ファルザードⅠ

 王の黒馬は西の小門から宮中に入った。厩舎の前で密かに待っていた馬丁に馬を預けると、ファルザードは裸足のセビルが足を傷つけないよう抱え上げて、宮殿の中庭を横切る。中庭には一本のシデの木が影を落とし、垣根の鮮やかな花々が暗闇に強く己の色を誇っていた。女奴隷を抱きかかえて歩くファルザードを、花々の香りが追いすがる。それは美しい過去が懐かしい人の姿をして袖を引くのに似ている。

 月夜の夜明かりに、七つの丸屋根を持った荘重な宮殿が聳えていた。丸屋根ごとに小宮殿に分かれ、七つ揃って大宮殿を構成している。ファルザードは瀝青タールの色をした丸屋根の宮殿にセビルと共に入る。宮殿の中の灯はすでに消されて、ただ月明かりだけがその美を露わにしていた。廊下は白亜、燭台は金、絨毯は一流の職人が四十年をかけて織りあげたアルダーグ産の最高級品。調度や装飾はごく限られているはずなのに、この宮殿は暗がりの中でさえそうと感じるほどの気品に満ちていた。その廊下を、ファルザードは幽霊のように行く。そう、彼はこの宮殿の主にして幽霊だった。

 廊下の奥にある扉を開け、部屋に入ると、天蓋のついた朱絹の豪奢な寝台にセビルを下ろした。寝台の横には氷砂糖に柘榴に葡萄酒。部屋の中には香が焚き染められており、一夜を楽しむのに必要なものは全て揃っている。部屋の奥の大窓から月光が差して、そこかしこにある女物の装束や指輪、腕輪の数々を輝かせた。

「ここがお前の部屋になる。不満があれば調度も替えさせよう」

「いいえ、不満などありようもございません。陛下がここを訪れてくださるのなら、私はもうそれでよいのです」

 その受け答えは、今ここに連れて来られたにしてはあまりにも滑らかすぎた。なんと順応が早いことかと、ファルザードは口の端を上げる。ほとんど手間がかからずに味気ないのではないかと思ったが、雲間の月に見紛うセビルの姿を見ていると、それもどうでもよくなった。

 ファルザードは自身も寝台に腰掛けると、セビルの黒壇の髪を指に取って弄んだ。セビルはそうして弄ばれながら、愁わしげに目を伏せ、豊かな唇の間から吐息を漏らしていた。その様子にファルザードは興が乗り、右足をセビルの右足に乗せる。セビルは、自らの右足をファルザードの右足に乗せ返す。ファルザードがまた右足を乗せる。そうして幾度かのやり取りの果てに、ファルザードの右足はセビルの右足に君臨した。

 それを皮切りにファルザードはセビルを朱絹の上に押し倒した。セビルが纏っていたわずかな布切れを手つきは優しく剥ぎ取り、王者の手を産毛の生える柔らかな肌に滑らせた。次第に花蘇芳の色を帯びて指に吸い付く肌も、二つの豊かな丘陵も、湧き出る泉も、切ない吐息もすべてファルザードの手中にあるかのようだった。いや、彼女の肉体は紛れもなくファルザードのものだった。

 事果てて、些かの心地よい気怠さを含みながら起き上がると、ファルザードは寝台の脇の卓から氷砂糖を二つ取って、一つをセビルの手に渡し、もう一つをセビルの口に入れた。セビルもファルザードの口に氷砂糖を入れる。それはまるで婚礼を挙げた二人の初夜のような睦まじさだった。

 長い間ファルザードに身を寄せて口中の氷砂糖を溶かしきってから、セビルは口を開いた。

「奴隷である身にこのように親しくしていただくのは、望外の悦びにございます。私にできることであれば、何かお返ししとうございますが、何かおありですか」

 ファルザードは乱れた自分の髪を手で軽く梳くと、寝台に身をゆだね、片肘をついて頬を支えた。横たわりながらセビルの腰を引き、彼女も隣に侍らせる。

「この世の栄華も悦楽も全て我が手の内よ。この上、お前に望むことがあろうか」

 セビルは口元に手をあてて笑った。その様子は年端も行かぬ少女のようでありながら、たとえようのない色香を漂わせた。

「いいえ、何かおありでいらっしゃる」

 その声はセビルの確信を伝えていた。だから、ファルザードは思わず考え込んでしまった。ファルザードがセビルに言ったことには、一片の偽りもない。全てを手に入れた、とファルザードは思っている。それでもセビルの言葉を聞くと何かありそうな気がした。ファルザードはしばらく思い巡った末にこう言った。

「そういえば、お前は魔女を名乗っているそうだな」

「はい」

「魔女というなら、何か魔法の類でも使えるのであろう。どのような魔法が使えるのだ。その魔法なら見てみたい」

 セビルは嫣然と微笑んだ。

「私の魔法は人に物語ダースタンを語らせる魔法でございます」

「語らせる? お前が語るのではないのか?」

「はい、語らせるのみにございます。しかし、どんな離れたところにいる者であっても、自在にございますよ」

 ファルザードはふむ、と頬杖を頬骨のあたりに移した。もう片方の手でセビルの豊かな黒髪をいじる。

「それは余には必要なさそうだな。余は物語が欲しければ、いくらでも詩人を呼ぶことができるのだから」

「――陛下御自ら語られるのはいかがですか?」

「なに、余に下賤の者のような真似をせよと?」

 ファルザードの声は穏やかであったが、その実、怒りに触れていたとしてもおかしくはなかった。だが、セビルは気にかけない様子で笑う。

「たしかに下賤の者の生業にございましょう。しかし、ご存知ありませんか? 物語を語ることはこの世で類のない悦楽なのでございますよ」

 セビルの髪をいじるファルザードの手が止まった。怜悧な瞳でセビルの顔を見る。それは、罪人を見定めるときと同じ瞳だった。

「面白い。もし、お前の言う通りでなければ、夜明けとともにお前の首を刎ねてくれよう」

「思いのままに」

「しかし、何を語ればいいのだ。余は生まれてこの方、物語など作ったことがない。無論、聞き知った物語ならあるが、それをなぞれと言うのか」

「いいえ。初めて物語を作られる方は、ご自分のお話をなさるのがよろしいですよ」

「余の話だと? 余の事績も名誉も、千もの詩人たちが歌うところぞ、今更何を」

「詩人たちが決して歌わない御心がございましょう。そして陛下はそれを誰かにお話したいはず」

 ファルザードは思いふけった。あると言えばあった。決して誰にも話したことがない、彼の内心が。セビルは甘やかに、まるで砂糖を零すかのように囁く。

「私はこの部屋から出られぬただの女奴隷にございます。しかも狂人ということになっております。私に何を言おうとも、陛下の秘密が本当のこととして他人に知られることがありましょうか。ためらわれる必要はありません。それにこれから陛下が語られるのは〝物語〟にございますよ」

「そうか……」

 そう言われると、ファルザードは語りたいような気がしてきた。否、語りたかった。世界に冠たる王国の王とて人の子。秘めてこなければならなかった内心を物語に託して思うさま語ってよいのだと、そう優しく誘われたなら、揺らぐものがないではなかった。所詮相手は籠の中の鳥、誰もその言葉を信じない女奴隷である。何をためらう必要があろうか。

「余はターリークの王で――」

「もう少し前からでございましょう」

「前から……」

 ファルザードは迷い、自分の中の欲望を探し、微かに動くそれを掴んで、手触りを確かめると低く語りはじめた。


 まだ、兄がいた頃の話だ。余には兄がいた。体躯は獅子にも劣らず、顔は陽のようで、笑えば春のようだった。余と兄は幼い頃から仲睦まじく、授業の合間を縫っては共に戯れていた。少年の頃の木陰を覚えている。今宵お前を抱えて通ったあの中庭に生えるシデの木よ。

 余と兄は木の根元に腰掛けて、この国の歴史を読んでいた。兄が右手で巻物の端を、余も左手でもう一端を持っていた。兄は空いた手の指を余の指に絡めた。余も兄の指に絡めた。そうして戯れて、巻物が再び読むこともできない有様になるのを気にもかけなかった。余は兄のもので、兄は余のものだと思っていた。いずれどちらかが死ぬことはわかっていたが、だからといって兄との時間に暗い影が差すことはなかった。いや、わかっていたからこそ、兄も余もただひたすらに打ち解け楽しんだのかもしれぬ。

 余が十五になった年のことだ。父王の病が重くなり、王位を継ぐ者が選ばれた、それが余だ。余は不思議であった。余よりも兄の方が王者として優れていると考えていたからだ。噂によれば、兄は父の大臣たちに疎んじられていたのだという。兄はしばしば父に進言し、その内容も大臣らに対して苛烈だったというから、それが理由だったのだろうか。まだしも余の方を与しやすしと見たのであろうか。今となってはわからない。そしてわかる必要もない。あの大臣どもも、すべては墓の底なのだから。

 お前はこの王国の決めごとを知っておろうか。ターリークでは、王の息子は王位を継ぐ者以外すべて牢に入れられ、数ヵ月経てば病で死ぬ。病ということになっておるが、なんのことはない、牢の中の王子に毒瓶を渡すのよ。兄も牢に入った。余には牢の中の兄に会いに行くことが許されなかった。余は瀕死の父王の側に控えておるだけだった。前日に庭で見た兄の姿が最後だったのだ。

 兄は二月ふたつきで死んだ。そう時も置かずに、父王も崩御した。余は王位に即いた。望めば何でも手に入った。だが、兄は余のものとはならなかったのだと悟った。

 余は兄の死を見なかった。兄に渡された毒瓶を見なかった。兄の遺骸はアルダーグの外れにある墓地に入ったのだという。だが、余はその葬送に立ち会うことは許されなかったし、兄の死に顔も見なかった。兄の最後は余のものではなく、ただそれゆえに兄は余のものではない。

 余は王位に即いて以来、兄の代わりとしてターリークを愛し、慈しみ、一層の繁栄に導いた。遠きナズカンドの生まれとて、我らが富と栄光の噂を聞かぬわけではあるまい。この世の物産と財宝の半分はターリークに集まる。余が王になって以来、粗忽な商人どもは財貨を量る秤を壊したほどであった。余の肖像が彫られた貨幣は金や銀を多く含み、ターリークの外であっても、この大陸中で通用する。

 心ある者は皆、余を名君と称える。余の事績を記した石碑や巻子は最早数え切れない。およそ、この世の宝物で余の手に入らぬものはなく、余が呼び寄せて来ない者はいない。だが――。

 そこでファルザードは言葉を切った。

「だが、何かが虚しかった。余はいや増す心の空虚にまかせて、奴隷を買い集め、親しく愛し、愛しきれば殺した。故に余が愛した奴隷どもは余のものであった。しかし、満たされぬ。それは何故なのか」

 陛下はもうお気付きでいらっしゃる。

 ファルザードの瞳が惑うた。そう、自分はとうに気付いていたのだ。余は。

「余は、この余が愛する王国をまだ手に入れていない。王は余である。しかし、余はこの王国の最後を見ていない。故に、このターリークはまだ余のものではない。余は、むざむざと兄を死なせ、一生をかけて慈しみ栄えさせたこの王国をついに手にしないまま、この世を去るのであろうか」

 まだ続きがございますね。今宵の物語を終わらせるためには、あと一言要ります。それを言わなければ、陛下はこの物語を満足に語りきることができないでしょう。

 ――余は。

「余は、ターリークの滅びが見たい」


 そこで、ファルザードは正気に戻った。セビルの細い肩を掴む。

「今の話は忘れよ」

 セビルは白い歯を見せて、にっこりと笑った。

「陛下こそお忘れになって」

 ファルザードの意識は急に朦朧とした。強烈な眠気が襲ってきた。もう、自分が何を語ったのかも覚えていなかった。ファルザードの身体は寝台に崩れ落ちる。セビルはファルザードの額に手を伸ばすと、その顔の輪郭を上から下まで優しく撫でた。

「よくぞ語られました」

 窓の外では、すでに地平線の向こうに月が沈んだ。空が白んで、夜明けがやってくる。セビルは口元に手を当てると、軽くあくびをした。しかし、まだ眠りそうにはなかった。

 自らの指で紅玉髄の唇をなぞる。そして、瞼を閉じた。

 ああ、暇だわ。

 次は誰にお話をさせようかしら。

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