死に水が溢れる

棺之夜幟

肉を遺すもの

 海岸には、今日も大量のクラゲが打ち上がっていた。

 透明なゼラチン質の身体には、脳も無いらしい。反射神経だけで生きている、生きた水。学校の生物教師は、目の前の数万の生命をそう称した。

 夏の刺すような日差しを浴びて、クラゲの表面が乾いていた。ローファーの爪先でつつけば、ぷるんと横に揺れる。

 日傘を右肩で固定して、磯の上に立ったままリュックサックを漁った。

 工作用の鋏を取り出す。その刃先を、クラゲのお椀に似た透明な肉の表面に当てた。

 ぱっくりと空いた表面からは、日光に煮詰められた芳醇な潮の匂いと、僅かな腐敗臭が放たれた。


「何をしているの」


 ふと、背後から、少女の声を聞いた。私と同じセーラー服に身を包んだ彼女は、黒い日傘をくるりと回した。


「日傘、海に落ちちゃうよ」


 そう言って、友人は磯岩を伝い歩く私へ、その細い手指を向けた。


「大丈夫」


 と、私は彼女の手を取らずに、日傘を畳んだ。リュックサックの中にそれを押し込んで、ひょいと堤防を登る。

 一瞬目を丸くした友人は、またコロコロと笑った。


「今日は熱中症アラート出てたじゃない。射した方が良いと思うよ、日傘」

「別に、持ってるだけ邪魔じゃん。こんな照り返しが酷くちゃ、意味ないって」


 黒いアスファルトの上に、足を置く。ローファーの裏が、溶けてペタペタと貼り付いているような気がした。


「でも、決まりだからさ」


 そう言って、友人は私の隣を歩いた。

 決まり。彼女の言う通り、私達が日傘を持ち歩いて学校からの帰路を辿るのは、学校教員が定める規則の一つであった。

 二十年前にこの町へ嫁いできた母曰く、「熱中症対策だろう」ということだが、祖母の代から住む友人曰く、ニュースで温暖化という言葉を聞くよりも前から、「通学路では必ず傘を持ち歩く」という校則があったらしい。どうも、当初は子どもにハンカチを持たせるのと似たような類いであったそうだが、その実、何故そんな校則が出来たのかを、特に誰も知らないという。

 私を含めた子ども達の中で、この「傘を持つこと」という校則に反対する者は多い。雨でもないのに傘を持つ意味がわからないし、豪雪に見舞われるこの町の冬に傘は要らない。とすれば、本来傘を持つべき季節は一年のうちの一ヶ月か二ヶ月ばかりで、残りの十ヶ月ほどはただの荷物でしかないのだ。唯一、ここ数年は温暖化も相まって、雨傘ではなく日傘を持つことである程度は納得する者もいる。かく言う私も、そのうちの一人であった。


「まあ、校則って、基本的に理不尽なものだから」


 そう言って、友人は困ったように眉を下げた。そうして、彼女は私に背中を向けた。

 一歩、足を出す。黒く質素な、それでいて品良くレースをあしらった傘の、その影の中で、友人の白い脹脛がぼんやりと浮かぶ。水分に満ちた肌が、真珠の表面のように輝いていた。海の中で漂えば、きっと、より人間味を欠くだろう。

 そんな彼女の首筋を、そっと撫でようとした。指先が、触れる。その瞬間に、ふわりと、彼女の後ろ髪が舞った。


「何?」


 友人の問いは、海に向けられていた。

 海上から山裾へと向かう風が、彼女の傘を煽る。傘が、友人の手の中で暴れた。

 延ばしていた手を、そのまま、彼女の手に添える。日傘を掴んでいたその手が、開いた。


「あ」


 と言ったのは、私だったかもしれない。

 ふわり。傘が、宙を舞った。

 風に煽られた傘は、黒いクラゲのように、柄を延ばして、空中に転がる。

 そして、風が止んだ。

 しんと静まりかえった海辺。僅かな波の上に、友人の日傘が落ちた。


「と、取りに行くよ」

「待って」


 友人が、私の腕を掴み返した。彼女は困ったように眉を下げながら、口角を上げた。


「今日はもう帰りましょう」


 彼女はそう言って、海に背を向けた。私が「え」と短く驚嘆を漏らすと、友人は静かに振り返った。その彼女の目線は、海の向こうへと続いていた。

 その視線を追うと、そこには、暗雲が広がっていた。今朝やっていたニュースを思い出す。確か、明日、台風が来るだとか、そんな話がテレビから聞こえていた。


「でも」

「良いのよ、あれ、校則用の適当なものだし。制服で海に入る方が危ないわ」


 彼女は燦々とした太陽光の下、自らの白い肌を輝かせていた。

 友人の隣を、同じ歩速で進んだ。

 翌日の、台風で休校の連絡が入った朝、家の電話が鳴った。

 娘が消えた。と、友人の母親が、震えた声で言った。

 曰く、その身体以外の、全てを残して、まるで溶けるように部屋から消えたのだという。



 その日、娘を探しに出た彼女の両親も、また消えた。

 二人は台風が過ぎ去った翌々日に、浜辺に打ち上がった。ぷよぷよと拍動を続けるクラゲを纏った二人の身体は、全身の骨が砕けていたという。

 その遺体を運ぶ最中、高い波を見ながら、祖父が「海に落ちたのだろう」と呟いていたのを、私は忘れることが出来なかった。



 学校と家との往復を一人でこなすようになって、数日が経った。

 海岸線は変わらずクラゲの死体で覆われている。電柱や海岸の一部には、友人の写真と「探しています」の文字があった。写真の、歯を見せて笑う彼女の隣から、私の手が伸びていた。ピースサインを作る一月前の私が、切り取られていた。

 その友人の顔を、指先でなぞる。ビニールで保護されたチラシの表面には、僅かな塩の粒がついていた。

 堤防を乗り越えた海風が、私の横を通り過ぎていく。リュックサックの横で、ちゃりちゃりと音が鳴る。日傘に付けていたキーホルダーが、横ポケットのファスナーと擦り合っていた。

 海を見る。風が止まない。水平線の向こうの晴天は、風を呼ぶようには見えなかった。

 夏の海辺は、海から山へ風が吹くものだと言っていたのは、確か、理科の教員であった。故に、泳ぐ力の無いクラゲが大量に岸へ流されるのだと、言っていた覚えがあった。

 数秒の後、日差しに目が慣れる。白く霞んでいた視界は、ハッキリとした輪郭を得る。その中に、私は、黒いものを見た。

 私は、堤防をよじ登った。

 制服のスカートを揺らす私に、「危ないよ」と言う友人は、隣にいない。だが、その言葉が、海の方から、風に乗って聞こえた気がした。

 堤防の向こう側、磯岩に引っかかったクラゲが、腐りかけていた。波に混じって、新しく供給されるゼラチン質の塊は、透けた身体の中から内臓を見せている。

 骨の無いそれらが数回砕け散った頃、黒い布が、磯岩に引っかかった。何の躊躇いも無く、私はその布を手に取った。穴は空いているものの、広げた形は八角形のそれを保っていた。布の端には控えめな黒いレースが飾り付けられていた。その形に、覚えがあった。

 私は友人の日傘の残骸を持って、磯岩を歩いた。帰路を、堤防が低くなっている箇所を探した。

 クラゲの死体を踏みつける度、その表面が割れる。乾いていた表面の隙間からびゅーっと海水が溢れて、潮の香りを吐いた。その触感は、ナタデココを奥歯で噛んだときのそれと似ていた。

 ぐちゃ。

 ぐち。

 ぶちゃん。

 海岸線を覆う肉だけの死体のベールを踏み荒らしていく。口で息をした。

 視線の先に、船着き場を置いた。揺れる海水と磯岩の境を見つめると、どうしても吐き気がした。健常な三半規管を恨んだのは、人生で初めてのことだった。

 ぐちゃ。

 ぐちゃ。

 ぐち。

 ぶちゃん。

 ぶちゃん。

 ぐ、ぐにゃり。

 ふと、知らない感触があった。空気の入っていないゴムボールを踏みつけたような感触だった。それを認識したコンマ数秒。私の視界は、ぐらりと崩れた。

 テンポを一つ置いて、痛みが走る。右肘と右膝、そして肋骨を抱えた。一瞬、息が止まった。足先に、冷たさが滲む。海水に浸かったローファーへ、視線を向けた。

 ゆっくりと、息を再開する。肋骨が、前後左右に広がる。横隔膜と肺が、膨らむ感覚があった。縮こまっていた手を開く。指先を、磯岩に引っかけて、身体を持ち上げた。

 歯を食いしばって、息を吐く。私の呼吸の度、汗が、首筋から背中にかけて垂れた。

 そうしてまた、私の息が止まる。否、息をするのを、忘れた。

 声を出すことも、瞬きすらも忘れて、私はただ、立った。

 足下から、視線を外すことが出来なかった。

 海岸。磯の岩の上には、私が『踏みつけたもの』が横たわっていた。

 目が、合った。水分を含んだ人間の眼球と、私の視線が、合った。薄い唇が、海水で濡れていた。今にも喋り出しそうなその顔は、喉は文字通り潰れていた。

 伸びた皮膚の、その中に内包された筋肉。長く艶のある黒髪。それらを支えて、形を与えるもの。その『骨』を失って、『友人』はただ、私を睨んでいた。

 踏みつけた私を、恨めしそうに、見つめていた。僅かに浮かんだり沈んだりする背中の下には、多分、肺と横隔膜があった。


 数日後、堤防のチラシが消えた。友人の祖母が剥がしたのだ。何も無い海岸線を、骨壺を持って歩いた。

 友人の骨壺は、まるで何も入っていないかのように、軽かった。


 リュックサックの横に入れていた日傘の『骨』が消えていたのに気付いたのは、そんな、友人の納骨式の後のことだった。


(肉を遺すもの 了)

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死に水が溢れる 棺之夜幟 @yotaka_storys

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