第14話

 活気を取り戻し始めた商店街の雑踏に、水無月莉奈と椿木海斗の背中は溶け入るように消えていく。


 その姿は驚くほどに小さく、まるで初めから存在しなかったかのように、颯真の心から、静かに、だが完全に消え失せた。


 濁流が堰を切り、すべてを洗い流した後のような、澄み切った川底の静寂が、颯真と詩織の間に広がっていた。澱みが消え、底に沈んでいた石一つ一つが、陽光を浴びて輝きを取り戻したかのようだ。


「……終わった、のかな」


 ぽつりと呟いたのは詩織だった。


 その声には、安堵と、ほんの少しの呆気にとられたような響きが混じっている。


「ああ、終わったんだ」


 颯真は、自分でも驚くほど落ち着いた声で応じた。


 憎しみも、未練も、感傷も、もうどこにも見当たらない。


 ただ一つの長い物語が静かに幕を下ろしたという事実だけが、胸の中にストンと落ちてきた。


 それは、長年背負っていた重いバックパックが、するりと肩から滑り落ち、身軽になったような感覚だった。ずしりとのしかかっていた重荷が消え、全身が新しい空気に満たされていく。


 彼らが残していったのは、心の傷跡ではなかった。奇妙な空白感だけが、そこにあった。


 そしてその空白は、もはや痛みとは違う、限りなく澄み切った自由と、かすかな未来への予感に変わっていた。


「……腹、減ったな」


 唐突に、颯真が言った。


 詩織は一瞬きょとんとした顔を見せたが、すぐにふっと口元を緩める。


「あんた、ああいう場面の後でよくそんなこと言えるわね」


 呆れたような口調だ。


 けれど、その声色はどこまでも優しい。


 彼女が彼の隣にいてくれる。その事実が、何よりも雄弁に、颯真の新しい日常を物語っていた。


「腹は減るだろ。生きてるんだから」


 そう言って笑う颯真の顔には、もうかつての翳りはなかった。


 そこにあるのは、確かな生の実感と、雨上がりの森で新芽が息吹くような、瑞々しい清々しさだった。


「はいはい。じゃあ店を閉めるから手伝って。今日はじいちゃんが奮発して、すき焼きにするって張り切ってたんだから」


 その言葉に、颯真は目を丸くした。


「え、いいのか!? そんな……」


「いいのよ。あんたへの快気祝いと前祝いだってさ」


「前祝い?」


「この町のね」


 詩織はそう言って、悪戯っぽく片目をつむいだ。


 二人は手際よく店のシャッターを下ろし、片付けを始める。


 その動きは、もうすっかり手慣れたものだった。


 がらんとした店内に、二人の確かな足音と、食器が触れ合う澄んだ音が響く。それは、互いの動きに寄り添い、無言のまま呼吸を合わせる、温かい暮らしの音。家族の営みによく似ていた。


 土産物屋「はぎわら」の奥にある居間には、甘辛い醤油の香りが満ちていた。


 テーブルの中央に置かれた鉄鍋では、霜降りの牛肉が野菜と共に心地よい音を立てている。


「さあさあ、颯真くん、遠慮せんでくれ。今日の主役は君と詩織なんだからな」


 詩織の祖父である源蔵が、満面の笑みで颯真の器に肉を取り分ける。


 その皺の刻まれた顔は、数ヶ月前颯真がこの町に流れ着いた時に見た疲弊しきった表情とは別人のように、若木が太陽に向かって伸びるような、漲る生命力に溢れていた。


「ありがとうございます、源じい。でも、俺だけじゃなく、みんなが頑張ったから……」


「わかっておるよ。じゃが、きっかけを作ったのは間違いなく颯真くんだ。この町が忘れちまった道をあんたが掘り起こしてくれた。ワシらは、その道をどう歩くか思い出しただけじゃ」


 源蔵の言葉に、詩織も静かに頷く。


 今日の午後、手伝いに来てくれた同級生たちが、口々に「次のツアーはいつ?」「今度は私らもガイドやってみたい!」と目を輝かせていたのを思い出す。


 死んでいた町に、未来を語る若者の声が響く。


 それは、詩織がずっと昔に諦めていた光景だった。


 熱々のすき焼きを頬張りながら、三人の会話は自然と町の未来へと向かっていった。


「桐谷さんの記事のおかげで、役場への問い合わせが鳴りやまないと、さっき商工会の会長が嬉しそうに電話してきてな」


「すごい反響だよね。でも、ちょっと怖くもある。この小さな町に、どっと人が押し寄せたら……」


 詩織の懸念はもっともだった。


 自分たちが批判してきた、自然を踏み荒らし地域住民の生活を脅かすオーバーツーリズム。


 その轍を、自分たちが踏むわけにはいかない。


「それなんだよな」


 颯真が箸を置いた。


「ただ人を呼べばいいってものじゃない。どうやってこの町の良さを守りながら来てもらうか、そこが一番大事だ」


 彼の瞳には、かつて己の計画だけに集中していた頃とは異なる、未来を、この町全体を見据える、研ぎ澄まされた光が宿っていた。


 その表情には、重い責任を自ら背負い込む覚悟と、暗闇の中に確かな一筋の道を切り拓く、高揚に満ちた熱が宿っていた。口元は引き締まり、その瞳は遠く、しかしはっきりと未来を見据えていた。


「持続可能性、じゃな」


 源蔵が、難しい言葉を口にした。


 颯真と詩織は顔を見合わせ、少し笑った。


 この数週間で、この老いた店主も、新しい言葉をたくさん覚えたのだ。


 食事が終わり、片付けも済んだ頃、外はすっかり闇に包まれていた。


 川のせせらぎと、虫の音が、静かな夜を彩っている。


「なあ、詩織」


 颯真が、洗い物を終えた詩織に声をかけた。


「少し行きたい場所があるんだけど、付き合ってくれないか?」


 詩織は一瞬、不思議そうな顔をしたが、すぐに彼の意図を察したようだった。


 彼女は黙って頷くと、玄関に置いてあった自分のヘッドライトを手に取った。


「じいちゃん、ちょっと出てくる」


「おお。気をつけてな」


 源蔵は、何も聞かずに二人を送り出した。


 その優しい目には、深い信頼の色が浮かんでいた。


 二つのヘッドライトの光が、闇に閉ざされた登山道を切り開いていく。


 昼間の喧騒が嘘のように、夜の森は静まり返っていた。


 ざあざあと風が木々を揺らす音と、自分たちの足音だけが聞こえる。


 この道を、颯真はかつて一人で歩いた。


 絶望に突き動かされ、無計画な逃避行の果てに。


 あの時は闇が自分を飲み込もうとしているように感じた。一歩先すら見えない、不安と恐怖に満ちた道だった。


 だが今は違う。


 隣には詩織がいる。


 彼女の確かな足取りと、時折彼を気遣うように向けられる視線が、闇を恐れる気持ちを霧散させていく。


 光が照らし出すのは、二人で整備した石段であり、土留めであり、排水溝だ。


 一つ一つが、彼らが共に過ごした時間の証だった。


「……こうして夜に歩くと、また感じが違うね」


 詩織が、息を切らしながら言った。


「ああ。昼間は見えないものが見える」


 颯真は、ライトの光を足元の苔に向けた。


 夜露に濡れた苔は、まるでビロードのように輝いている。


「きれい……」


 詩織が小さく息をのんだ。


「この道、最初に整備し始めた時何を考えてたの?」


 ふと、彼女が尋ねた。


 颯真は少し黙考してから、正直に答えた。


「何も考えてなかった、が正解かな。ただ頭の中のノイズを消したくて、無心になれるものが欲しかったんだ」


 海斗に「土いじり」と馬鹿にされたその土いじりが、俺を救ってくれた。


 過去を口にしても、もう痛みはなかった。それは、ただの客観的な事実になっていた。


「そう」


 詩織は短く応じると、こう続けた。


「あんたが掘り起こしたのは道だけじゃないよ」


 彼女は真っ直ぐに前を向いたまま、そう言った。


「この町の、みんなの心に埋もれてた何か……たぶん故郷を諦めきれない気持ちみたいなものも一緒に掘り起こしてくれたんだと思う」


 その横顔がヘッドライトの光に柔らかく照らし出されている。


 やがて、視界が開け、風の音が変わった。


 展望台だ。


 息をのむような光景が、二人の眼前に広がっていた。


 眼下に広がる水上町の夜景。


 それは、東京のそれとは比べ物にならないほどささやかで、慎ましい光の集まりだった。


 だが、その光は、確かに数ヶ月前よりも増えていた。


「あ……」


 詩織が、指をさす。


「見て。川向こうの山本さんちの空き家、あそこの電気がついている」


 そこは、息子夫婦が都会に出て行ってからもう何年も明かりが灯ることのなかった家だった。


 きっと、町の変化を聞きつけて、週末に帰ってきているのだろう。


 商店街の入り口に新設された、まだ真新しいLEDの街灯が、頼もしく道を照らしている。


 ぽつり、ぽつりと、しかし確実に、町に灯る光は増えていた。それは、凍てついた冬を越え、土の中で蠢いていた生命が、春の訪れと共に一斉に目覚め、ゆっくりと脈打ち始めたかのような、希望に満ちた輝きだった。


「……すごいな」


 颯真は、心の底から呟いた。


 自分が始めた小さな行動が、これほど確かな形になって目の前にある。


 その事実に、胸の奥から熱いものがこみ上げてきた。それは単なる達成感ではなかった。


 町の人々の笑顔、詩織の信頼、そして何よりも、自分自身が新しい場所を見つけられたことへの、深く静かな感謝の念だった。


「ねえ、颯真」


 詩織が、真剣な声で彼を見つめた。


「これからどうしようか。この景色を守るために、私たちは何をすべきなんだろう」


 彼女の問いは、この町の未来そのものだった。


 ブームに乗り、一過性の賑わいで終わらせるのか。


 それとも、持続可能な、本物の豊かさを根付かせるのか。


 その岐路に、彼らは立っている。


 颯真は、バックパックから一本のペットボトルを取り出し、詩織に渡した。


 温かいほうじ茶だった。


 彼女は黙ってそれを受け取り、一口飲む。


「まずツアーは今のまま、少人数限定の予約制を徹底するべきだと思う」


 颯真は、まるでずっと前から考えていたかのように、淀みなく語り始めた。


「自然への負荷を最小限にするためにね。それと参加者からは『環境保全協力金』みたいな形で、少しだけお金をいただいて、それをこの登山道の維持管理や町の美化活動に充てる」


「……なるほどね。お金の流れをちゃんと町の中で循環させるんだ」


 詩織の目が、感心したように細められる。


 彼女のリアリズムが、颯真のアイデアを吟味し、評価する。


「それから一番の問題は宿泊施設だ。今のままじゃ日帰り客が増えるだけで町にお金が落ちにくい。かといって大きなホテルを今から建てるわけにもいかないし……」


「……空き家だよね」


 詩織が、颯真の言いたいことを先回りした。


「そう。町にたくさんある空き家。あれをリノベーションして、一棟貸しのゲストハウスにするんだ」


「ただ泊まるだけじゃなくて、自炊ができたり、縁側でゆっくりできたり、『水上町に暮らすように泊まる』体験を提供する。それなら大規模な開発も必要ないし、町並みの景観も守れる」


「……すごい。あんたそこまで考えてたの」


 詩織は、心底驚いた顔で颯真を見ていた。その瞳の奥には、単なる驚きだけでなく、彼の提案の現実味を測り、その可能性を冷静に見極めようとする、彼女らしい理知的な光が宿っていた。


 かつて自分の趣味の世界に閉じこもっていただけの少年が、今や社会課題と向き合い、具体的な解決策を練り上げる頼もしいプランナーになっていた。


「俺一人の考えじゃない。詩織や源じいや、町の人たちと話すうちに、見えてきたんだ」


「俺の知識や計画性は、たぶんこういうことのために使うべきなんだって」


 颯真は、そこで一度言葉を切ると、意を決したように、真っ直ぐに詩織の瞳を見つめた。


「だから詩織。俺、こっちの高校に転校しようと思ってる」


 詩織の目が、大きく見開かれる。


「……え?」


「この計画、最後まで見届けたいんだ。それに……」


 颯真は少しだけ照れたように視線を逸らしてから、再び彼女を見た。


 その頬には、照れとともに、未来への熱い決意が滲んでいた。


「君と一緒にこの町の次の地図を描きたい。俺一人じゃきっと不完全な地図しか描けないから」


 静寂が、温かな毛布のように二人を優しく包み込んだ。遠くで、フクロウの鳴く声がする。それは、二人の間に生まれた、言葉にはできない確かな絆を、夜の帳が静かに見守る音のようだった。


 やがて、詩織は大きく、深呼吸をした。


 そして、困ったように、でも、どうしようもなく嬉しそうに、はにかんだ。


「……当たり前でしょ」


 彼女はそう言うと、颯真の腕を、ぽん、と軽く叩いた。その掌の温もりが、彼の腕を伝って全身に広がっていく。


「あんた一人じゃ、どうせまた変なところで道に迷うんだから。私がちゃんと見ててあげなきゃ」


 ドラマティックなキスも、甘い愛の囁きもない。


 だが、そこには、共に苦しみ、共に笑い、共に創造してきた土台の上に築かれた、何よりも強く、温かい絆があった。


 未来への、確かな約束があった。


 颯真は、込み上げてくる様々な感情を噛みしめるように、再び眼下の夜景に目をやった。


 かつて、アウトドアは彼にとって、完璧に計画された自己完結の世界であり、裏切られてからは、現実から逃避するためのシェルターだった。


 だが今は違う。


 彼の愛した知識とスキルは、人と人、人とコミュニティを繋ぐための、温かいツールへと昇華されていた。


 目の前に広がるこのささやかな光の地図は、かつて莉奈と海斗に踏み荒らされた「聖域」などでは決してない。


 これは、これから詩織と共に、自分たちの手で描き歩いていく、無限の可能性を秘めたまっさらなトレイルマップだ。


 その未来の地図には、希望の光が点々と輝いていた。


 夜風が、二人の頬を優しく撫でていく。その風は、湿った土の香りと、遠くで咲き始めた小さな花の匂いを運び、新しい物語の幕開けを告げていた。


 ここが俺の旅の本当の始まりだった。



【完】


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【宣伝】


最近カクヨムでは大量投稿する行為がタブーとされています。その背景にはやはり生成AIを用いた創作活動が広く普及してきた影響で『何のために創作をするのか?』という各々の哲学が暴走し、カクヨムという環境において健全ではない状況が生じてきてしまっているからというものがあるでしょう。


それを踏まえたうえで、ひとつ。今の私の気持ちを整理するために、カクヨムで創作をする、が生成AIで四苦八苦するフィクションを作ってみました。


これは創作論でもあると思います。


は私が当事者として、この一連の問題を2025年6月から見つめ続けてきた結果でもあります。


生成AIという技術を創作という領域において、どう乗りこなしていくべきなのか。それとも排斥していくべきなのか。


……


……


【AI創作の議論に疲れたあなたへ】LLMという技術はどう活用すればいい? AI創作が広く認知された未来で人間が書く意味はどこにあるのか。


https://kakuyomu.jp/works/822139839749575834/episodes/822139839749731100


……


……


私としても、これからの自分の在り方を考え直す一つの起点として、これを残します。


お目汚し失礼しました。

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アウトドア好きの俺はキャンプ場でNTR地獄を経験した。だからもう、君たちのいない場所で新しい人生を描くことにした。 ネムノキ @nemunoki7

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