ホームランド ― Sandra's Scarlet Horizon ―

涼風紫音

第1話 サンドラとイベール

 ルームランナーで女が二人走り続けていた。

 程よく鍛えられた身体にピタリとフィットしたスポーツウェアに身を固めた、艶やかなブロンドのロングヘアで長身の女と、小柄な身体に丸い小さな顔、ウェーブがかったブラウンヘアといささか古風な黒いフレームの眼鏡をかけた女。二人は三時間走り続けていた。

「そろそろ……走り飽きたかな……」

 眼鏡の女が息を切らしながら声をかける。

 そこは、四方の壁が汚れのない白一色で塗り固められている大部屋だった。いくつもの運動機器が備えられているだけではなく、テニスコートやバトミントンコートなど様々な室内スポーツ用のエリアまで設けられている、きわめて大規模な部屋だった。


 徐々に走る速度を落としながら、ロングヘアの長身の女は眼鏡をかけた小柄な女を振り返り、こちらは息も上がらず平然とした顔で応える。

「そうね……、最後はバトミントンにしようか」

 三時間走りに走った二人は、迷うでもなく次の運動メニューを決めた。

 二人が迷わずメニューを決めたのは至極当然のことだった。この巨大なスポーツルームは二人だけではなく、コロニーの全住人が生涯毎日使い続ける施設であり、二人もその例外ではなかったからだ。

 火星第十三コロニー。そこは約百人の住人が住む、一つの教育センターの機能を有していた。第一次火星植民団が送りだされ第二十次に終わった火星への植民活動は、合計三千人を送り込み、そこから二百年に渡り世代を重ねて、いまでは二万人の火星人口を擁していた。

「これを二時間やって、今日の義務時間は終わりね」

 シャトルを勢いよくサンドラへ向けてロングサービスで放ちながら、イベールは試合開始とともに早くも終わる時間を待ち望んでいた。その気持ちはサンドラも同じだった。腕を磨くでもなく、スコアを競うでもない。ただ義務付けされた運動時間を消化することだけ。


 自重トレーニングを一時間、ウェイトトレーニングを一時間、スラックラインを一時間、ルームランナーマラソンを三時間、そして最後にバドミントンを二時間。これが二人の定番メニューだった。バスケットボールやバレーボールなどもコートはあったが、それをやるにはメンバーが集まらねばならず、試合の結果にまったく興味のない二人は、同室になってすぐに二人だけでこなせるメニューを組み上げていた。

 すっかり慣れ親しんだバトミントンでようやく最後の二時間を費やして運動義務時間を終えた二人は、ロッカールームで日常着に着替えはじめる。

「ねえ、サンドラ。このあと何か予定はある?」

 眼鏡の位置をくいっと人差し指で整えながら、小柄な女はもう一人に尋ねる。

「明日の授業の準備、かな。でも少しなら時間作れると思う。イベールはどこか行きたいところがあるの?」

 サンドラと呼ばれた長身のブロンドの女は、小柄な女に聞き返した。

 サンドラとイベール。二人は居住ブロックの相部屋の間柄だった。サンドラは主に十代の子どもを教育する教師を務めていて、イベールは農業教育のために一時的に農業部門から派遣された臨時教師であった。


 サンドラは本名をアレクサンドラ・ミリアム・スミルノフといった。元はロシアから送り出された植民者の系譜を引いていた。しかしロシアは二十一世紀から二十二世紀にかけて何度も戦争を引き起こした歴史があることをサンドラは両親から何度も言い聞かされてきたため、いかにもロシア風の名前で呼ばれることを嫌った。そのことを知っているイベールは、いつもサンドラと英語圏のニックネームで呼ぶことにしていた。

 イベールはその祖先がフランス出身の遺伝学者であり、代々遺伝学を学びながら地球産の食物をいかに火星で育成していくかに腐心していた。

農業従事者は火星で最重要の職業であり、植民開発時代に地球から持ち込まれた食物植物の品種改良や、あるいは資源と交換の形で送られてくる僅かな香辛料や観葉植物といった贅沢資源をどうにか火星で栽培できないかを分析、試行する職でありながら、その地味な仕事柄あまり人気がないのだった。イベールは若くして後身の確保・育成のために、敢えて農業部門から派遣された当代きっての才媛と呼ばれた期待の若手だった。


 こうして火星で唯一青少年の教育機能を有する教育区画で巡り合った二人は、たまたま同室になったということも相俟ってすっかり意気投合し、豊かな才気を有する二人は、たびたび有意義で活発な意見交換を行い、その時間に比例して互いの知見を認め合う中になっていった。

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