適齢期

ゆう

第1話

   (一)

「なぁパパ、うちがお嫁に行くことになったら、泣く?」

 元井詩乃はちょっと上目使いで、悪戯っぽい顔を向ける。

 詩乃の関西弁のイントネーションにもすっかり慣れて心地よい。

 昼食の後、コーヒーを飲みに入った京都のNホテル。ラウンジから和風の中庭が見える。

 三月も中旬、ようやく春めいてきて、木々の新芽が膨らむ季節になってきた。

 中庭では、二十人ほどの客を前にホテルの担当が大きな身振りで話している。ちょっとしたホテルならばどこでもやっている、結婚式の説明会が開かれていた。

 まずいところへ来てしまったようだ。

「ああ、きっと辛いだろうな」

 佐久間信也は、少し考えてはみたものの具体的なイメージが湧かず、適当に返事をした。

 佐久間は関東の生まれで、未だに関西弁が使えない。

 詩乃は六月で二十五歳、佐久間は秋にはもう四十七歳になる。

 ちょっと見ると、父娘にも見えなくはない。

「娘を嫁にやるお父ちゃんの心境?」

 そう言って、またチラリと中庭へ眼をやる。

「詩乃が好きだから手放したくないんだよ」

「いつまで?」

 小さな笑顔と一緒に首を傾げてみせる。

「できればずっと」

「そんなん無理。パパには奥さんも子供もいてるもん」

 佐久間が初めて詩乃を誘ったのが、彼女がまだ二十三歳になる前だった。二人の付き合いも、もう二年になる。

 たしかに、いくらかは娘に近い可愛さもなくはない。

 もっとも佐久間には娘がいないので、実際に娘を持つ父親の感情はわからない。ただ、そんな気がするのである。

「お嫁に行きたくなったの?」

「うん、ううん」

 小さく首を振ってから、もう一度自分の心に問いかけるように、ほんの少し手元に視線を落とした。

「今はパパがいるからええけど、今年でうちも二十五。そろそろ真剣に考えんと」

「まだ二十五じゃないか」

「でもなぁ、同級生もそろそろ片付く子増えてきたし。後輩の披露宴になんか呼ばれたら、考えさせられる」

「それは人それぞれだよ。そういう人が見つかれば、でいいんじゃないか」

「それはそうやけど、詩乃も一度は結婚もしてみたいなあ」

「なんだ、『一度は』って。普通結婚は一度だろう」

「そんなの分からへん。バツイチってわりと多いねん。それに、別れてずっと一人の人もいてはるし。うちも先のことは分からへんけど、一度は結婚もしてみなあかん」

 冗談のような口ぶりでそう言って、テーブルに左手を伏せて指を見つめる。

 結婚指輪をしてみたいという仕草だろう。

 佐久間はその手にそっと自分の手を重ねて、詩乃の思いを包み込んで隠すように軽く握る。柔らかで華奢な手である。

「まあ、いつかはね。だけど今は駄目だな」

「いつになったら許してくれる?」

 佐久間の手に微笑みながら、ほんの少し恨めしそうな眼をする。

「許せる日、か。難しいな。いつかはそんな日が来る、と覚悟はしているが、自信はない」

「そんなあ、お父ちゃんと一緒や。いつかは嫁に行くことは分かってんねんけど、今はあかん、て。きっとずうっとやりたないんやから」

「そうかもしれないな」

「もう、やっぱり自分でちゃあんと考えとかな・・・」

 最近は、結婚適齢期などという言葉はあまり耳にしなくなってきた。

 男女ともそれぞれの考え方や人生の選択肢が増え、結婚自体が選択肢の一つになり、その年齢の幅も確実に広がっている。

 とは言うものの、佐久間の考えでは、女性が若さで輝けるのは十九から二十四、五歳ではないかと思う。

 その年頃までは、弾けるような心とエネルギーにあふれている。

 佐久間の世代がまだ若い頃には、その年頃を適齢期と呼んでいた記憶がある。

 更に古い世代では、二十歳前後までと言われていた。

 おそらく何も知らぬまま嫁ぐことが女性の幸せと考えられていたのだろうが、さすがに現代では通用しない。

 詩乃と付き合い始めた頃、彼女にはまだ幾分幼さが残っていたように思える。そして、彼女自身も結婚などずっと先のことだと考えていたようである。

 それが二年経てば、そういう年頃になり、周囲も変わり、結婚を真剣に考えるようになっている。

 詩乃の年頃の『ずっと先』はそんなものなのかもしれない。

「詩乃の気持ちも分からなくもないが、結婚自体が目的になるのは賛成できないな。そういう人が現れて、その結果お嫁に行くのならいいけれど」

「それはそうやけど・・・。けど、こんな風にパパと一緒にいて、そういう人見つけられるかなあ」

「さあ、どうだろうね」

「無責任なんやから」

「かといって、私が詩乃の結婚相手を探すわけにもいかんだろう。ま、そういう人が現れるまで、ずっと私のところにいればいい」

「もう」

 詩乃は少し頬を膨らませてみせる。

 どこまで本気で言っているのか佐久間には見当がつかなかった。

 ふと見ると、先ほど中庭で説明を聞いていた団体が二人のいるラウンジへ移動してきた。ホテル側のサービスで、コーヒーとケーキが出されている。

 聞くところによると、フルコースの食事までサービスして予約を取り付けるところもあるらしい。

 集まっているのはカップルだけではなく、一部はその両親も一緒に来ているようで、担当者にあれこれ質問が続いている。

「出ようか」

 騒がしくなったせいもあったが、佐久間としては、詩乃にこれ以上結婚を具体的に意識させたくなかった。

「うん」

 詩乃は素直にそれに従って席を立った。

 知り合った頃はショートカットだった髪を、今はずいぶん伸ばしている。

 会社ではポニーテールにしていることが多いが、今日はまとめずに肩口でカールしてある。それだけで印象がずいぶん違う。

 ダークブラウンのセーターに同じ色目のベスト、バーバリーチェックを斜めにカットした巻きスカートに黒のブーツ。歩いてスカートが揺れるとほんの少し膝が見える。

 身長は百六十センチとごく普通で、細身であるためか何を着てもそれなりにさまになる。

 ただ、昔からポッチャリ型の好きな佐久間には、華奢で頼りなく見えて仕方がない。

 そういえば、詩乃のファッションもこの二年間でずいぶん変わったようだ。

 以前はいわゆる若者のスタイルが多かった。流行だとはいうものの、佐久間から見るとおかしな重ね着をしたり、ジーンズにTシャツといった全く飾らない格好をして現れることもあった。

 それが、去年の秋頃から、彼女が大人の女らしさを求めているのか、佐久間の好みに合わせているのか、今度は少し背伸びをしているようにも思える。

 地下の駐車場へ降りて詩乃の車に乗り込む。

 詩乃が去年の夏のボーナスで、それまでの軽自動車から中古で買い換えたスポーツタイプの普通車だ。

 詩乃の運転を信用していないわけではない。女性にしてはずいぶん安心できる方なのだが、二人のときは佐久間が運転することが多い。

 おおよそ一ヶ月に一度程度は、こうして詩乃に会っている。

 妻には申し訳ないと心の中では手を合わせている。男の身勝手とはわかりながら、今はこの関係を捨てられないのだ。

「詩乃は、私に泣いてほしい?」

 駐車場から出ると、明るい春の日が眩しい。

「ううん、やっぱりパパには笑顔で送ってほしい。結婚式で詩乃の花嫁姿を見て、おめでとうって言うてほしいなぁ。泣くのはお父ちゃんだけで十分や」

 詩乃は眩しさにちょっと眼を細めながら考えて、明るい声でそう言った。

「そりゃあ無理だろうな。ご両親よりも先にポロポロ泣き出してしまいそうだ。だから招待されると困る」

「最近、涙もろくなったもんね、年のせいかな?」

「こら」

 二人が会うのは京都が多い。

 詩乃の家は大阪でも京都よりの高槻だった。それでも京都市内まで車で出てくるのに、時間帯にもよるが一時間近くかかる。

 なぜ京都かというと、梅田や難波といった大阪の繁華街では誰に出会うかもわからない。知り合いに会って、公然と挨拶ができる関係ではないのだ。

 それは京都でも同じことかもしれない。ただ、誰かに出会っても観光地であることが多少の言い訳にはなることと、京都に住んでいる社員が比較的少ないことも、その理由だった。

 今日は、一月以来の京都で、大原あたりへ最後の梅を見に行こうかと漠然と話していた。

 しかし、詩乃を失いたくないという思いからか、急に彼女の体を求めたくなってしまった。

「詩乃が欲しくなった」

 彼女の同意を得ることもなく、堀川五条の交差点を東へ折れて、山科へと向かう。

 詩乃とも何度か行ったことのあるホテルへと向かったのだ。

「もう、パパったら」

 佐久間の言葉が意外だったのか、甘えた声でそう言いながら、少し赤くなる。


 佐久間が元井詩乃に出会ったのは、四年ほど前になる。

 東和化学の人事部能力開発課長として、佐久間が着任してすぐの四月だった。

 能力開発課はその名前の通り、社員の教育訓練や組織の活性化といったことが主の業務である。佐久間はその年の新入社員教育から課の運営に携わることになった。

 多くの会社と同様に、新入社員教育は大卒総合職の研修と、短大卒、高卒の一般事務職の研修に分かれている。

 その年の一般事務職は女性ばかり二十人ほどで、研修も厳しい内容ではない。

 新入社員たちはそれなりに緊張していても、女性ばかりだとどこか華やいだ雰囲気がある。

 佐久間は主に総合職研修での役割が多かったのだが、一般職研修でも二時間ほど総括的な講義を受け持った。

 事前に名簿と一緒に彼女たちの履歴書や学校での成績、入社試験の結果が担当者から渡される。直接自分の部下になるわけではないこともあって、一人ひとりについて細かく見て行くつもりもなかった。

 パラパラと見ていくうちに、趣味・特技の蘭に『着物の着付け』と書かれている履歴書に眼をとめた。近頃の若い女性にしては珍しい。入社試験の結果もトップクラスだ。

 それが元井詩乃で、詩乃という名前もどこか古風な印象がある。佐久間が最初に憶えたその年の新入社員になった。

 研修後は営業部に配属され、大勢の事務職の中の一人である。エレベーターや社員食堂で挨拶をする程度のことでしかない。

 愛嬌はあるが、取り立てて美人というわけでもなく、たまたま佐久間の記憶に残った、というだけのことだった。

 その後二年ほど経ってからのことである。

 幾度か偶然が重なった。

 滅多に知り合いに会うことのない人通りの多い夜の繁華街で、それぞれ違うグループの飲み会の帰りにばったり出会ったこともあった。

 広い本屋でふと気がつくと隣で立ち読みをしていたこともあった。

 近くの歯医者の待合室で一緒に並んで座っていたこともあった。佐久間が受付けの女性に名前を呼ばれて顔を上げ、ようやくお互いに気がついたのだ。

 そして、顔を見合わせて笑ってしまった。

 佐久間は、その時にはじめて彼女の屈託のない笑顔にドキリとさせられたのである。

「元井さん、何だかおかしなところでよく会うね」

「はい、ホントに。先日はK書店でしたっけ」

 会社の上役相手なので、標準語で話しているが、イントネーションは関西のものだった。

 それが佐久間には新鮮に響く。

「そうだね、あの広い店の中では誰かを探すのも大変なのに。いや、決して君の後をつけているわけじゃあないよ」

「まさか。でも、そんなこと考えてもみませんでした。佐久間課長って本当は面白い方ですね」

 彼女は小さく吹き出してそう言った。

「本当はっていうのはどういうことだ?」

「いつも難しい顔してはるし、あんまり冗談も仰らない方やと思ってました」

「そうか。まあ、仕事柄そう見えるかな。どうだ、何かの縁だ、一度食事にでも行かないかね」

 常々、仕事意識として、日頃接点の少ない一般的な女性事務員の声も直接聞いてみたいという気持ちは持ってはいた。しかし、普段の佐久間では、自分の部下でもない女性社員を食事に誘うなどということは到底できなかった。

 ある意味臆病でもあり、ことを深刻に考えすぎる癖もあった。

 これまでのいくつかの偶然がそうさせたのか、彼女の持っている雰囲気がそうさせたのか、そう言ってしまったことに、佐久間自身驚いていた。

「え、うちなんかで、あ、すみません、私なんかでよろしいんですか?」

「もちろん。会社では君たちの声を聞くことがあまりないのでね、是非」

「はい。じゃあ遠慮なくご馳走になります」

 意外にも詩乃は迷うことなく同意した。

 関西の文化はおおらかで、人懐っこい。

 そして次の週に、多少ギクシャクとした二人の食事会となった。

 佐久間に下心があったわけではない。

 しかし振り返ってみると、その時から彼女の爽やかさにいくらかは惹かれ始めていたのかもしれない。

 忘れかけていた青春時代をふと思い出させてくれる。そんな気がしていたのも否定できない。

 ふた月後の六月、残業をして会社を出ようとすると、また詩乃と一緒になった。

「元井君、遅いじゃないか。金曜日だというのに残業?」

「あ、佐久間課長、先日はありがとうございました。はい。うちの課は人使いが荒いので」

 冗談めかしてそう言う。

 通用口を出て、最寄の地下鉄の駅まで肩を並べて歩いた。

「ま、営業だからある程度は仕方がない。頑張ってくれよ」

「はい、分かってます。他の会社へ就職した友達と比べるとましな方ですから」

「そうか。そこまで送ろう」

 銀杏並木の葉が爽やかな風に揺れる季節だ。

「いい季節になった。そういえば君ももう入社して二年になるんだ」

「はい、あっという間でした。佐久間課長もこの時期はお忙しいんですね」

「ちょうど忙しい時期が終わってホッとしているところだ」

 地下鉄の駅まで歩き、喫茶店でコーヒーを飲んだ。

 他愛もない会話の最後に、佐久間は詩乃をドライブに誘ってしまった。

 たまたま妻の理子が高校の同窓会で里帰りをしているために、土日の時間を持て余してしまいそうだという軽い気持ちからだった。

 詩乃は少し迷ってから頷いた。

 そして、そのドライブから二人が今の関係になるのに時間はかからなかった。

 佐久間はそのときもそして今も、家庭は円満で、妻のことをかけがえのない存在だと心底思っている。

 ならばなぜ、と自問しても答えはない。


 キャンディというホテルへ車を入れる。

 いつもそうするように、詩乃は少し抵抗してみせる。

 しかしそれは女性に共通したためらいであって、佐久間が強く抱き締めると、何度も通った過程で自然に佐久間を受け入れる。

 最近、詩乃は女性としての喜びをわかり始めたらしい。

 佐久間は少々照れるところはあるが、自分が育ててきたことに自信も抱いていたのだ。

 だが、今日の詩乃は違っていた。

 しばらくは意識的に二人の世界に没頭しようとするように、佐久間にしがみついていたが、ふと見ると、眼に涙を浮かべている。

 佐久間の年齢になると、自分の衝動よりも、女性の姿を見ていることのほうに関心が深くなる。

 その相手が突然涙を見せたのだ。

 これまでも、仕事で大きな失敗をしたとか、誰かに心無いことを言われたとか、他愛もないことで涙を見せることはあった。

 しかし、こうして肌を合わせているときに涙を見せることは、全く意外だった。

 佐久間は驚いて、彼女の横に身を横たえた。

「どうしたんだ、泣いたりして」

 目尻から耳へこぼれる涙を指先で拭う。

「ううん、何でもない」

 詩乃はそう言って体をねじって枕に顔をうずめた。

「何でもないって・・・」

「・・・ホントに、ごめん」

 声がこもる。

「何かあったのか」

 佐久間は、先ほどの結婚の話と関係があるのかもしれないと考えを巡らせた。

 しかし、そのこととこうして涙を見せることとは、佐久間の中では結びつかなかった。

 細い肩に手をやると、やっと顔をこちらに向けた。

 涙は止まったらしい。

「自分でもようわからへん、可笑しいけど」

「ん」

「女の子は、時々泣きとうなるもんやねん」

 詩乃は無理に笑顔を作ってみせた。

 頼りない笑顔だった。

 佐久間は、彼女の涙を見てすっかり冷静になってしまって、再び彼女に挑む気は失せてしまっている。

「泣きたくなるって?」

「普段、小さな辛いことや悲しいことがあってもいちいち泣くわけにはいかへんやろう。それが溜まってくると、どこかでうーんと泣きとうなるの」

「それが今だったの」

「そう・・・みたい。パパに優しゅうされたからかな」

 そう言われると辻褄は合っているような気もするが、佐久間としてはどうも釈然としない。

「私は、いつでも優しいつもりなんだが」

 彼女の体を引き寄せると、佐久間の腕を枕にして、小さく身を寄せてくる。その身のこなしもいつしか習慣になっている。

 佐久間が詩乃の表情から読み取れることはないかと見つめると、彼女はそれを感じたようにふっと微笑む。

「うん、分かってる。大丈夫。ほんとにどうしたんやろう。ごめんなさい」

 そうして神妙な顔をされると、佐久間はもう全てを認めるしかなかった。

 彼女の涙の理由に納得できたわけではないが、それを問い詰めても仕方がないと思ったのだ。

 詩乃に何か理由があったとすれば、きっとそれを佐久間には言いたくなかったのだろう。

 ならば、うまくごまかされていてやればいいし、本当にただ何となくだったのかもしれない。

 いずれにしても佐久間は詩乃には甘いのだ。

「そうか、本当に心配しなくていいんだね」

「うん。もう大丈夫。シャワー浴びてくる」

「ああ、それじゃ私も一緒に行こうかな」

「いやや、恥ずかしい」

 詩乃は先ほどの涙が嘘のように、すっかりいつもの詩乃に戻っている。

 いやだと言いながら、ゆったりとお湯に入るのが好きな佐久間のために、湯船にお湯を張る。

 佐久間がやや乱暴に脱がせた自分の服をきちんと折りたたんで、佐久間のズボンやブレザーもハンガーにかける。

 そしてバスタオルを体に巻いて、鏡の前で髪が濡れないようにヘアピンでアップにまとめる。そうした仕草や姿はあまりにも自然で、余計に分からなくなるのだ。

 この切り替えの早さが、若さなのかもしれない。

 佐久間は首を傾げながら、手持ち無沙汰に煙草を吸った。

 こういうホテルの風呂は浴槽が広くてくつろげる。

 少し無理をして二人で湯船に入る。

 詩乃は恥ずかしがって背中を向けたままだ。細身の詩乃だが、その肌は柔らかくて弾力がある。

 悪戯心半分で指先で背中をつつくと、くすぐったいと身をよじり、佐久間を振り返って少しにらむ。

「あらためて詩乃の若さを感じていた」

「正真正銘、若いんやもん。ほら、肌がお湯を弾くやろう。これで若さがわかんねん」

 詩乃はそう言ってお湯の中から腕を上げる。

 確かにシャボン玉が消えるようにパッと表面のお湯が弾けて落ちる。

 佐久間も真似てみるが、差があるのは認めざるを得ない。

「なるほど」

「でもなぁ、十代の頃はもっとピチピチしてたんよ。もうオバさんやわ」

「詩乃がオバさんなら私はどうなる」

「パパは男の人やからええの。女には賞味期限があるんやから」

「何だい、賞味期限てのは」

「昔風に言うと、結婚適齢期かな。それに近い感じ」

「ほう、そんなことを気にするの?三十過ぎて独身だって当たり前の世の中に」

「それはそうやけど。まあ、若さだけで勝負できる年齢かなあ。ある程度になると、それだけじゃあかんようになる。何か他に、例えば、色っぽさとか、優しさとか、知性とか、自立してるとか」

「色っぽい、か。それは詩乃には似合わない」

「そんな失礼な。うちかて女や、うーんと色っぽうなったんねん」

「ははは、馬鹿だな、人はそれぞれに違った魅力があるんだよ。詩乃は色っぽくならなくても十分魅力的なんだから」

「またぁ、いつもの詩乃のあどけない笑顔がいいって言うんやろ?」

「そういうことだ」

「でもなぁ、詩乃、二十四、もうすぐ二十五。いつまでもそれだけっていうのんはちょっと悲しい」

「詩乃は十分優しいし、可愛い。女性の可愛さっていうのは、年齢に関係ないんじゃないかな」

「そうかなあ・・・あ、あかんあかん。パパがそうやって詩乃を甘やかすから、いつまでたっても成長せえへんねん」

「私は今のままでいてほしいのだけどね」

「ちゃんと一人前の女に育ててくれるって約束したのに」

 確かに二年前、佐久間はそんなことを言った記憶がある。

 一般的に、佐久間のような立場では、いつまでも若い娘を縛り付けておく権利はない。

 やがて去って行く彼女が、できればより美しく魅力的になれるように、彼女の長所を引き出してやりたい。

 その手助けが多少なりともできればいい。

 まだ幼さの残る詩乃を一人前の女性に育ててみたい。そんな傲慢ともいえる考えを漠然と抱いていたのだ。

 そういう眼で見ると、詩乃の魅力はやはり年齢に関係のないあどけなさ、多少子供っぽいところもあるが、甘え上手なところだと思える。

 もっともそれは佐久間が四十六歳という年齢だからかもしれない。

 この二年間、詩乃はやはり急速に大人になってきている。

 物事の考え方、周囲の人間への気遣いなど、ともすると佐久間が舌を巻くことさえある。

 それは詩乃が自分で育ってきたのだ。

「そうか、もう二年になるか。まだ二年、なのかもしれないが」

 詩乃が「のぼせそうや」と先にあがって、佐久間は一人で浴室の天井を見上げながらそう呟いた。

 残りの人生から考えると、二年間という時間は、佐久間の方が貴重であるはずだ。 ところが、佐久間にとってこの二年間に大きく変わったことはない。

 しいて言うならば、長男が一年前に高校生になったことくらいである。

 ある意味では、大過なく全てが順調に進んでいるとも言えるし、大きな進歩も転機もなく、詩乃のことを除けば、むしろ平坦で単調な二年間だったとも言える。

 そのために長かったとは思えない。

 しかし、詩乃にとっての二年間は、物心ついてからの年数や、その間の彼女自身と環境の変化から考えると、ずいぶん長い期間であったのかもしれない。

 若い頃は、関心を寄せる対象や可能性がいくらでもあり、どんな人生の選択肢も選ぶことができる。

 恋愛にしても、その気になれば多くの出会いが可能だったはずである。その中で、ずっと佐久間の思いに応えてきてくれたことは驚くべきことなのだ。

「詩乃にとって、この二年間は長かった?」

 佐久間は、風呂からあがり、浴衣姿でソファに座りながらそう聞いてみた。

 キャミソール姿でオレンジジュースを飲んでいた詩乃は、きょとんと少し首を傾げた。

「パパとのお付き合いっていう意味?」

「そう」

「どうなんやろ、あまり考えたことなかったなあ。でも、こうして一緒にいる間は分からへんような気がする」

 詩乃はそう言って残っていたジュースを飲み干した。

「あとになって振り返った時に、長かったとか短かったとか。それも難しいかなぁ、きっと」

「なるほど」

「でも、もう二年になるんや」

「初めて二人で宇治へ行ったのは、詩乃がまだ二十三になる前だったからね」

「うん。懐かしい気もするし、つい最近の出来事みたいな気もする」

 そう言って、肩をすくめて少し笑う。

「どうした?」

「あの頃、パパのこと『佐久間課長』って呼んでたこと思い出したの」

「そりゃあそうだろう。詩乃にとって、それまでの私はどういう存在だったの?」

「んーとね、怒らへん?」

「ああ」

「普通のオジサマ。会社の上司やから、よう知ってる普通のオジサマかな」

「ふむ、多少残念なところもあるが、まあ、そんなところだろうな。しかし、詩乃はその普通のオジサマの誘いにどうしてついてきたんだ」

「だって、その前に一度食事ご馳走になってたし、それに『ドライブに行こう』って佐久間課長は言わはったんやもん」

「それを信じていた?」

「もちろん。パパは違うたの?」

「いや、それだけのつもりだった。まあ厳密に言えば、少し違っていたけどね。宇治公園の芝生あたりで、できれば詩乃の膝枕で、ゆっくりと宇治川の流れを見られたらいいな、という程度のぼんやりとした期待はあった」

「でも雨やった・・・なあ、本当にそれだけの期待しかなかったん?」

「そうだな、立場もあるし、家庭もあるオジサンだからね。だから個人的に誘ってしまってからも迷いがあった」

「ふうん、うちて魅力なかったんかなあ」

「そういう問題じゃない。詩乃に限らず、仮に他の女の子だったとしても同じだ。それとも、いくらか下心があった方がよかったのかい」

「そやかて男の人やもん、普通そうやないの?」

「おいおい、矛盾してるよ。それでも信じてたんだろう?」

「そうか、それもそうや」

 相変わらず、どれが本心なのか捕らえどころがない。

 佐久間が感じている彼女の魅力の一つでもある。

 あの日、詩乃は休みの一日を付き合ってくれた。

 それまでに偶然が重なって、いくらかは『よく知っている』上司の一人ではあっただろう。

 その前の食事にも付き合ってくれたのだから、そう悪い印象を持たれているとは思ってなかった。

 しかし、それ以上の理由があったと考えるほど自惚れてはいなかった。

 若い娘にありがちな、ただ何となくそうしたかった、という程度の気まぐれからだろうと思っていたのだ。

「けど、結局、佐久間課長は無事には帰してくれへんかった。パパが悪いんや」

「別れ際のキスか。全てがあの瞬間から始まったとも言えるな。たしかに、そのままさよならするのが物足りなくて、急に迫ってしまった。しかし詩乃は逃げなかった。正直驚いた」

「突然すぎて逃げられなかっただけやもん」

「嘘はいけない。私は今でも憶えてるよ。詩乃がちゃんと応えてくれたこと」

「いややわぁ恥ずかしい」

「普通のオジサマだったのに」

「それは、その日までのこと。一日一緒にいて、パパに魔法をかけられたんかなあ」

「魔法?」

「いろいろ気ぃ使こうてもろうて、お姫さま扱いも嬉しかったし、いろいろお話ししてくれはって、それまでの佐久間課長とは別の人やった。やから、普通のオジサマから少し素敵なオジサマになってかな」

「少しだけ、だったの」

「そうや、ほんの少うしだけ」

 詩乃は親指と人差し指で間隔を作り、片目を閉じて、その間から覗いてみせて、そして悪戯っぽく笑った。

 少々生意気そうな仕草だが、笑顔には佐久間の大好きな、あどけなさと、甘えん坊の性格が表れている。

「天邪鬼め、こっちへおいで」

 佐久間が手を伸ばせば、自然に手を重ね、導かれるままに立ち上がって、引き寄せるとちょこんと佐久間の膝の上に抱かれるように座る。

 二年間の慣れがそこにはある。

「重くなあい?」

 佐久間の首に両手を回して、下から見上げてそう言う。

 詩乃の眼は一重で、いつもは少し眠そうにも見えるのだが、そうすると急に子供っぽくなる。

「もう慣れた」

「いじわる」

 詩乃はちょっと佐久間の頬をつねる。

「で、少しだけ素敵なオジサマに昇格したから逃げなかったの?」

「それも理由の一つかな。でも、自分でもびっくりしてたくらいやから、やっぱり何となく、かなあ」

「何となく、で決められることでもないだろう」

「後から考えると、パパが言うようにいくつも理由は考えられるけど、そのときにそんなこと考えて決めたわけやないもん。だから言葉にすると、何となく、ってことになるの」

「なるほどね。そういうこともあるかもしれない」

「もう、パパは何にでもちゃあんとした理由がないとあかんの?そんなこと言うてたら、若い子に嫌われるよ」

「詩乃がいるから、もういい」

「詩乃も若い子の一人なんやけどなあ」

「じゃ、詩乃も私のことが嫌いになる?」

「ううん、もう慣れた」

 詩乃が佐久間の言葉を真似る。

「こいつめ」

 佐久間は、ふわりと抱えていた詩乃の体を引き寄せて強く抱きしめる。華奢でしなやかな体は、すっぽりと腕の中におさまってしまう。

 詩乃は眼を閉じて、何の抵抗もなく身を任せて、むしろ自分から体を寄せてくる。

 無条件に、可愛いと思う。

 妻の理子も年齢が開いているせいもあって、若い頃からずいぶん大切にして、ある面甘やかしてきている。

 そして三十台も半ばを過ぎた今でも甘え上手であり、結構仲良くやっている方だと自信もある。

 しかし、この詩乃の可愛さは、どうにもならない。

 それは今の佐久間の年齢によるところもあるのかもしれない。あるいは二人の許されない関係のせいかもしれない。

 本来、ここにはいるはずのない女性が、何かの縁で転がり込んできて、いずれ出て行くことは止められない。そういう限られた時間なのだという思いのせいだろうか。

 そして詩乃も、それが分かっているために、安心して甘えていられるのかもしれない。この詩乃が嫁に行き、誰か他の男に抱かれることになる。

 今の佐久間にはそう考えるだけで嫉妬が抑えられない。勝手なものだ。

 二年前に深い関係になったときには、詩乃を独占したいとも、ましてや独占し続けたいとも思っていなかった。

 敢て尋ねもしなかったが、二十二、三の詩乃にいわゆる彼氏がいても不思議なことでもない。むしろ彼女に残っている、これまでの経験からくる癖さえ新鮮に感じて、そこに嫉妬する気持ちもなかったのである。

 やはり二年間という時間の中で、彼女が大切な存在になるにつれ、その独占欲も大きなものに変化したらしい。

 そう考えると、二年間は決して短い時間ではなかったのかもしれない。

「パパ、ちょっと苦しい・・・」

 詩乃が消え入るような声で訴える。

 抱きしめている腕に思わず力が入りすぎていたようだ。

「ああ、すまない。誰にも詩乃を渡したくなくて・・・大丈夫?」

「うん。ちょっと苦しかったけど、でも嬉しかった。・・・このまま息ができなくて死んでもええかなって」

「ばかなことを」

「うんと抱き締められて、パパにいっぱい愛されてるんやなぁ、ってわかるもん」

 詩乃は佐久間の膝からするりと降りて、向かいのソファに座る。

「そろそろ重くなったでしょ」

「いいや」

「でも、うちって贅沢。こんなに大事にされて」

 俯いて少し神妙な顔をする。

「それを言うなら、私のほうがずっと贅沢な思いをさせてもらっている。二度目の青春とも言えるような経験をしているんだから」

「ふうん」

 二人の時間は滑るように早く過ぎていく。

「どうする?このままここで泊ってもいいのだけど」

「あかん。外泊は禁止。そう約束したんやもん。けど、パパはどこかへ行きたかったんやないのん?」

「そろそろ大原の梅も見納めだから」

「今から行ってたら夜になる」

「まあ、大原はどうでもいいんだ。また違う季節には違う魅力がある」

「詩乃は少し京都の街を歩きたい、ええ?」

「もちろんだ。夜の京都も久しぶりだ」

 人目を気にするところもあって、あまり二人で町を歩くことはなかった。

 詩乃の年頃の一般的な交際だと、繁華街を歩き、最新の映画を見て、流行の店でコーヒーを飲み、友達連中と居酒屋で飲んで、カラオケで騒ぐ、それが楽しい年頃のはずだ。

 しかし、佐久間としては一緒にいる時間はできる限りの贅沢はさせているつもりでも、詩乃の心の中には、年齢に相応しい世界への思いもあるのだろう。

「むこうを向いてて」

 詩乃は、今でも洋服を身につけるときに、佐久間に見られるのを恥ずかしがる。

 つい先ほどまで、下着姿で体を寄せていても、そんな素振りは少しもなかったのに、不思議なものだ。

 佐久間も所在無く、詩乃に背を向けて、浴衣を適当に脱いで身支度をする。

 詩乃は身支度を終えると、簡単に化粧をしてから、佐久間が無造作に脱ぎ捨てた浴衣をたたみ、ベッドを直す。このあたりは幼い頃からの躾の延長線なのだろうが、初めてこういうホテルに来たときからそうだった。

 そんな些細なことからも、詩乃を好ましく思ってしまうのだ。

 室内にある精算機のボタンを押すと金額が表示される。それに従って紙幣を投入するとつり銭まで出てくる。便利になったものだ。

 利用者と係員が、顔を合わせることも声を交わすこともない。

 もっとも、最近若者の間では、こういうホテルへ出入りすることも、驚くほどオープンになっているらしい。

 満室のときは一階の明るいロビーで自由に順番を待っている。ゲームコーナーもあって退屈させない工夫もされているが、お互いに顔の見える場所である。

 そのあっけらかんとした空間を、今風と言えばそれまでだが、佐久間としてはやはり違和感を持ってしまう。

 古いと言われるかもしれないが、性に関して尊厳と同時に秘密性を抱いていたい。

「テレビ番組で見たのだが、最近の若い人は、お付き合いを始めるときに、まずはベッドインして、それからどうするかを決めるらしいね」

 一号線を西へ出て、京都市内へと向かう。

「うん、聞いたことある。みんながそうってわけやないと思うけど。それに、うちらよりもずっと若い世代のことやし」

「そうだと信じたいね。年頃の娘がいたら親は心配でたまらない」

「詩乃のことも心配?」

「多少はね」

「大丈夫。考えられへんわ。周りにもそれに近い子はいるけど、みんな考え方違うもん」

 詩乃はふっと大人びた表情になる。

 最近、時折見せる顔である。

 やはり少しずつ変わっているのだ。

 佐久間から見ると、二十歳も二十四歳も、若いというひと言で括れる年齢だが、その世代に生きていれば、二年、三年の違いはそれなりにあるのだろう。

 詩乃が変わっていくということは、彼女が佐久間に求めるものも変わっていくはずである。

 二人で真剣にそんなことを話したことはない。また、詩乃にそれを尋ねても、具体的に表現できるものではないかもしれない。

 しかしそれに応えられなくなると、どこかで佐久間の元を去っていくことになる。

 それは避けられないことだとは思う。

 先ほど見せた詩乃の涙の意味は、そのあたりにあるのかもしれない。

「なあ、うちが泣いたこと、まだ気にしてる?」

「うむ、心配していないというと嘘になる。それもあるし、あらためて詩乃も本当に大人になってきているなあって考えていた」

「ふーん、やっとわかってくれたか」

 少し生意気そうにそう言って、クスリと笑う。

 いつかは自分を卒業させて、一人の女性としての人生を歩ませないといけない。ぼんやりと考えるだけで、やはり淋しい。

 京阪四条近くの駐車場に車を入れて、歩いて加茂川を渡る。

 夕方五時を過ぎているのに、空はまだ明るい。ずいぶん日が長くなった。

 人の流れは相変わらず多く、舗道から溢れるばかりである。

 迷子になることはないだろうが、二人が離れないように詩乃は佐久間の手を握る。父親と娘に見えなくもない二人だが、本当の親子で手をつないで歩くことはまずないだろう。

 佐久間の心の中で、照れくさい思いと、自慢したい思いが複雑に絡み合う。

 四条大橋を渡って、交番を右に曲がると先斗町。狭い路地の両側にいくつもの料亭や小物の店が並ぶ。

 料亭などの軒先には、つなぎ団子の提灯が吊るされ、腰の高さから下は犬矢来という竹の細工で覆われている。

 洒落た造りの玄関に、普通の表札と「お茶屋」の表札が並んでいる家が数多くある。一見では相手にされない世界だ。

 佐久間も一度はのぞいてみたいとも思うが、その機会は今のところない。

 夕暮れの迫る町並みが風情豊かであり、海外からの観光客も多い。

 目の前を、年齢と身のこなしから、素人とは見えない和服の女性が歩いている。

 そういえば、大阪や神戸ではまず見かけることのない和服姿も、京都では珍しくない。

「詩乃も一度着物で京都を歩いてみたい」

 詩乃が佐久間を見上げてそう言う。

「舞妓さんのようにかい?」

「ううん、普通の振袖。夏の浴衣もいいかな」

「詩乃はきっと似合うよ。今でも自分で着られるの?」

「多分。でも、ちょっと自信ない。パパも似合うと思う。さっきから男の人の着物姿を見てるけど、あんまり似合うてる人はいてはらへん。慣れてないのと体型もあるかな」

「なんだ、私は体型が理由かね」

 何か目的があって歩いているわけではない。

 先斗町を三条まで上がると瑞泉寺にあたる。そしてまた今度は一筋西の木屋町通りを高瀬川に沿って南へ下る。

「詩乃は、他に好きな人とかいないの?」

「どうして?」

「そういう年頃じゃないか。他の男連中が言い寄ってくるだろう」

「そりゃあゼロやないけど。今のところ、仲のいいのは元カレくらいかな」

「元カレ?」

「一応、別れたみたいなことになってる。でも仲はええねん。時々一緒に飲みに行って、お互いの近況報告したり。パパのことはさすがに言われへんけど」

「どうして別れたの?」

「なんとなく、かな。ずっと友達としてはいい人なんやけど。付き合い始めるときも、今日から二人は恋人です、っていう感じでもなかったし。やから、別れて次の日からもう会えへん、ていう関係でもないねん」

「そう。ちょっと嫉妬するな。しかしそれが普通か。こうして会えるのもひと月に一度程度。その間、ずいぶん淋しい思いをさせていると分かっている。いつまでも私が独占していていいのか、なんて考えてしまう」

「あんまり優しい言葉かけられたら、また泣いてしまいそうや」

「ここで泣かれちゃ困るな」

「う、そ・・・でも、そうやなあ、そういう年頃。いやや言うても、また誕生日がきたら一つ年をとる。複雑・・・」

「複雑だね、たしかに」

「もう、他人事やと思うて」

「それは誤解だよ。詩乃が何を考えて、何を悩んでいるのか、そしてこれからどう決心していくのか。私にとっても大問題だ」

「パパにとっても?」

「もちろんだ。この年でいうのも可笑しいが、私にとっては、これが最後の青春だからね。詩乃が私の元を飛び立ったら、もう二度とこんなばかはできないし、しようとも思わないだろうな」

「ばか、なの?」

「この年で、こんな向こう見ずで、無責任な恋をしている。詩乃を幸せにできないのはわかっているのに止められない・・・ばかだろう」

「パパらしいとは思うけど、詩乃は今、十分幸せやねん」

 詩乃は繋いでいた手を離して、佐久間に体を寄せるように腕をからめてくる。

 古いと言われるかもしれないが、佐久間の考える男としての愛情は、家庭を持たせ、子を産ませ、安定した生活を約束することだと思う。

 おそらく詩乃は、最初からそんなことを望んではいないのだろう。だからといって、今さえよければいいとは考えられない。

 詩乃をいわゆる都合のいい女にしてしまうのでは、自分を許せないのだ。佐久間も常に理性と感情の間で揺れている。

 この年になると、自分の気持ちをごまかして、深い関係になる前にブレーキをかけてしまうことはそう難しいことではなかった。

 佐久間が敢えてそれをしなかったのは、やはり「これが最後の恋」だという思いからだった。それは、自分の中に僅かに残された、若さへの未練だった。

 思うことはそれぞれにありながら、黙って体を寄せ合って歩いていた。

「パパ、そろそろ帰らなあかんのとちがう?」

「そうだな、もう少しいいだろう」

「ん・・・」

「未練、かな」

「そう言うてくれると嬉しい。でも、奥さんのこと大事にしててな。うちも女やから嫉妬する心はある。でも家庭を大事にしてるパパやから、そういう人やから好きになったんやから」

「ああ、それも約束したからね」

 二人にはいくつかの約束があった。

 それは、佐久間は必ず仕事と家庭を優先する。外泊はしない。休日はできるだけ家庭で夕食を摂る。お互いに都合の合わないときは無理をしない。というものだった。

 付き合い始めて半年ほど経ったときに、詩乃が言い出したのだ。

「パパはいっぱい背負うものや守るものがある。詩乃のせいで、それがちょっとでもぐらついたら、その方が悲しいもん。パパの心の隅っこで愛していてくれたらええねん。だから約束してくれる?」

「気持ちは嬉しいが、私はできるだけ詩乃に淋しい思いはさせたくない」

「あかん。パパが困ったり、誰かが泣いたりするようなお付き合いやったら、詩乃はパパと一緒にいられへん。好きになってしもうたから仕方ないけど、やっぱり奥さんに悪いことしてるのは事実やもん。本当は早よう終わらなあかんのに、こうしていることへのせめてもの罪滅ぼしなんやから」

 そう言われてしまうと、佐久間は詩乃に従うしかなかった。

 子供だと思っていたが、詩乃なりに考えていたのだ。

 佐久間はというと、全く逆に分別くさい自分を無理をして忘れようとしていた。一度しかない人生、これまで随分常識的に、ほぼ模範的に生きてきた。少しくらい無分別に生きてみてもいいのではないか。

 詩乃の提案は、その衝動を押さえ込んだ。

 行くあてのない恋の限界、守らなくてはいけないルールは、確かにそのあたりにあるようだ。

 少々湿っぽくなったために、別れづらい思いは強かった。

「パパは普段、帰るの遅いんやから、お休みの日くらい、お家でご飯を食べなあかん」

 詩乃が無理をしてそう言う。無理をしていることがわかるだけに、それに従わざるを得ない。

 再び詩乃の車で、高槻の外れまで移動して、そこで佐久間は降りる。

 佐久間の家は淀川を挟んで東側の枚方なので、ここから電車を乗り継いで一時間ほどかかる。

 駅の近くまで行くと、誰かに合わないとも限らない。

 詩乃が運転席に移り、窓越しに短いキスをして別れた。

 電車に揺られながら、佐久間は詩乃の言った「元カレ」の存在にこだわっていた。

 そういえば、随分前にも一度尋ねたことがあったような気がする。その頃は、今ほど詩乃を独占していたいとは思っていなかったからか、若い女性にはそんな男友達の一人や二人いることが当然だろうと気にも留めなかったのだ。

 ところが今となっては佐久間の感情は少々複雑だった。身勝手とわかっていながら、湧き上がってくる嫉妬心がある。

 佐久間を好きだという詩乃の言葉さえ、本当なのか、と思ってしまう。

 詩乃は、自分のことを恋には不器用だと言っていたが、思いの外「小悪魔」で、佐久間はうまくあしらわれているのかもしれない、という考えまで浮かんでくる。

 それも詩乃のことをそれだけ深く愛してしまったせいなのかもしれない。

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