまう。
こちらから連絡をしないでいたことに怒っているのか、さようならしたつもりなのにそれを理解せずに電話をかけてきたことを怒っているのか。あるいは他に何か理由があるのかもしれない。
これまで気に入らないことがあっても、しばらく不機嫌でいたり拗ねてみせるだけで、佐久間がそれに気付いて謝ったり機嫌をとったりすると、それも長続きすることはなかった。
こうして怒りを真っ直ぐにぶつけてきたことは一度もなかったのだ。
詩乃が腕の中で急に涙を流したときも佐久間は慌てるばかりだった。そして今もやはりどうすればよいのか見当もつかない。
何かに腹を立てて感情的に言っているだけで、本心は違うのかも知れない。詩乃にはそういうところがあるのも事実だ。
感情に任せてそう言ってしまって、すぐに後悔しているのかもしれないとも思える。もう一度電話してみるべきなのか、とも思う。
だが、と、やはり手を止める。
それは詩乃のご機嫌を取って関係を一時的に修復しようとしているにすぎない。
いずれ詩乃が佐久間の元を去るのは止められない。それをいくらか引き伸ばしてみても結果は同じなのだ。そうすることに大きな意味はない。
いずれにしろ大嫌いと言われ、もう電話もかけてくるなと言われてしまっては、どうにもしようがない。
別れの時、その場面をあまり具体的にイメージしたことはなかった。ただ漠然と詩乃が幸せになるのを遠くからでも見守っていてやりたいと考えていた。
ドラマなどで、嫁に行く娘が父親に長い間お世話になりましたと言って家を出る。詩乃がおどけながらそう言い、佐久間は幸せになりなさいなどと言ってやれればいいと思っていたにすぎない。
まさかこんな形で最後になるとは、想像すらしていなかった。
こんなことなら電話もしなければ良かったとも思う。
しかし、その方がかえって物事がはっきりしていいのかもしれない。お互いにここで線を引くことができる。
詩乃にしては激しすぎる言葉を選んだのは、そのためなのかもしれないのだ。
結局、最後まで何ひとつ理解してやれなかったという思いだけが残り、ふうっと体から力が抜ける。
もっとも、これで変わるのは佐久間の心にあったいつまでも詩乃の心を手元に置いておきたいという甘えの気持ちが終わるだけで、そのほかは何も変わりはしないのだ。
そう自分に言い聞かせて、ようやく買ってきていたコンビニの弁当に箸をつける。そして松山のガイドブックを開いて、まずは広域の地図から愛媛県全体を、そして松山周辺の位置関係を把握していく。
そして市内の観光スポットを見ていくと、ひと月前に詩乃が見て回ったという所ばかりである。詩乃が何を思いながら歩いたのか、その姿を思うと胸が痛む。
思い出作りと言って無茶をしてフェリーに乗り込んできた。
詩乃にとってそうした思い出はどんな存在になったのだろう。
佐久間には詩乃のどんな表情もまだ生き生きと思い出すことができる。しかし、それが急に遠いものになったような気がして気が滅入る。
こんなときには酒でも飲んで眠ってしまえばいい、とも思うが、またコンビニかスーパーへウイスキーを買い求めに行くのも情けない。まして、この部屋でいい年をした男がそんな理由で一人酒を飲んでいる姿は哀れすぎる。
冷めてしまった缶コーヒーを飲みながらタバコを吸う。
佐久間が動かなければ空気も動かず、煙が一定の高さでわずかに波を打って漂う。それをぼんやりと見ながら、空気清浄機を買わなければいけないと思う。
ようやく乱れていた気持ちも落ち着いて、明日のルートを考えることにした。
十一時を過ぎるとさすがに寒くなってきた。
わざわざ電気ストーブを点けるまでもないとベッドにもぐりこんではみたものの、眼は冴えて眠れそうにない。
考えないようにしようと思ってはみても、気がつくと詩乃のことを考えてしまう。
そうしていると携帯が鳴る。
もしや、と思って慌てて手に取るが、詩乃からではなかった。ただ番号はどこかで見たような気もする。
誰にこんな時間に連絡するほどの急用があるのか、と訝しく思いながら電話に出る。
「はい、佐久間です」
「あ、遅くにすみません。もう、お休みでしたか」
聞きなれた大西の声だった。すぐ近くで迷惑ですという女性の声も聞こえる。
「いや、大丈夫だ」
「もう落ち着かれましたか」
いささか酔っているようで、若干呂律があやしい。
「おかげで、引越しも無事終わって、ほっとしているところだ。単身にはもったいない、いい住まいを提供してもらっている」
「いよいよ来週からですね、お体、気をつけて下さいよ」
「ああ、ありがとう。君もな」
そう言ったのだが返事がない。電話はつながっている。
「もしもし」
佐久間が声をかけても応答がなく、誰かの話し声はするがそこまでは聞き取れない。
かなり出来上がってかけてきたようだ。だとすればモリにいるのだろう。
酔っ払いの電話にはありがちなことだ。酔っているとはいえ気遣ってこうして電話をかけてきてくれることは嬉しい。しかし一方ではいい気なものだと苦笑いが湧いてくる。
「佐久間さん、ごめんなさいねこんな時間に」
京子の声だった。
「いや、気遣ってくれて喜んでいます。しかし、かなりできあがっているようで、迷惑をかけていませんか」
「いいえ、あ、ちょっと待ってください」
電話の向こうで、しっかりしてちょうだいという声が聞こえる。
「もしもし、お父ちゃん?エリです」
「ああ、元気かい?」
「はい、うちは。お父ちゃんのほうこそお正月に引越しやなんて大変どしたやろう」
「バタバタはしたが、引越しと言っても、単身だとあっけないもので、もう落ち着いている。何かと世話になったね、ありがとう」
「お姉さんは?大丈夫どしたか?」
そう聞かれて、すぐには答えられなかった。
ひと月以上連絡できなかったことと、ついさきほど大嫌いだと言われ連絡もしてくれるなと言われたことを告げた。
「というわけで、いずれにせよ答えが出た恰好になった」
「そんな答えでお父ちゃんはええのんどすか」
「どうにもできないだろう」
「そう、どすか・・・」
納得はしていないようだが、長電話もさせられないと、京子に大西を頼むよう伝えてもらうことを告げて電話を切った。
モリともお別れになる。
いずれまた大西と訪れることはあるとしても、これまでのようにふらりと立ち寄れる場所ではなくなる。
「絵梨子か・・・」
たしかにその名前を思うと、それは詩乃につながる。
詩乃がそんなことを考えていたとは思えないが、もしもそれを狙うならば、実に巧妙な計画である。
来世に望みを託したいというのであるから、忘れられたくはないという気落ちは佐久間と同様にあるのだろう。一方では、どこまで本心からなのかは分からないものの、大嫌いと言われた言葉があまりにも佐久間の耳に焼き付いている。
去年の春から佐久間にも揺れはあった。ところがここのところ詩乃の揺れに振り回されてしまっていたと思う。
詩乃を大切に思う気持ちは動かないのだから、自分は動かないでおこうと思う。詩乃があれこれ考え、その度に揺れるのは仕方がない。その原因を作ったのも佐久間である。佐久間が揺れると、また詩乃の揺れが大きくなるのだ。
もっとも、そんなことを考える必要もなくなったようではあるのだが。
そして、月曜日を向かえ、病院での新しい仕事に就いた。
沖田や仁科が役職者や病院の中を丁寧に引き回してくれた。
佐久間の席は管理部長として、事務所の中に置かれていた。まずは人を知ることが先決であるというのは、これまでのサラリーマン生活で間違いがない。その意味からは事務所の中に席があり、そこで働く仲間たちを知る期間があったことはありがたい。
管理部には、医事一課、二課、人事課、庶務課が属していて、医療系以外の部としては他に経理部、資材部、設備部があった。
人事課、庶務課というのはおおむね想像がつく。見当がつかないのは医事とういう業務だ。一課の越智課長が管理部の次長を兼務しており、二課の課長が女性であることもあって、実質的にこの部隊のまとめ役のようである。
初日であることから、それぞれの課長から担当している業務についてオリエンテーションを受ける。
やはり、概略の説明を受けても、医事という業務が難所のようだ。企業であれば、商品の売値は企業によって異なる。質のいい材料や加工を施して付加価値を高めれば、当然売値も高くなる。またブランドの力も大きく、同じような商品でも有名デザイナーのブランドやそのロゴが入るだけで、二倍近い値段がついていても、それが飛ぶように売れてしまう。
ところが、医療はどんな立派な病院でどんな高名な医者が行おうが、同じ治療だと同じ値段となっている。利用者としての記憶を呼び起こせば、確かにそうなのだ。
越智から、実務をすることはないでしょうが、まあ、どんなものか見てください、と六法全書ほどもある分厚い本を二冊渡された。パラパラと眺めてみても、それぞれに何点と書かれているが、その項目が何を意味しているのかすらほとんど分からない。
佐久間も成人病健診をもう何年も受けている。これまで異常のあった項目意外に何を検査しているのかに興味を持ったこともない。ところが血液検査といっても数十ページにわたる項目があり、それぞれがいくらと決まっている。
医者がいくら頭脳明晰といえども、この全てを理解し記憶しているとは到底思えない。ところが医事の女性たちは、ある程度専門分野はあっても、医者の指示で行った検査や投薬がいくらになるかを覚えているとのことで、どちらが優秀なのか分からない。
そんな説明を受けて、唸ってしまう。これまでの常識はどうもそのままでは通用しそうにない。やはり特殊な世界である。
しかし反面、面白そうだとも思う。自分の考えの及ばない世界がそこにあることで、いやでも興味だけでなく闘志も湧いてくる。
一方で、これまでの経験が役に立ちそうだとも思えるところもあった。病院というところは、一部には進んだ医療機器や医薬品というモノに頼らざるを得ない部分はあっても、基本的には医者を中心とした、極めて典型的な労働集約産業であることも分かった。それぞれに専門性の高い知識や技能を持った集団であり、単純労働ではないが、つまるところ「人」なのだ。人であれば、モチベーション一つで生産性が大きく変動することは明らかで、そのための組織作りや制度作り、そして個人的技能を学んできた。その部分では、貢献できる自信はあった。
しばらくは、周囲も佐久間に対しては、所詮何も分からないのだから、期待されることもない。
立場上、回ってくる書類に印鑑を押すだけである。その都度、その意味を尋ねられて、各課長には負担となっていることは分かっているが、やむを得ない。業務そのものは佐久間がいなくても回るのだ。
しかし、そうした会話の中で彼らは佐久間の瀬踏みをしているのは間違いない。これまで佐久間も上司が代わるたびにそういう思いでその上司を見てきた。どれだけの知識があるのか、理解力はどの程度か、何を重要だと考えているのか、人に対する思いやりや関心がどの程度か、などを知ることはサラリーマンの常識である。そして、悪く言えば、いかに上手くその上司を意のままに操ることができるかが、自分の仕事をやっていく上で重要なのだ。
そこに組織があり、人がいて、それぞれに役割があるのだから、それはどこへ行っても変わるものではない。
そうした部下たちの視線や、声を掛けられた時の反応で、次第に自分がどのような評価を受け始めているのかが分かってくる。そういう意味では、ここ一ヶ月ほどが勝負である。
といって、急に自分が変わるものでもない。今の自分の中にないものはどうやっても出てくることはない。メンバーに尊敬をもって接し、その努力に感謝しながら、自然体でいるしかない。その結果は自分で出せるものではないのだ。
見聞きするもの全てが新しいといっても過言ではない。新鮮な驚きの連続であったが、一方でそれを理解していくことはひどく疲れるものである。
一週間があっという間にすぎた。あれこれ考えても、枠組みや判断基準となるものは浮かんでこず、頭の中は混沌とするばかりだった。
そういえば、東和での最後の仕事となった、新しい人事制度に取り組んだときにも、最初は同じような混沌から入っていったのだ。いずれ時間とともに何かが見えてくる、楽天的にそう考えることが今の佐久間にはできた。
一応、週休二日制で、実務のあるものは、交代で土曜日を半日休日出勤となっているが、課長以上は土日が休める。
金曜日の夕方になって、越智が声をかけてくる。
「管理部長、お疲れでしょう。もっとゆっくりなさっていないと持ちませんよ」
笑顔でそう言う。越智は五十歳で、佐久間よりも先輩である。高校卒では管理職になるのが珍しいと人事課長から聞いていたが、地元の商業高校から入職して、三十一年、努力してきたのだろう。尊重すべき人物である。まして佐久間が来なければ、彼にこそ部長の席があったのかもしれないのだ。
佐久間としても気を使い大事にしていかなければならない人物である。
「ありがとうございます。ところで越智さん、どこか気安い飯屋を紹介してくれませんか。恥ずかしながら自炊もできず、毎日ファミレスではどうも体に悪そうで」
「そうか、部長は、単身なんですね。私は、あまり知らなくて、こっちのほうなら気の利いた店を案内できますが・・・」
と、酒を飲む仕草をする。
「庶務課長、どこかないかな」
「さあて、それなら石丸君が詳しいのでは?なにせ四十年近く単身をやっている」
「やつは単身ではなくて、独身だろう」
一同に笑いが起こる。
「部長、まもなく詳しいのが戻ってきますから、尋ねてみますよ」
「いや、越智さんに手間は取らせません。私が聞きますよ」
「そうですか。でも、部長、こっちのほうも付き合ってくださいよ」
「ええ、あまり飲める方ではありませんが、ぜひ」
佐久間の歓迎会は来週の週末に予定されていた。
東和では飲まないことで通していたが、ここではそういうわけには行かないようだ。
そこへ佐久間の電話が鳴って、皆業務に戻る。
「東和化学の人事課大西様です」
交換の女性からそう告げられ、つないでもらう。
「佐久間です」
「佐久間さん、先日は大変失礼しました。とは言っても、僕はすっかり酔っていてあまり良く憶えていないんですが」
「いや、有難かった。おかげで彼女たちの声も聞けたしな」
「すみません」
「いい酒で羨ましいよ。で、なにか?」
「いいえ、それだけです」
「じゃあ、電話を借りて恐縮だが」
できるだけ早めの転籍の話をしてみる。
案の定、これまでに例がないことを聞かされる。それも承知の上だというと、一応、佐久間の希望をそれとなく人事部長に話してみてくれることになった。
定時過ぎに病院を出て、その夜は石丸君に教えてもらった和食の店へ行ってみた。佐久間に気を遣って、よい店ではあったが、少々値段も張る。毎日というわけにはいかない。
車を地下の駐車場にとめて、またがらんとした部屋に戻る。
平日はそう意識することない。しかし、週末この二日をどう過ごすか思いつかないのだ。明日はエアコンの取り付けに業者が来るだろうが、それも午前中に一時間ほどであろう。先日買った本や、医事の六法全書を開く気にもならない。必要な勉強であるのは間違いないが、混沌としている時には少しその渦から離れてみることも欠かせないものだ。
そう考えてみると、佐久間は自分に大した趣味のないことに気付かされる。
理子の影響を受けて、焼き物に凝ってみたこともある。だが、今一つ夢中になれず、長続きはしなかった。クラシックを聞きながら読書をする時間は、慌ただしい中では貴重に思えても、二日間ずっとそうしているわけにもいかない。そこまでクラシック音楽に傾倒しているわけでもなく、BGMとして流れているのが好きだという程度である。
少し足を伸ばして、松山近辺の観光地を巡ってみる価値はありそうだ。しかし如何せん一人では気が乗らない。
少し落ち着いたら、昔から憧れていた三味線でも習いに行ってみるか、とも思う。
どこかで日本の「粋」という文化に心を惹かれるところがあったのだ。ただ、若い頃は、どうしても似つかわしくないように思えて、それなりの年齢になるまでは、と距離を置いていた。
理由は時に思い当たらない。近くに影響を受けるような人物がいたわけでもない。佐久間には多少天邪鬼なところがあり、皆がポップスだロックだと言っていれば、あえてそれには迎合せず、反対の日本的なものに関心が向く。そういうところがあった。とはいえ中学や高校の時代に「和」とか「粋」というものが理解できるはずもなく、ただの憧れにすぎなかった。
しかし、いつの間にかそれが一つの価値観となって、その後の関心はそちらに向いていたようだ。詩乃の履歴書に、趣味特技が着物の着付けと書かれていたことに眼を留めてしまったのも、そこに原因があったようだ。
そして、若い頃に考えていた、それなりの年齢にすでになっているのだ。
そういえばエリも舞妓をしていたほどだから、その修行の中で三味線を習っていたに違いない。娘のような師匠に叱られながら、一から教わるのも悪くない。気持ちに余裕ができれば、実行する決心をした。
土曜日は午後から、理子と約束をした焼き物の里である砥部へ車を走らせた。陶芸館やその近くには創作館があり、手びねりもできるようだ。
日曜には伊予北条を訪れ、港からほんの四百メートルの距離にある鹿島という島へ渡ってみた。このあたりは風早の地と呼ばれ、四国では珍しく冬には強い風が吹く。そして、しまなみ街道の終点である今治にも足を伸ばしてみる。糸山展望台から来島海峡、そして瀬戸内海の島々を見ると、さすがに国立公園となっているだけのことはあり、絶景だった。関東や東海地方で海と言えば太平洋で、その広い海原も壮大ではある。しかし、この大小さまざまな数多くの島が遠く近くに連なりまた離れ、その間をこれまた大型の貨物船から漁をする小船までが行き来する繊細で変化に富んだ眺めはまさに奇跡としか言いようがない。
これまで縁遠い愛媛県という地にはあまり知識もなく、四国の片田舎というイメージが強かった。せいぜい漱石の坊ちゃんの舞台であり、子規の故郷、そして高校野球では毎年のように活躍したり、あとはミカンが有名だという程度にしか思っていなかった。しかし、やはりその土地ならではの魅力がある。
これからしばらくは、新しい仕事と一緒に、愛媛県や四国を知ることも楽しみに思えてきた。
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