第1話 緊急事態

……やばい。やばいやばいやばい。


社会のワーク、今日提出だっけ?今日だっけ?いや、来週だったら嬉しい。でも黒木くろき先生、昨日「明日ぜったい持ってきて」って言ってたような……


やばい。持ってきてない。


「えーじゃあ、今日はワークの提出からねー」


はい終わった。黒木先生の声が、あまりに無慈悲すぎて、少し腹が立ってしまう。クラスの連中がカバンをごそごそやってる音が、死刑宣告のカウントダウンにしか聞こえない。


ていうか、なんでやってなかったんだ俺。昨日、帰ってからSwitchやって、風呂入って、YouTube見て、寝た。ワークの存在、完全に忘却の彼方。


よし、とりあえず言い訳だ。何か言わなきゃ。……そう、家に忘れたってことにしよう。

机の下でカバンを開けるフリをして、眉間にシワ寄せて、小声で「……あれ?」ってつぶやく。よし、それっぽい。


「颯そう、ワーク出して」


先生の声にびくっとして立ち上がる。心臓の音がよく聞こえる。咄嗟に言った。


「す、すみません。家に……忘れてきました……」


教室がちょっと静かになる。空気が薄くなった気がする。


「はあ……。昨日の言ったよね?…いいから、明日絶対持ってきてね。」


……意外とすんなりだった…。

もっとねちっこく言われると思ってたのに。今日は機嫌がいいらしい。


こっそり隣の席のやつが、「お前、またかよ」って苦笑いしてきた。俺は、申し訳ない風に肩をすくめて見せたけど、内心はめちゃくちゃ汗だくだった。


どっと疲れた。今日、まだ1時間目なのに、すでに体力の半分は持っていかれた気分だ。

…そうだ、5時間目は自習だ。その時間にやってしまおう。


チャイムが鳴った。

「はい、じゃあ次、英語。教科書だけ出しておいてねー」と黒木先生が言い残して教室を出ていく。


他の中学校だと、教科ごとに先生がいるらしいが、生徒が少ないため、小学校のように基本担任がほぼ全ての教科を担当している。そのため、結構担任ガチャは重要。

うちのクラスの黒木は…大ハズレ。

おばさん先生特有の小うるさい感じが、生徒から特に嫌われている。


俺は小さくため息をついてから、隣の列の一番後ろに座ってる航わたるのところへ行く。


「おーい、航」


航は教科書の上に頬杖ついて、眠そうにこっちを見た。

「おつかれ。命拾いしたな」


「まじで。心臓バクバクだったわ」


「で、ほんとはやってないんだろ?」


思わず一瞬黙る。けど、そのあと笑ってしまった。

「いや、お前すごいな。なんでわかった?」


航はニヤッと笑った。

「誰でも分かる。あと“家に忘れました”の言い方、不自然だったし」


「うわ、バレバレじゃん……」


航とは、中学に入った時からなんとなく仲が良かった。

他にも話せるやつはいるし、別にぼっちってわけじゃない。でも、なんか航とは空気が合う。無理にテンション上げなくてもいいし、話してて疲れない。


「お前は?ちゃんと出したん?」


「おう。昨日の夜、10時くらいに気づいて急いでやった」


「それでもやったのかよ、えら」


「まあな。やらんと黒木、機嫌悪くなるし」


そう言って航が軽く伸びをする。俺も教科書をペラペラめくるふりをしながら、窓の外を見た。山が近い。空が広い。田舎ってやつだ。よくある背景みたいな山が目の前に連なっている。

ここ、世野中学校せのちゅうがっこうも、まもなく創立100周年らしい。…しかし自分たちの代は、ちょうど99の年に卒業だ。これを聞いた時に、なんとも惜しい気持ちになったのを覚えている。

田舎の中学校っていうのもあって、校舎はなかなかにオンボロだ。


午前の授業が終わり、チャイムが昼を告げる。


航は小銭を片手に、

「購買寄ってくるわ」

と教室を出ていった。


中学校なのに、昼食はお弁当か購買なのは珍しいのだろうか。


俺は、弁当のフタを開けながら、自習の5時間目のことを思い出して少しだけため息をついた。

お弁当を開けると、昨日の残り物の親子丼だったので少しテンションが上がった。

航が購買から帰ってきて、2人で昼食を食べた。

教室の後ろで、5、6人で固まって騒ぎながら昼食を食べてる奴らとは違って、俺らは優雅に昼食を食べる。

……ちゃんと、ワーク、やっとくか。


食べ終わったお弁当をリュックにしまい、適当に教科書を枕にして寝る連中を横目に、プリントを広げる。

みんなが勉強してない時間に1人でワークをやっていると、なんだか勉強できる人みたいな気分になれると航に言うと、みんな昨日終わらせてんだよと言われてしまった。気分なのに。


昼のざわついた空気の中で、俺はなんとか今日中にけりをつけようと、シャーペンを走らせた。




 5時間目は予告どおり自習だった。

おかげでワークは全部終わった。やればできる、俺。


6時間目も無事終わり、チャイムが鳴ると同時に、教室の空気がふっと軽くなる。帰りの会では特に面倒な話もなかったが――最後に、あの声が響いた。


「颯、明日、ワーク絶対持ってきなさいよ〜?」


黒木先生がにっこり笑いながら言う。

「……はい、明日持ってきます」

俺はちょっと苦笑いしながらそう返した。

本当はもう出せるのだけど、今出してしまうと辻褄が合わなくなってしまう。


帰りの準備をしながら、隣の席をちらっと見る。

渡のカバンはもうない。吹奏楽部、今日は練習がある日だ。

航が部活がない日は一緒に帰っているのだが、大体いつも部活だ。


「じゃあねー」

そう言って去っていく友達に手を振り、俺はひとりで教室を出た。


青空が、やたらときれいだった。

雲ひとつなくて、まぶしいくらいの空。


学校から家までは、歩いて25分くらい。田んぼと用水路しかない一本道を、俺は教科書を小脇にかかえて歩いていた。リュックにはもう入りきらなかったやつだ。


ちょっと退屈だったから、持ってた社会の教科書を、くるくる振り回してみる。ぐるん、ぐるん、ぐるん。


「おー……けっこう飛ぶかも……」


気まぐれに手を離した。

パァンッと風を切る音がして、教科書は空中を弧を描いて飛んでいく。


「うおっ、飛びすぎた!」


…やばい!!

あわてて走る。

田んぼのあぜ道を駆け抜けて、落ちた場所を目で追いながら、草の中に突っ込んでいく。


「待て待て……危ない!」


教科書は、”キョウカイセン”ぎりぎりのところで止まった。


「…セーフ…。」


…危なかった。もし”キョウカイセン”を超えていたら…

ワーク忘れたレベルでは済まなかった。教科書を振り回すのは辞めようと、心に誓った。


教科書を拾い上げて、パタパタと土をはらう。

ちょっと草のにおいがついたかもしれないけど、まあいいか。


まだ心臓がドクドクしている。俺はまた家へ向かって歩き出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る