第2話

   (二)

 週があけて月曜日、いつもの生活が始まる。

 佐久間は、会社ではいわゆる中間管理職だった。上司でもあり部下でもある。家庭では亭主であり父親でもある。

 そうしたいくつもの顔がある。

 年齢とともに増えてくる役割をうまく切替えながらこなしていかなくてはならない。サラリーマンなら誰でも同じで、仕事ではうまく行かないこと、悩むこと、情けなくなること、いろいろとある。

 これまで佐久間は極力それを家庭には持ち込まないように努めてきた。

「ただいま」

 悩みや憂鬱な気分を引きずっていても、ドアの前で一つ大きく深呼吸をして、無理にでもそこで切替えるようにしているのだ。

「お帰りなさい」

 妻の理子がエプロン姿で現れる。

「今日は早かったのね」

 いつもの笑顔で出迎えてくれる。

「ああ、今日は適当なところで切り上げてきた。後は若い連中に任せてね」

 丸顔で、きれいな眼と形の良い唇を今でも佐久間はひどく気に入っている。

 近頃、やや太り始めたと本人は気にしているが、ポッチャリ型が好きな佐久間は一向に気にしてはいない。むしろ頬から顎、そして首にかけての線は、女性らしい丸みを帯びて、一層好ましく思える。

「これからご飯なの。先にお風呂にしますか?」

「そうだな、先にさっとシャワーを浴びてこよう」

 寝室でスーツとネクタイを理子に渡して、そのまま浴室へ行き、着ていたものを無造作に洗濯機に投げ込む。

 仕事と同様に、詩乃のことも、家に帰るのと同時に考えないようにしている。

 これまで、その切替えもできていたと思っている。

 一般的には、浮気は亭主がいくら隠そうとしても妻には必ずわかる、と言われている。佐久間にしても絶対の自信があるわけではない。

 ただ、理子から詮索されたり責められたこともないので、これまでのところ大丈夫だろうと高を括っている。

「嫁に行く、か」

 声にはならなかったが、ため息とともにそう呟いた。そんな思いを流すように頭からシャワーを浴びる。

 男は同時に複数の女性を愛することができる。

 それは言い古された言葉ではある。佐久間は多少それに疑問を持っていたのだ。必ずどちらかが本気でどちらかが遊びになる、と思っていたのだ。

 ところが、実際に自分がそうなってしまうと、案外自然にできてしまったことに驚く。

 つまりは、愛情の種類が違うのだ。

 ある程度の年齢になると、男にはいくつかの役割が課せられる。

 いわば、俳優がいくつものドラマや映画を掛け持ちしているようなもので、それぞれでこなすべき役割が違っている。

 会社での佐久間と家庭での佐久間は、ある意味、全く違った人格の人間であり、ここ数年、その傾向は徐々に強くなってきている。

 組織の中では、本来の性格や価値観をそのまま表に出していくわけにはいかない。命じられた役割に応じて、自分自身を変えていくしかない。

 人間の順応性とは素晴らしいもので、そう思って十年もすると、それが本人になってしまうのだ。

 テレビのチャンネルを切替えるように、複数の人格を使い分けることができるようになるのである。おおげさにいえば、少なくとも二人の人間ドラマを同時に生きているようなものなのだ。

 中高年になって長年の妻以外の女性に惹かれてしまうのは、ほとんどの場合、決して妻に不満があるわけではない。別の顔、別の世界に生きるもう一人の自分が大きくなり、その世界で求め合う女性が生まれてくるのだと思う。

 もちろんそれは男のエゴであり、そうだからといって認められるべきだなどと言うつもりもない。

 ただ、自分を分析してみるとそんな風に思えるのだ。

 浴室から出ると、脱衣籠にちゃんと下着とパジャマが置いてある。よくやってくれる妻である。

 佐久間は自分の下着やハンカチもどこにあるのか知らない。

 昭和一桁生まれの父親を見て育ったせいか、そういうものだと思っていた。

「これから単身赴任だってあるかもしれないんだから、お父さんも少しは身の回りのことができるようにならないといけません」

 理子にはそう言われるのだが、そうなったらなったで何とかなると思っている。独身時代は会社の寮で、洗濯もアイロンかけもやっていたのだ。

 バスタオルで髪を拭きながら鏡を見る。

 ここ二、三年で白髪が急に増えた。老けたな、と思う。

 妻はもう長く一緒にいて、共に年をとってきたのだからやむを得ないだろうが、一体、詩乃はこんな自分のどこが気に入っているのだろう。

 ふと、そんなことを思って滅入りそうになるのを頭を振って忘れる。

 ダイニングのテレビでは、子供たちの好きなバラエティ番組が流れていて、どうやら佐久間がシャワーを終えるのを待っていたようだ。

 高校一年の長男と中学二年の次男。

 佐久間は女の子も育ててみたかったのだが、こればかりは思い通りにはならない。

「なんだ、待ってなくてよかったのに」

「最近みんな揃うことがあまりないからいいの。じゃ、いただきましょう」

 そう言えば、佐久間の帰りが遅いことが多い上に、子供たちも学校のクラブ活動や塾通いで、四人が揃って食事をすることは珍しい。

 いつの間にか二人とも背が伸び、もう佐久間とそう変わらない。二人とも運動部のために、食べる量はすでに彼らの方がはるかに多くなった。

 長男の真一は高校生になり、物言いも急に大人びてきた。

 もちろん一人前のことができているわけではないが、日常の些細なことを理子が叱ろうとしても、適当にあしらわれてしまっている。

 次男の浩二は第二次反抗期の最中らしく、理子を相手に反発したり、感情を露にすることがまだ多い。

 佐久間としては、自分も男として通ってきた道なので、そう心配もしていない。

 その内、自分で育っていくものだと思っている。

「お父さん、たまには叱ってやってよ。お父さんの前では、大人しくしてるけど、二人とも私の言うことなんか聞かないんだから」

 そういいながら理子も家族みんなが揃っていることで、機嫌が良さそうである。

 どこにでもある、幸せな家庭の状景だ、と佐久間は思う。家族が皆元気で、性格や素行に気を使うこともない。

 学校での成績も特に秀でているわけでもないが、そう不本意な状況でもない。これから進学が差し迫ってくると、多少心配することにはなるのだろう。それすらもある程度満たされた家庭の証明ということもできる。

 理子と二人で築いてきた家庭がここにある。

 何物にも替え難いもので、佐久間の人生のまさにホームグラウンドであり、理子の存在は文字通り掛替えのないものなのだ。

 一時間ほど食事をしながら、番組を見て笑ったり、世間話をしたりしていても、デザートを食べ終ると「ごちそうさまでした」と、それぞれ自分の部屋へ戻る。

 小学校の低学年くらいまでは、何かとくっついてきたものだが、もう家族での時間は、それぞれの生活の一部にすぎないものになっている。

「コーヒーを入れますね」

 理子もそう言って、食器を片付ける。

 佐久間は夕刊を広げる。

 やはり年のせいだ。夜になると、細かな字が見えにくい。

「はいメガネ」

 理子はすぐにそれを察して老眼鏡を持ってきてくれる。

「ああ、ありがとう。気が利くね」

「何年一緒にいると思ってるの」

「それもそうだ」

 夕刊はあまり読むところがない。気になる記事だけを読んで、あとは見出しだけを目で追う。

 その内に、理子も洗いものを終えて、コーヒーを入れてテーブルに戻る。

 テレビでは、最近流行りの法律バラエティ番組が流れている。取り上げられているケースが、日常の誰もが身に憶えのありそうなことで、親しみやすい。更に、社会の一般的な感覚と、法律上の判断との差に驚かされることもあり、視聴率も高いようだ。

 日本でも時代とともに米国化され、急速に訴訟社会に変わりつつある。先月だったか、会社でたまたま参加した講習会でもそういった話題が取り上げられていた。すでに弁護士や判事、さらに法廷そのものの絶対数が不足しているらしい。

 ところが、そうした身近な話題の中に、男女間のトラブルや夫の浮気に対する慰謝料請求など、今の佐久間には身につまされる話題もあって、顔にこそ出さないが内心は多少動揺してしまう。

 毎回、そのての話題が一つ二つは取り上げられている。実際に訴訟にまで至っているかどうかは別にして、世の中にいくらでもあることであろうし、男と女がある限り無くならないトラブルだと思う。

 また司会者が男性であることから、どうしても男性弁護的であり、内心大きく頷いているのだが、公然と男は浮気をするものだと言われてしまうと、世の主婦たちの疑いを煽る結果になってしまう。

 理子も例外ではないのだ。

 佐久間のことを百パーセント信じきっている訳ではないはずだ。

 まさか現在、自分の夫が若い娘にのぼせているとは思ってないだろうが、過去にも将来に向けても可能性は少なからずある、という程度の疑いは持っているだろう。

 もっとも、最近は女性の方がしたたかで、男を手玉にとっているケースも少なくはない。

 疑おうと思えば、理子にしても疑えなくはない。

 まだ三十七歳で、童顔であるため実際の年齢よりも若く見えるし、十人並み以上の顔立ちでもある。その気にさえなれば、いくらでも機会はあるのだ。

 男が同時に複数の女性を愛せる、というが、それが男性にのみ可能で、女性にはできないという理由はどこにもない。

 とはいうものの、佐久間は理子を疑ったことは一度もなかった。

 もしも、現在、あるいは近い将来、理子が若い男と浮気をしたとしても、彼女が今の佐久間の妻であり、子供たちの母親であることを忘れさえしなければ、そしてその自覚の上でのものであれば、いくらかの嫉妬はするだろうが、許してしまうだろうと思う。

 いつだったか、冗談で理子が「私の青春を返して」と言った事がある。たしかに理子にとって一般的な青春時代は全て佐久間が独占してしまった。

 普通なら二十代も半ばになるまで、適当に遊び、いくつかの恋愛をし、それからようやく結婚を考え始めるのだろうが、その頃には理子は二人の子供の母親になっていた。

 佐久間に会うまでに、幼い恋愛はあったかもしれないが、少なくともそれ以降は自由な選択肢はなかった。

 もちろん、若かったとはいえ、それも彼女が自分で選んだ道であり、佐久間が一方的に責任を感じる必要はないのかもしれない。その分、理子を大切にしてきたし、仕事の面でも頑張ってきたという自負もある。

 ただ、いくらかでも遊んでみたい、他の男性も知ってみたいと思うのならば、勧めはしないが、これまで佐久間のために犠牲にしてきた理子の自由を許してやりたいという気になってしまうのである。

「男というものは、仕方のないものね」

 やはり今回も、夫の浮気が取り上げられていた。

 二十年前の夫の浮気の証拠を、最近になって見つけた場合、時効が成立しているかどうか、というものだった。

 例によって、司会者とゲストの間で、容認論と否定論が面白可笑しく展開されていた。

「ま、オスには自分の遺伝子をたくさん残したいという、動物の本能があるからね。メスは強い遺伝子に群がるし、浮気を積極的に肯定するわけじゃないけど、人間だけが自然の法則の例外とは思わないな」

「男の人はいくつになっても若い子が好きだものね。私もまだいけるかな」

「もちろん。理子は童顔だから、三十そこそこに見える」

「二十代のつもりなんだけど」

「それは、ちょっと無理だろう」

「まあ今は三十過ぎてお嫁に行くのも珍しいことじゃないから、まだ大丈夫よね」

「おいおい、お嫁に行くつもり?」

「だってお父さんに出てけ、って言われたら、主婦業以外にできることなさそうだし、お嫁に行くしかない」

「まさか。俺がそんなことを言うわけがないだろう」

「もうそろそろ飽きたでしょ」

 コーヒーカップを持ったまま、チラリと佐久間を見る。少々ドキリとさせられる。

「そりゃお互いさまだ。だけど愛情っていうのは、こうして年月が経つに連れて積み重なっていくものだと思うよ。結婚した頃に比べると、今の方が何倍も掛け替えのない人になってる」

「ありがと。でも何が起こるか分からないもんね」

「一緒になる前から数えると、もう二十年近くだろう。今まで大事に育ててきたんだ、手放すことなんて考えられない」

「あらまあ、私、お父さんに育ててもらったの?」

「そうだろう、あの頃はまだ十八の子供だった」

「そうね、純情な乙女を騙して」

「ある意味、そうかな。でも、ちゃんとプロポーズして嫁にもらったのだから、騙したと言われると心外だな」

「ごめんなさい。でも、私よりもっと好きな人が現れるかもしれないでしょ」

「どんな人が現れても、奥さんは変えられない。ここまで来るのに二十年かかった。また最初からそれを積み重ねていく気にはどうしたってならないな。これから二十年後っていうと六十五になる。それまで生きているかどうか」

「何言ってるのよ。長生きしてもらわないとね、若い奥さんもらったんだから」

「そうありたいとは思うけどね」

「でも他に好きな人ができちゃったら、一緒にいる必要ないじゃない」

「テレビでも言ってただろう、浮気は所詮浮気。奥さんや家族に対する愛情とは比べられない。好きになることと、ずっと一緒に暮らしてうまくやっていけることとは、やっぱり違うと思うな」

「性格の不一致ってヤツね。たしかにお父さんとうまく合わせていくのは大変」

「そんなに苦労かけてるかなあ。いや、そうかもしれない。しかし、それができそうだったから、嫁にもらった」

「嘘よ。でも浮気は許せそうにないから、私が気付かないようにしてね」

 ちょっと睨むような眼で佐久間を見る。

 そう深刻に考えて言っているわけではなさそうだが、不意をつかれて驚かされる。

「即、離婚?」

「どうかしら、状況によるとは思うけど。でもね、他で子供ができちゃったら、私はいられないだろうな」

「いられない、って?」

「だって、その子にも父親は必要だもの」

「ふうん。そんな風に考えられるのが理子の優しさだね。ま、そんな心配はしなくていい」

「お父さん、女の子が欲しい欲しいって言うからちょっと心配だな。でももしもそうなったら、慰謝料、たっぷりもらいますからね」

「はは、テレビの影響だな。しかし、今だって、全部預けてあるし、これ以上はどこを探しても出てこないよ」

「ね、ね、もしも私が浮気したら?」

 少し深刻になりそうな雰囲気を察してか、冗談ぽく笑顔で尋ねる。

「そりゃあ辛いだろうけど、理子が俺の奥さんでいたいと思うなら、結局は許してしまうだろうな。究極の選択として、いなくなるよりはどんな状態でもいて欲しい」

 佐久間の本心だった。

 これまでいろいろ女性を見てきて、ある程度付き合いが進む場合も中にはあった。しかし、一緒に暮らせるかという眼で見ると、どこかで違和感を感じてしまうのだ。

 もともと他人同士なのだから、そうしたものは必ずある。

 理子の場合、さすがに結婚後しばらくは、年令が違うという不自然さはあったが、いつの頃からか、ほとんどそうした違和感を感じたことがない。

 そういう意味でも、何か不始末があったにせよ、佐久間がそれを許すことさえできれば、やはり最も自分には合った女性だと思う。

「もしも、他の人の子供ができたら?」

「なんだ、過激だな。でも、多分、それでも出ていけ、とは言わないと思う。理子が産みたいと言えば、二人の子供として育てていけばいい。まあ、目の前に突き付けられたら、どこまで冷静にいられるか、自信はないけど、今はそう思う」

「ふうん、ずいぶんおおらかなのね」

「そうじゃなくて、嫉妬もするし怒り狂うに決まってる。あくまで究極の選択として、だ。例えばさ、真一や浩二がどんなに悪さをしようが、やっぱり我が子だろう。最後の最後には、というよりも最初から全て許してしまう、一緒に罪を償ってやろうと思う、そんな感じかな」

「何だか娘みたい」

「何割かはそういうところもある。子供の頃から見てきたからな」

「子供の頃からだなんておおげさよ。コーヒーお代りしようか」

「そうだね」

 もちろん、理子にもいくつかの欠点はある。

 ただ、長所や欠点というものは、ある特徴がプラスに出るかマイナスに出るかの違いであって、いわば誰にでも同じだけの長所と欠点があり、それが個性なのだと思う。

 相性の良し悪しは、その個性のおさまり具合であり、ある程度補い合い、ある程度ぶつかり合い、それを互いに快く思うことができるかどうかで決まるものだ。

 まずまず上出来の夫婦ではないかと思う。

 もっとも理子が言うように、これまでは彼女が佐久間に合わせている割合が多いのは事実だと思う。

 その分、佐久間は理子を可愛がりもし、大切にもしてきたつもりである。望めばきりはないが、佐久間が若い頃から描いていた家庭がここにはある。

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