ジュレン・ダースタン

辰井圭斗

トゥーラジ

 一つの奴隷市場から話を始めたい。ターリークの都アルダーグの中心を貫く大通りから一つ道を外れたところに、その奴隷市場はある。道に面したところには、週に一度、奴隷を競売にかける舞台が設けられて、特別に見目好い、或いは知識や技能ある奴隷であれば、金貨五百枚で買われていく。ターリークの下級の役人がひと月働いて得られるのがおよそ金貨一枚であるから、ほとんど庶民の手が届く額ではない。

 競売にかけられることのない、直に売り買いできる奴隷であれば、そこまで法外な対価を必要としない。舞台の背後には焼成煉瓦の巨大な建物があり、そこに奴隷たちは住まわされ、昼日中は裸にされて客たちに検分された。こちらの奴隷であれば、金貨三枚から買えた。

 奴隷たちはどこから来るのか。ターリークはもう長らく近隣の諸国と大きな戦争はしていない。すなわち、彼ら彼女らは戦争で得た奴隷ではない。奴隷たちはターリークの外から売られてくる。ターリークというこの繁栄を極めた王国は、船で量るほどの財貨や宝物に満ちていた。ターリークで物を売れる者は幸いである。およそ不自由なく物産に満ち満ちたこの王国では、交易に来ても、余程の品でなければ売れるものがない。そこで売りに出されるのが人だった。どんな所から来ても、人ならばまだ商品になった。だから、王都アルダーグの奴隷市場はこの百年ほど大いに賑わっている。

 奴隷市場は昼になれば盛んに人を売り、夜になればその門を鎖す。日が沈みきってからは、何人なんぴとも、奴隷を買うことは許されない。一人、特別な客を除いては。

 奴隷市場の長トゥーラジは、外に黒馬が止まるのを見て、門を開けた。馬は一種の麝香のように黒く艶やかで、鷹のような駿馬だった。トゥーラジはその馬を見るたびに、心の中で眉を顰める。あの馬ではほとんど乗り手の身分を触れ歩いているものだ。しかし、それが迂闊や無思慮のせいではなく、むしろ自負によるものなのは確かだった。

 フードをかぶった乗り手がトゥーラジを見た気がしたので、その奴隷商人は静かに頭を下げた。通常、奴隷市場の長は、役人にも貴族にも頭は垂れない。彼らはよくいる客に過ぎないからだ。だが、相手が王ともなれば話は別である。

 乗り手がフードを取ると、果たしてこの国の貨幣に肖像されているのと同じ、壮年の怜悧な顔が見えた。ターリーク王ファルザード。ターリーク内外に名君と名高い、王国六代目の君主。ファルザードが即位する前から、この王国は豊かだった。しかし、およそ世界に比類なき繁栄に導いたのは紛れもなく彼である。名高い王冠に栄誉を与え、希望または恐怖いずれの宝庫をも開きうる者。その頭上には雲も塵埃もかからぬ稀代の名君。

 その彼、ファルザードの唯一と言ってもいい「悪癖」は、夜に忍んで一人奴隷市場を訪ね、自ら奴隷漁りをすることだった。ターリークにおいて、歴代の国王が宮中に奴隷を侍らすことは珍しくなかったが、王自ら奴隷を買い付けに来るのは常軌を逸している。しかも、飽いてしまえば奴隷を殺すというから、並の君主がやれば暗君と謗られても不思議ではない。

 だが、知っている者は知っているこの話、ファルザードの第四天に届かんがばかりの栄光をさほど傷つけなかった。ファルザードも愛馬で乗りつけるあたり、本気で隠すつもりはないようである。だから、およそ権威など路傍の塵芥のようにしか見ていない不羈のトゥーラジでさえ、大したものだと舌を巻いているのだ。

 トゥーラジが開いた門の傍らに立っていると、ファルザードは己の庭のように市場の中へ入った。門を鎖してから、トゥーラジは少しく頭を垂れたままファルザードの後ろを歩く。二人の足音とトゥーラジが持つ手燭の明るさに、寝ていた奴隷たちが目を覚まして、鎖がこすれる音がした。こうして入口の近くに繋がれているような者は安い奴隷であり、王が望むのはこのような奴隷ではない。

「このたびは美姫でしょうか、美童でしょうか」

「美姫を」

「かしこまりました……」

 トゥーラジは速足でその場を離れると、安い奴隷を閉じ込めている柵と柵の間をひた走り、市場の奥にある小部屋の鍵を開けて、十人の女奴隷が眠る寝台を激しく叩いた。怯えてすぐさま起き上がる女奴隷たちの鎖を束ね、彼女たちを小部屋から引き出す。そうしてもと来た道を鎖を引っ張りながら戻って、女奴隷たちをファルザードの前に並ばせた。どの女も夜更けに突然連れ出されて不安そうにしていたが、見目麗しい女ばかりであった。

 彼女たちは本来この市場の建物で買えるような奴隷ではない。どれも外の舞台で行われる競売でしか買えないとっておきの商品で、競売にかければ金貨三百枚以上で買われるのはまず間違いなかった。だが、今夜のファルザードは奴隷たちを一瞥してこう言った。

「他にいないのか」

「そんな、ここにいる者たちは、今いる奴隷の中では最も美しい者たちです」

 トゥーラジは泡を食ってそう答える。実際、トゥーラジは惜しまず最高の奴隷を連れてきたのだ。これで満足されないとなると、今の市場ではもう出せる者がなさそうだった。

「もっといるだろう」

「いえ、私はここにいる奴隷を全て知っております。この者たちが最も」

「本当か」

 低く、ファルザードの声が響いた。その重みを感じ取って、トゥーラジは決して嘘を言ったつもりはないのに、言葉に詰まってしまった。そして、砂嵐のようにかき乱された頭で、一人、ある奴隷を思い出した。

「……容姿の美しさだけなら、もう一人いました」

「なぜ連れて来ない」

「――狂っているのでございます」

「狂っている?」

「自分を〝魔女〟だとありもしないことを申すのでございます」

 王は整った眉目をそのままに少し思案すると、唇の端を上げた。

「面白い、連れて参れ」

 トゥーラジは恐縮して市場の隅に駆けて行った。今度は小部屋などではない。床に藁だけを敷いた剥き出しの区画だ。壁の高みに開けられた格子窓から月光が差し込んでいる。その青い光を受けながら、ほとんど裸同然の女が一人、顔を伏せていた。女はこの劣悪な環境で日々を過ごしているにも関わらず、艶やかな髪と肌を全く衰えさせていなかった。トゥーラジはなぜかその奴隷に声を掛けるのをためらう。だが、ずっとためらっていることもできなかった。王を待たせているのだから。

「おい起きろ、お客様がお前を見たいと言っている」

 そうトゥーラジが声を掛けると、女はまるで最初から眠っていなかったかのように、滑らかに顔を上げて、歯を見せて笑った。月光の中、黒く濡れた瞳が光っている。トゥーラジは何か厭なものを見た気がして、強いて舌打ちをした。

 その女は顔も身体も、奴隷商人としての長い年月でトゥーラジが見たことがないほど美しかった。糸杉の背に、鹿も恥じらううなじ。黒壇の髪はすべらかな肌にかかり、瞳は濡れた漆黒、紅玉髄の唇を開けば甘やかに歯が覗いた。

 はじめこの女を見た時、トゥーラジは大いに喜んだ。だが、狂っている奴隷は値が下がる。ほとんど商品として成り立たない。その惜しさゆえに、いっそ忌々しかった。柵の中に入り、無言で床から鎖を外せば、女は鎖を引かなくとも付いて来た。

 そうして、女をファルザードの前に引き出すと、ファルザードは即座に女の名前を聞いてきた。買うつもりなのだ。

「セビルというそうで」

「どこの出だ」

「ナズカンドのオアシスの出と聞きましたが」

「ほう、遠くから来たものだ。よかろう、二千出す。売れ」

 トゥーラジは金貨二千枚という金額に驚愕した。奴隷一人としてはほとんどあり得ない額である。もともと売り方に困っていたような奴隷だ。断る理由があろうはずもない。だが、トゥーラジは咄嗟に王に返答ができなかった。

「どうした、不満か」

「滅相もない! ただ」

 ただ? トゥーラジは訝る。自分は何を言おうとしているのか。素直にこのまま売ってしまえばよいものを。断る理由もなければ、ほとんど断る方法もない。自分がこうして思い惑うのは、一切が無駄だというのに。そうしてトゥーラジの頭は乱れ、彼が本当に言いたかった本質を外し、ごく常識的な問いを口にすることになった。

「ただ、その女は先にも申しましたように狂っているのでございます。よろしいので」

「構わぬ。もとより戯れに使うのだから」

 そう言われては、トゥーラジは頭を垂れて女を引き渡すしかなかった。トゥーラジが女の足から鎖を外すと、王は女の肩を親しく抱き、市場の門まで並んで歩いた。市場から出ると、自ら黒馬を引いて来て、彼女を鞍に乗せる。その様子はいつも、いずれ殺す奴隷を相手にしているとは思えないほど優しげだった。或いは最後に殺すだけで、その都度奴隷たちを本当に愛しているのではないかと、トゥーラジは考えそうになる。無論、ファルザードの心の内を一介の奴隷商人が推し量るなど不敬なのだが。

 満月が西に傾きはじめている。トゥーラジは王と女が去っていくのを見送ってから、再び市場の中に戻った。信じられぬ額で奴隷が買われていった。トゥーラジは満足して眠れるはずだった。彼は深々とため息をつきながら、閂に手を掛ける。それから鍵を差し込んで門を鎖す時、この奴隷商人はなぜか強い寒気を覚えた。

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