ケース2:芳美 「コーヒー、紅茶、それからコーヒー(2)」

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 庭に面した大きな窓と、天窓からの光だけで、アトリエは充分に明るかった。

 長くとがった何種類もの鉛筆。

 イーゼルにかけられたキャンバス。

 ソファには、芳美が寝転がっていた。

 薄いリネンのカットソー。下はゆったりとしたサルエルパンツ。おもむろにあおむけになり、彼女は携帯を見つめた。

 眉間に皺。頬が少し赤くなる。目を伏せて物憂げな顔になり、おでこの髪をかきあげる。

 それがいつまで続くのか、「彼」はキッチンで見ていたが、待っているのも飽きてきた。

「複雑な顔してる」

 むっとして、芳美は上半身を起こした。

「別に、面倒くさい上司からのグループメール見てただけ」

「お仕事大変だね」

 キッチンカウンターに頬杖をついて、ウィズローはくすくす笑った。「今日どうする? 今から出社する?」

「休日に出勤する義務はない」

「じゃあゆっくりできるね」

 カウンターに紅茶缶を並べていく。「今日はどれにする?」

「濃いのが好き。あと、ノンフレーバ─がいい」

「産地は?」

「できるだけ遠い国」

 ウィズローが吹き出した。「荒んでるなー。じゃあ、これにしよう」

 南アフリカ産の、ルイボスティーの缶を開く。そっと芳美の顔に近づけた。

 瞳を閉じて、息を吸う。素朴な干し草の匂いがした。

 南アフリカを想像すれば、日本の面倒くさい人間関係など、いっときでも忘れることができるのだろうか。

 いや、そこだって民族間の争いとか、面倒くさいことはなにかしらあるんだろうな……。

 つまることを、理想郷など、どこにもないのだ。

「なに考えてるの?」

「別に、なにも」

「よっちゃんって、ほんと面白いね」

「わたしを面白いって言うのは、ウィズローくらいだよ」

 ケトルの蓋が、かちかちと揺れ始めた。耐熱ガラスのティーポットに茶葉を入れ、ウィズローはゆっくりとお湯を注いだ。

 ローテーブルに、ティーセットとお菓子の載ったトレイが置かれた。

「どうぞ。オーガニック・ルイボスティーです」

「ありがとう」

 ティーカップの縁に、そっと口を付けた。「……おいしいな」

「よかった」

「このブラウニーも」

「そうでしょう」

 ウィズローは恭しく頭を下げた。

 窓からの光が、ソファの足元まで差し込んできている。

「ルイボスって……綺麗な赤だね」

「透明感があるよね」

「うん。どろどろしてない」

「どろどろって」

 ウィズローは苦笑した。おもむろに立ち上がり、サイドテーブルにある絵皿とスケッチブックを持ってきた。

 芳美の隣で、そっと、ルイボスティーを絵皿に注いだ。

 人差し指を浸し、スケッチブックに滑らせる。

 白い肌理(きめ)に、赤い線がうっすらと残った。

「なんか……水彩絵の具みたい」

「これをキャンバス全体に染めれば、肖像画の下地ができる」

「いつもこうやって描くの?」

「毎回この色ってわけじゃないけどね」

 キッチンにある、数十種類の紅茶缶を、芳美は眺めた。

「なるほど。こうやって、パトロンに応じた絵を描くんだね。特別感の演出か」

「……よっちゃんって、ほんと歯に衣着せないよね」

「オブラートって、口の中でもたつくから嫌い」

 ウィズローは肩を揺らしながら、絵皿を片付けた。

「絵は、あとどれくらいで完成するの?」

 芳美はティーカップを両手で包んだ。

「……どうかな、まだ半分もできてないし」

「約束の二か月はとっくに過ぎたけど、それはいいの?」

「俺は構わないよ。こっちの都合での延長なら、追加料金はかからないし」

「そっか」

「それとも、多少雑でも、急ピッチで描いた方がいい?」

「いや……そんな急がなくてもいいよ。他のパトロンとの兼ね合いもあるんでしょ?」

「まあね」薄い笑顔だった。

「いつ完成でも構わないよ」

 ウィズローはお菓子の皿を重ね始めた。

「ありがとう。じゃあよっちゃんが、ゆっくりでもいいって言ってくれるなら」

 まただ。

「だから、それでいいって……ウィズロー、なにかあった?」

「え、なにが?」

「いや、なにか言いたそうだったから」

 いつも明るく笑っているのに、ウィズローは、たまに、ふと困ったように微笑する。 

 紅茶を片付ける手をとめて、ウィズローは腰を下ろした。ふわふわの前髪から覗く薄茶色の瞳が細くなった。

「よっちゃんは可愛いな」

 穏やかなハグだった。

 芳美も、自然とウィズローの頭に手を添えた。

 アッシュブラウンの髪を触っていると、日々の面倒なあれこれが遠くへ消え去っていく。

 ここはとても心地いい。ここなら生きづらさを感じないし、誰からも無理な要求をされたりしない。

 光が落ちるアトリエの床はほのかな熱を帯びていて、頭上で回るプロペラが小さく音を立てていた。


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窓際のさかな asomichi @asomichi

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