第5話 故郷とは

「ちょっと話したいことがあるんだ」

 イベールがいつになく真剣な顔でサンドラを捕まえてこう切り出した。その後に続く言葉は、サンドラの疑問に繋がるものだった。

 それは遺伝変異を用いてより火星に根付きやすい食物を開発する、それがイベールの重要な仕事の一つだったのだが、ふとした好奇心から日々の食事を分析したことがきっかけで見つけたということだった。

 日々食べている食事、特に地球のように家畜を育てるといった穀物類を無駄にすることが許されない火星におけるたんぱく源は、もっぱら合成肉と呼ばれる人口合成されたもので、それを分析した結果、本来必要ないはずの化学物質が大量に含まれていたのだという。


 イベールはそのことに好奇心をひどく刺激され、今度はこっそりと発育期用の配給食も分析してみることにしたらしい。

「そんなものどこで手に入れたの?」

 話の内容に驚愕しつつ、一番驚いたのはそのことだった。なにしろ子ども一人一人に直接届けられるか、その親に届けられるかの二通りしか入手する方法はなく、つまり子どものいないイベールはおよそ手に入れることさえできないはずの代物だったからだ。

「こっそり、ね。生徒に少しずつ協力してもらったの」

 あっけらかんとそう答えたイベールは、黒フレームの眼鏡の奥で、いよいよ本題を話すのだという決意を秘めた目でサンドラを見つめると、大きく息を吸って深呼吸してサンドラの頭を腕で抱えるように手繰り寄せ、耳元でこう囁いた。

「成長抑制剤が大量に見つかった」

 サンドラは絶句し、息をすることすら忘れていた。衝撃的な事実だった。

「そのこと、誰かに言った?」

「ううん、誰にも。サンドラだから話したの」

 その言葉を疑う理由はなかった。イベールは今まで一度もサンドラの信頼を裏切ったことはなかったし、こんなことで嘘をつく必要はないはずだった。

「ちょっと場所を移して続きを話そう」

 サンドラはそう提案すると、イベールは黙って頷いた。本来であれば二人はこれから八時間の運動義務時間を消化しなければならなかったのだが、そんなことはすっかりどうでもよくなっていた。生体モニターの記録を確認されれば義務を果たしていなかったことはすぐに露呈するはずで、そうなれば重い罰則が科されることになるのだが、それすら火星そのものよりも大きいとさえ感じられる秘密の前には些細なことだと、二人は悟っていた。


 急ぎ足で住居ドームに戻った二人は、サンドラの睡眠ルームに閉じこもった。良い睡眠のためにしっかりと防音加工されたそこは、ベッド一つに小さなサイドテーブル、最小限の私物のためのさらに小さな収納があるだけの、きわめて狭い場所だったが、秘密の話をするにはうってつけだった。

 本来は人を招き入れるような場所ではない、ささやかなプライベートルームであり、サンドラは俯き加減で「殺風景だけどごめん」と告げ、イベールの手を引いて部屋に入ると、内側からロックをかけた。これで誰にも邪魔されず、誰にも会話の内容を聞かれる心配はない。

 サンドラとイベールはベッドの上で体育座りになって正対すると、今度はイベールが打ち明けた話に対して、サンドラが抱いている疑問をぶつける時間になった。

 運動義務規定に対する疑問、地球を故郷と称することへの疑問、大人と子どもで食事が厳密に分かたれていることへの疑問、それらを一季節かけて取り組んできたものの、大した成果が得られていないことなど、いままで心中に留めてきた隠し事の一切を、イベールにぶつけた。

「つまり、ちゃんと悩みごとがあったのね。水臭いなぁ」


 成長抑制剤が毎日の食事に大量に加えられていることは、身体の健全な育成のためという名目とはまったく反する事実で、そのことが意味することは文字通り子どもの身体の成長を阻害すること以外の何物でもない。

 次に運動義務規定は、まったく行くことすらない、その記録すらない地球への帰還を前提として設けられており、実態としてまったく無意味ですらある。

 この二つはサンドラもイベールも結論を出すのは容易だった。問題は、故郷とはいったいなんなのかということだった。

「私たちの故郷って……地球なの?」

 サンドラの疑問は素朴でありながらも、深刻なものでもあった。生まれ育ったのは火星で、サンドラやイベールはもちろん、少なくとも記録上は地球に行ったことがある者などいるとは思えなかった。

 しかし同時に、はるか祖先が地球からの植民船団として火星の開拓を始めたことは誇りある歴史としてサンドラが生徒に教え聞かせている内容でもあり、実際そのように記録されていたのだから、祖先を辿れば地球を故郷と言ってもおかしくはなかった。

「この問題は、手に余る」

 イベールはそう呟くと、深く溜息を吐いた。

 その様子を見て、サンドラはイベールでも頭を抱える問題はあるのだと、意外さを感じていた。いつもイベールは打てば響くような会話で、スマートに物事を解決し、合理的判断を下し、小柄な体躯に似合わぬ快活さを見せていただけに、この問いの重さはイベールでも結論を容易には出せない問いなのだと、サンドラはそのことを納得することにした。

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