藪の中(作:二階堂 玲)
二階堂「感傷の時間は終わり。ここからは、論理の時間よ。あなたたちが、それぞれの『感情』で物語を歪めていくのなら、私は、ただ一つの『事実』を、ありのままに記述する。私が導き出した真相……それは、この事件が、情念や偶然の産物などではなく、一人の人間によって、冷徹に、そして完璧に計画された、『完全犯罪』だったという、ただ一つの帰結よ」
(二階堂、ノートパソコンを静かに開く。その画面には、整然と文字が並んだテキストファイルが表示されている。彼女は、その冷たい瞳で部員たちを一瞥すると、淡々と、テキストを読み始めた)
***
藪の中
作:二階堂 玲
仏に語る旅法師
おお、仏よ。
今こうして、あなたの前に額ずくこのわたしを、あなたはいかなる目で見ているのでしょうか。一人の哀れな巡礼者か。それとも、罪の意識に苛まれる迷える子羊か。どちらも違いますぞ。わたしはあなたに救いを求めに来たのではない。懺悔をしに来たのでもない。
ただ、報告に来たのです。わたしの生涯をかけた大願が成就したことを。わたしの完璧な復讐劇が、滞りなくその幕を閉じたことを。
お話ししましょう。あの藪の中で、一体何があったのか。そして、わたしが何をしたのか。この法師の袈裟の下に隠された、わたしの本当の顔を。
わたしの俗名は、もう捨てました。かつて、京の都でそれなりの家柄を誇った一族も、今はもうありません。全て、あの男……金沢の武弘によって滅ぼされたのですから。
些細な政敵との繋がりを疑われ、あの男はわたしの父に無実の罪を着せました。家は取り潰され、財産は没収。父は屈辱のうちに自ら命を絶ちました。わたしたちは全てを失い、都を追われたのです。
その日から、わたしの人生の目的は、ただ一つとなりました。武弘への復讐。
しかし、相手は腕自慢の武士。正面から挑んでも、返り討ちに遭うのが関の山。わたしは、武士を捨て、髪を剃り、この旅法師の姿となりました。復讐とは、ただ斬り殺すことではない。相手の最も大切なものを、最も惨めな形で奪い、その誇りを塵芥のように踏みにじること。そのための、長い、長い計画の始まりでした。
わたしは、何年もかけて、武弘の行動を調べました。彼が、若く美しい妻を何よりも慈しんでいることも。そして、彼が年に一度、所領のある若狭へ、その妻を伴って旅をすることも。
わたしは待ちました。彼が最も無防備になり、そして最も孤独になる、その瞬間を。
あの山科の道は、私の計画にあまりにも都合が良かった。人通りは少なく、そして何より、かの有名な大泥棒、多襄丸が、近頃頻繁に出没するというではありませんか。
仏よ、あなたはこれを、ただの偶然だと断じますか? いいえ。これはわたしの長年の怨念が引き寄せた、必然の好機だったのです。
わたしは、彼らが山科の道に差しかかる少し手前で、待ち伏せをしました。そして、いかにも人の良さそうな巡礼者を装って、彼らの前に姿を現したのです。
「これは、これは、お見事なご夫婦。どちらまで、お旅でございますかな」
わたしは、彼らの旅の安全を祈るふりをして近づきました。そして、こう申し出たのです。
「この先の道は物騒と聞きます。拙僧が、この霊水にて、お二人の道中のご無事をお祈りさせてはくれまいか」
武弘は最初、少し訝しんでおりました。だが、妻の方が、私の人の良さそうな顔にすっかり安心したのでしょう。夫を促し、私の差し出す竹筒の水を、二人して飲んだのです。
ああ、愚かな。
その水こそ、私が何か月もかけて南蛮渡来の薬師から手に入れた、秘伝の毒だったというのに。それは、飲んでもすぐには、どうということもない。ただ半刻もすれば、徐々に手足の力が抜け、思考が霞のようにぼんやりとしてくる。いかなる屈強の武士とて赤子同然となる、恐るべき毒。
わたしは、彼らの後ろ姿を見送りながら、静かに合掌しました。彼らの冥福を祈ってやったのです。
わたしの読み通りでした。
わたしが後を追って藪の中へ入っていくと、そこには案の定、多襄丸がいました。
そして、わたしの思い描いた通りの光景が広がっていました。武弘は毒によってろくに抵抗もできず、易々と多襄丸に組み伏せられ、木に縛り付けられていたのです。
わたしは物陰に潜み、一部始終を見ていました。多襄丸が妻を手込めにする様を。そして、三人の間で醜い痴情の争いが繰り広げられる様を。
やがて、多襄丸は妻を連れて立ち去った。
後に残されたのは、木に縛られたまま絶望に打ちひしがれている武弘、ただ一人。
ようやく、わたしの出番が来たのです。
わたしは、ゆっくりと、彼の前に歩み出ました。
彼は、わたしの顔を見て、驚愕に目を見開きました。まさか、先ほどの人の良い旅法師が、なぜ、ここにいるのか、と。
わたしは、にこりと微笑んでやりました。そして、ゆっくりと、わたしの本当の名を告げてやったのです。
「武弘殿。拙僧を、覚えてはおられますまいな。拙僧は、あなたが、かつて、無実の罪で、地獄へ突き落とした、斎藤家の一子。あなたに裁きを下しに来たのです」
彼の顔が恐怖と絶望で歪んでいく様は、長年、夢にまで見た、最高の見物でございました。彼は、何かを叫ぼうとしましたが、毒のせいで、もはや声も出ない。
わたしは、妻が争いの末にその場に落としていった、あの美しい小刀を拾い上げました。
「あなたには、この小刀で、死んでいただきます。そうすれば、全ては多襄丸の仕業となる。誰もわたしのことなど疑いはしない。あなたは、妻を汚され、盗賊に殺された、哀れな武士として、後世まで語り継がれるでしょう。あなたの、その高かった鼻も地に堕ちるというもの。これこそ、あなたに最もふさわしい末路ではありませぬか」
わたしは、彼の胸に、その刃を、ゆっくりと、突き立てました。
断末魔の、苦悶の表情。それこそが、わたしが生涯をかけて追い求めてきた、至福の光景でした。
仏よ。これが、わたしの罪の、全てです。
わたしは、武弘の命を奪い、そして、彼の武士としての名誉をも完全に奪い去りました。多襄丸は、どうせ、いずれ捕らえられ、この事件の犯人として裁かれることでしょう。世の中は実にうまくできている。
わたしはこれからも、この法師の姿のまま諸国を巡るつもりです。父の、そして、我が一族の無念の魂を弔いながら。
あなたに、わたしのこの行いを裁く権利など、ありはしない。
なぜなら、この世に神も仏もいないということは、このわたしが誰よりも、よく知っているのですから。
***
(二階堂、読み終えてパソコンを閉じる。満足げ、というよりは、一つの事件ファイルを閉じた刑事のような、静かな表情だ)
二階堂「……以上よ。これが、私が導き出した、この事件の、唯一、あり得る真相。論理的でしょう?」
(しかし、彼女のあまりにも救いのない冷徹な物語に、部室は一瞬の沈黙の後、いつもの賑やかさを取り戻した)
四方田「うーん……計画が完璧なのは、めちゃくちゃ分かりました! 分かりましたけど……! これ、誰も、誰のことも愛してないじゃないですか! 憎しみしかない! エモさが、1ミリも、ないです! これじゃ、私の心は、潤いません!」
一ノ瀬「そうよ! それに、玲! あなたの物語は、あまりにも、乾ききっているわ! 人間の、どうしようもない愚かさや、愛憎のもつれが生む、悲劇の美しさというものが、全くない! ただの、冷たい、知的なパズルじゃないの! 芥川先生が描いた、あの、湿り気を帯びた人間の業は、どこへ行ったのよ!」
三田村「……観測完了。復讐という、極めてありふれた動機に基づく、論理的に閉じたシステム。エラーも、バグも、観測されませんでした。……その点において、完璧なプロットです。ですが、あまりに予測可能。退屈、とも言います」
二階堂「はぁ……」
(三者三様の、いつも通りの反応に、二階堂は、心底やれやれと、しかし、どこか楽しげに、深いため息をついた)
二階堂「また始まったわね、あなたたちの、その、感傷と、空想と、現実逃避が。いいこと、真実というものは、必ずしも、あなたたちの心を『潤したり』、悲劇的に『美しかったり』、宇宙規模で『壮大だったり』するわけではないの。それは、時に、ただ、冷たく、そこにあるだけ。……その、絶対的な事実の美しさが分からないのなら、まだまだ、あなたたちも、ひよっこ、ということね」
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