虚構の街
緋翠
虚構の街
有栖峻は常に光を纏っていた。社内では、その朗らかな笑顔と淀みなく繰り出される温かい声が、まるで陽光のように周囲を照らしていた。エレベーターの扉は、彼が誰かのために指で抑えるまで閉じることを許されず、深夜まで残業に勤しむ同僚には、いつの間にか温かい缶コーヒーが差し入れられていた。彼は彼自身の性格について深く理解している。彼に向けられる無数の「ありがとう」や「さすがですね」といった賛辞は、峻にとって、乾ききった魂を潤す唯一の甘露だった。しかし、その輝きは彼自身の内奥に深く根差す劣等感を覆い隠すための、緻密に編み上げられた偽りのヴェールに過ぎなかった。
ある金曜の夕刻、オフィスには鉛のような空気が澱んでいた。来週月曜の朝までに仕上げねばならぬ緊急の案件が舞い込み、休日返上の出勤が不可避となったのだ。
皆が疲弊した顔で視線を逸らす中、峻は躊躇いなく手を挙げた。
「私が引き受けましょう。皆様、連日の激務でお疲れでしょうから」
彼の放った言葉に安堵と微かな畏敬の念が混じり合った視線が集中した。胸の奥では、週末に予定していた美術館巡りが潰えたことへの苛立ちがマグマのように煮えたぎっていたが、彼の口元は寸分の狂いもなく献身的なる有栖峻の笑みを湛えていた。
フロアの片隅で、小山茜だけが、表情の読めない瞳で峻を見つめていた。彼女の眼差しは、彼のいつもの善意に対し、明確な疑念を孕んでいるかのようだった。峻の偽善はまるで独立した生命体のように、その触手を伸ばして、やがて肥大していった。
同僚が些細な困り事を口にするや否や、彼は必要以上にその問題に深入りし、周到に解決策を提示した。彼が真に助けたかったのは相手ではなく、その行為によって引き出される感謝の言葉、そして己の存在価値を再確認する瞬間の陶酔だった。
上司の奥寺浩二の前では、模範的な社員としての演技に一層磨きがかかった。会議では率先して意見を述べ、誰もが敬遠するような面倒な業務すらも、快活な声で引き受けてみせた。自身の成果については、偽りの謙遜を交え、殊更に控えめに語ることで、さらに謙虚で素晴らしい人物という評価を得ようと腐心した。
彼のすべての行動は、他者の賞賛という名の餌を求めるためのものであり、そこには真の善意の萌芽すら存在しなかった。
ある大規模プロジェクトの終盤で予期せぬシステムの致命的な欠陥が発覚した。チーム全体に責任が及ぶ事態であったにもかかわらず、峻は微塵の躊躇もなく、皆の前に進み出た。
「私の確認不足でした。この件については、私が全責任を負わせていただきます」
その言葉に、上司の奥寺は深く感銘を受け、峻への信頼は盤石なものとなった。だが、そのミスの隠蔽のために峻が巧妙に細工した、ほんの些細なデータの一部が密かに小山の冷徹な目に留まっていた。小山は何も言わない。ただ、いつもと同じように感情の読めない瞳で峻を見つめているだけだった。その微動だにしない視線が峻の心の奥底に、小さな亀裂を入れた。
峻は偽善を纏い続けることに酷く疲弊し始めていた。他者からの賞賛は、もはや一瞬の幻のような快楽しか齎さない。喉の渇きを癒す甘露のように見えて、実際は塩水のように飲めば飲むほど渇きを増していく。しかし、偽善という名の仮面を剥ぎ取れば、そこには他者からの評価を失って、深い劣等感を抱えた何の価値もない自分が白日の下に晒されるという、計り知れない恐怖が待ち受けていた。周囲の期待に応えようとすればするほど、彼は偽りの自分という名の迷路に深く迷い込み、偽善の深淵へと止めどなく沈み込んでいった。
小山が峻の偽りの本質に気づいていることを示唆するような出来事が幾度か起こった。彼女の視線が時折、峻の完璧な笑顔の奥底を見透かすかのように感じられたからだ。峻はそれを必死で無視した。偽善の仮面が剥ぎ取られることへの恐怖が、現実から目を背けさせ続けた。
峻は精神的に追い詰められ、夜ごと悪夢にうなされ、食欲も失われていった。鏡に映る彼の顔は、かつての朗らかさを失い、見る影もなく憔悴しきっていた。彼はついに、誰かの些細な感謝の言葉に対しても、心の中で毒を吐くようになった。
「どうせお前も俺の偽善に気づきもしない愚かな存在に過ぎないんだ」
ある静かな夜、峻は自室の鏡の前に立ち尽くした。そこに映るのは、他者の称賛という名の養分を貪り、醜悪なまでに肥大した善人の仮面だ。その奥に湛えられたのは、空虚で絶望に満ちた眼差しだった。それは、偽りの自分と真の自分との間に広がる、埋めようのない乖離に苦しむ男の姿に他ならなかった。彼は、もはやこの仮面を自らの手で剥ぎ取る勇気を持ち合わせていなかった。偽善という名の深淵に溺れることこそが、この世に存在し続ける唯一の術となっていたのだ。
有栖峻は、これからも他者の評価という名の餌を求め、偽善という名の泥濘の中で永遠に沈み続けるだろう。彼の魂は、決して浮かび上がることなく、その深淵の底へと限りなく落ちていく。
虚構の街 緋翠 @Shirahanada
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