藪の中(作:四方田 萌)

二階堂「ふふ。まあ、見ていなさい、一ノ瀬。本当の『真相』というものが、どれだけ、あなたの感傷的な悲劇よりも、冷徹で、美しいものなのか……。次の私の番で、証明してあげるわ」


四方田「はい、ストーップ! ストップです! これ以上、この部室の湿度と温度を下げないでください!」


(四方田が、パン! と元気よく手を叩き、険悪になりかけた二人の間に割って入る)


四方田「次は、私、四方田萌の番です! 部長の悲劇も、副部長のミステリーも、どっちもすごいのは分かります! でも、二人とも、一番大事なことを見落としてますよ! 物語を動かすのは、小難しい理屈や、人間の醜さだけじゃない! そこに、『愛』はあるんか? って話なんです! 私の『真相』で、このギスギスした空気を、萌えと尊みで、浄化してみせますから!」


(一ノ瀬と二階堂が呆気にとられる中、四方田は、うっとりとした表情で、スマホの画面をタップした)


***


藪の中

作:四方田 萌


  あの世から妻に向けた男の慚愧


 真砂子。俺の、愛しい妻よ。

 お前には、聞こえるか。この、陽炎のように揺らめく、魂の声が。俺は、今、どこにいるのだろうな。あの、忌まわしい藪の中か、それとも、お前の記憶の中か。ああ、どちらでも、同じことか。俺は、あの日、あの場所で、確かに、死んだのだから。

 お前は、今も、俺のために、涙を流してくれているのだろうか。夫の貞操を守れず、盗賊に汚され、挙句の果てに、夫にまで死なれてしまった、薄幸の女として。違う。違うのだ、真砂子。お前は、何も悪くない。

 全ての罪は、この俺にある。そして、俺が本当にお前に詫びねばならぬのは、あの男に力及ばず、お前を守れなかったことではないのだ。

 聞いてくれるか。誰にも語ることのできなかった、あの日の、本当の地獄を。俺がなぜ、お前に、あの氷のように冷たい軽蔑の視線を向けたのか。その本当の理由を。


 あの日の、山科の道は、よく晴れていたな。

 お前は俺の後ろで、楽しげに鼻歌なんぞを歌っていた。俺は太刀の柄に手をやり、お前と、お前の乗る馬を守る誇らしい夫として、ただ前だけを見ていた。

 その時だ。あの男が現れたのは。

 多襄丸。都で噂の大泥棒。その男が風のように俺たちの前に立ちふさがった時、俺は少しも臆してはいなかった。むしろ、武士として腕が鳴るとさえ思った。

 だが、俺はすぐに気づくべきだったのだ。あの男の、異様な視線に。

 奴は、お前を見てはいなかった。奴のぎらぎらと光る獣のような目は、ただ真っ直ぐに、この俺だけを捉えていた。それは、獲物を見つけたというよりは、ずっと探し求めていた宝物を見つけたとでもいうような、ねっとりとした執着の色をしていた。

 俺は一瞬で奴に組み伏せられた。悔しいが、奴のあのしなやかで獣じみた力は、俺の想像をはるかに超えていた。奴は俺を、杉の木に荒縄で戒めた。

 そして、俺の目の前で、お前を手込めに……。

 いや、違う。

 それこそが、お前が、俺の最後の誇りを守るためについてくれた、悲しい、悲しい嘘なのだ。


 奴はお前を縄で縛り上げると、その場に転がした。そして、奴は再び、俺の前に立った。

 奴は、何も言わずに、俺の顔をじろじろと値踏みするように眺め回した。その目に劣情の色はなかった。ただ、美しいものをどうやって壊してやろうかと考えているような、子供じみた残酷な光が宿っていた。

「……いい面構えだ」と、奴は言った。「その、気高い目、気に入った。お前のような男が、俺の下で、乱れ、喘ぎ、崩れ落ちる様は、さぞ見物だろうな」

 俺は、何を言われたのか、理解できなかった。

 奴は、俺の顎を掴み、無理やり上を向かせた。そして……。

 ……真砂子、許してくれ。この先を語ることは、俺の魂が拒絶する。

 ただ、分かってくれ。俺が、あの男に奪われたのは、太刀でも、馬でも、お前でもない。この、俺自身の、武士としての、男としての、魂、そのものだったのだ。

 どれほどの時間が過ぎたのだろう。

 俺が意識を取り戻した時、目の前には、ただ縄を解かれ、呆然と座り込んでいる、お前の姿があった。多襄丸は、もう、いなかった。

 俺は、お前の顔を見ることができなかった。

 お前は、泣いていた。俺のために泣いてくれていた。ああ、それなのに、俺は。俺はお前に、どんな顔をすれば良かったのだ。

 その時、お前は言ったのだな。「いっそ、私を殺してください」と。お前は、自分の貞淑が汚されたと思い、そう言ったのだろう。違うのだ。汚されたのは、俺なのだ。

 俺の心は、もう死んでいた。武士としての誇りも、夫としての矜持も、全てあの男に踏み荒らされ、食い散らかされた後だった。

 だから、俺はお前に、あの冷たい目を向けたのだ。

 あれは、お前への軽蔑ではない。

 こんな無様で、惨めで、汚らわしい姿をお前の前に晒している、この俺自身への、どうしようもない、軽蔑の眼差しだったのだ。


 お前は聡明な女だった。

 俺のその死人のような目を見て、全てを察してしまったのだろう。俺が何を失ったのかを。

 お前は泣くのをやめた。そして、その顔にまるで能面のような静かな決意の表情を浮かべた。

 お前は懐から、あの小刀を取り出した。そして、俺にこう言ったのだ。

「旦那様。このことは、誰にも、知られてはなりませぬ。あなたの、武士としての、名誉のために。……私が、あの盗賊に、手込めにされた、ということに、いたしましょう。そして、私は、夫に顔向けできぬと、この場で、自害した、と。あなたは、ただ、不運な夫を、演じてくだされば、よいのです」

 俺は言葉を失った。

 この女は何を言っているのだ。俺の最後の誇りを守る、だと? そのために、自らが不貞の女という、最大の汚名を着るというのか。

 やめろと言いたかった。そんなことはさせられない、と。

 だが、俺の喉からは、ひゅう、というかすれた息しか漏れなかった。

 俺はあまりにも無力だった。

 そして、俺は心のどこかで、そのお前のあまりにも悲しい提案に安堵している卑しい自分がいることにも気づいていた。そうだ、その方がいい。その方が、俺は楽になれる……。


 だから、俺は死を選んだ。

 お前の、そのあまりにも大きな愛に応えるには、俺はあまりにも汚れすぎていた。お前にそんな壮絶な嘘をつかせて、俺だけが生き永らえるなど、到底許されることではない。

 俺はお前の手から小刀を奪い取った。

 お前は悲鳴を上げたな。「おやめください!」と。

 ああ、真砂子。俺の最後の我儘を許してくれ。

 俺はこの惨めな命を、俺自身の手で終わらせることでしか、俺の武士としての、最後のけじめをつけることができなかったのだ。

 胸に刃を突き立てた。熱い、というよりは、ただ冷たい何かが、俺の身体の中心を貫いていった。

 薄れゆく意識の中で、俺はお前の絶叫する声を聞いていた。

 すまぬ、すまぬ、真砂子。

 来世では、どうか、もっと強い男のところに嫁いでくれ。


 ……これが、真実だ。

 巫女の口を借りて、俺は、お前を、ただ冷たく突き放した。許してくれ。あの役人どもの前で、このあまりにも惨めな真相を語ることはできなかったのだ。

 愛している、真砂子。

 だからこそ、俺はお前を、この呪われた運命から解き放たねばならなかった。

 俺は永遠に、この藪の中を、彷徨い続けるだろう。

 お前への愛と、俺の罪と、そして、あの男への憎悪を、その胸に抱きしめながら。


***


(四方田、朗読を終え、その目には大粒の涙が浮かんでいた。スマホを、そっと、胸に抱きしめる)


四方田「……どう、ですか……。これこそが、この物語に隠された、本当の、愛の形……。しんどすぎて、最高に、尊いと、思いませんか……!?」


一ノ瀬「…………あなたは……!」


(一ノ瀬は、わなわなと震えていた。その顔は、青ざめている)


一ノ瀬「あなたは……! 芥川龍之介の、あの研ぎ澄まされた、人間不信とエゴイズムの物語を……! なんと、情念渦巻く、倒錯的な、恋愛悲劇に、書き換えてしまったのね……! 不謹慎だわ! あまりにも、不謹慎すぎる! ……でも……! でも、悔しいけれど……! その、悲しみだけは、本物だわ……! 胸が、張り裂けそうだわ……!」


二階堂「…………論理が、破綻している。動機も、行動も、あまりに飛躍しすぎているわ。……でも、奇妙なことに、この説が一番、登場人物全員の『異常な行動』に、一本の、筋を通しているようにも思える。多襄丸の執着も、妻の自己犠牲も、そして、武士の絶望も……。このプロットの上でなら、全てが、不気味なほど、しっくりと、ハマってしまう。……不愉快な説得力ね」


三田村「……観測完了。極めて高濃度の情動データ。特に、支配欲、自己嫌悪、自己犠牲のパラメータが、観測史上、異常な数値を記録。理解は不能。ですが、この情報パッケージが、特定の受容体を持つ知的生命体に対し、極めて強い精神作用を及ぼすであろうことは、予測可能です」


四方田「でしょー!? これが、人間を動かす、たった一つの真実! 『エモ』なんですよ!」

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