山月記(作:三田村 宙)
三田村「……では、始めます。論理だけでは到達できない、しかし、物理法則を逸脱しない、本当の『変身』をお見せします」
(三田村、タブレット端末の画面をタップし、抑揚のない声で語り始めた)
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「その声は、我が友、李徴氏ではないか?」
袁傪の言葉は、音波として大気を震わせ、草むらの奥に潜む男の鼓膜を打った。男――李徴であったもの――は、その問いに答えることができなかった。彼の口腔と声帯は、もはや人間の言葉を正しく発音するために最適化されてはいなかったからだ。
「……ああ、そうだ……。おれは……隴西の李徴だ……」
途切れ途切れに、獣の唸り声に似たノイズの混じる音を発するのが、精一杯だった。彼の脳は、かつての友人に伝えたい内容を正確に記憶している。だが、出力装置である肉体が、脳からの指令を正確に実行できないのだ。
「李徴! やはりおぬしか! 一体どうしたのだ、その声は。そして、なぜ姿を見せぬ」
草中の男は、自嘲とも苦悶ともつかぬ息を漏らした。
「……見せられぬ。この身体は、もはやおぬしの知る李徴のものではない。俺は、俺ではない何かに、内側から書き換えられつつあるのだ」
「書き換えられる? 李徴、何を言っている?」
袁傪の困惑を無視し、声は続けた。それは、まるで観察記録を読み上げる科学者のように、客観的で、恐ろしいほどに冷静だった。
「発端は、数年前、南方へ旅した折だろう。ある沼の水を口にして以来、俺の身体には、未知の有機情報体が寄生したらしい。それは、普段は休眠状態で、宿主の遺伝情報に擬態している。だが……」
声は、一度言葉を切った。
「……だが、宿主が極度の精神的ストレスに晒され、特定の神経伝達物質を過剰に分泌した時、そいつは覚醒する。俺の場合、それは『詩人になれなかった自己嫌悪』と『俗物と交われぬ自尊心』の葛藤が生み出す、脳内の電気信号だった」
李徴は、自らの身に起きた、信じがたい生物学的プロセスを語り始めた。
「覚醒したそいつ――『キメリック・カタリスト』とでも呼ぼうか――は、まず、俺の神経系を乗っ取った。そして、俺の脳内にある自己イメージをスキャンし、それを設計図として、俺の肉体の再構築を開始したのだ。袁傪よ、俺は、己のプライドを守るため、心の中で常にこう思っていた。『俺は人間などではない。俺は、孤高の、猛々しく、美しい、一頭の虎なのだ』と。……愚かなことに、寄生体は、その歪んだ自己イメージを、文字通りブループリントとして採用してしまった」
「……何を、言っているのだ、おぬしは……」
袁傪の声は、震えていた。
「変異は、末端から始まった。まず、指の爪が、分厚い角質層へと変化し、鉤爪として伸長。次に、皮膚の下で、体毛を生成する毛根が異常発達し、数時間のうちに、全身が密な金色の体毛で覆われた。ここまでは、まだよかった。本当の地獄は、骨格の再構築だった」
声は、何の感情も込めずに続けた。
「大腿骨が、脛骨が、より強大な跳躍力を得るために、一度粉砕され、再結合していく。メキ、メキ、という、己の骨が内側から軋み、砕ける音を聞きながら、俺はただ耐えるしかなかった。脊椎は、しなやかな獣のそれへと、一つずつ置換されていく。その激痛の中で、俺の意識は、己が設計した獣の檻に、閉じ込められていくのを感じた」
「……やめろ……。もう、聞きたくない……」
「これが、現実だ、袁傪。呪いでも、狂気でもない。これは、異星からもたらされた、恐るべきバイオテクノロジーによる、制御不能なバイオジェネシスだ。俺は、虎になったのではない。俺の肉体が、俺の精神をブループリントとして、『虎』という生態系ニッチに適応した、新たな生命体に作り変えられたに過ぎない」
草むらの中は、静まり返った。そこには、もはや詩人の苦悩はなく、冷徹なまでの現象報告だけがあった。
「……頼みがある、袁傪。この変異は、まだ完了していない。俺の脳は、まだ人間の記憶と論理を保持している。だが、それも時間の問題だ。完全に、捕食者としての新しいOSに上書きされる前に……俺の、人間の証である詩を、記録してほしい。これは、旧バージョンのOSに残された、最後のデータダンプなのだ」
袁傪は、恐怖と混乱の中で、それでも友の最後の願いを叶えようと、頷くことしかできなかった。
草中から聞こえる声は、もはや美しいとは言えなかった。時折、獣の唸りや、骨の軋むような異音を交えながら、それでも気高く、数々の詩を紡ぎ出した。
全ての詩を詠み終えた時、声は言った。
「……ありがとう。システム・シャットダウンまで、あと僅かだ。早く行け。次の起動時には、俺のプロトコルは『捕食』になる。おぬしは、ターゲットとして認識されるだろう」
袁傪は、声もなく馬を走らせた。振り返るな、と本能が告げていた。
だが、彼は丘の上で、一度だけ振り返ってしまった。
草むらから現れたのは、一頭の巨大な虎だった。だが、その姿はどこか歪だった。体毛の一部はまだ生え揃っておらず、皮膚組織が爛れたように見え、その歩き方は、まだ新しい骨格に慣れていないかのように、ぎこちなかった。それは、完成された美しい猛獣ではなく、おぞましい変態の途上にある、名状しがたい何かであった。
その“何か”は、袁傪を認めると、一声、咆哮した。それは、悲しみでも、威嚇でもない。ただ、新しい生命体が、初めてその発声器官の性能を試すかのような、無機質な音の塊だった。
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(三田村、静かにタブレットの画面を消した。部室は、冷え冷えとした沈黙に包まれていた)
四方田「……ひぇっ……。な、なんか……エイリアンに寄生されて、体が作り変えられたってこと、ですか……? 骨がバキバキって……グ、グロいです! グロすぎます! エモさとか、そういうのじゃなくて、ただのホラーじゃないですか!」
一ノ瀬「……玲の『夢がない』とは、また違う次元で、これは……文学への冒涜だわ! 李徴の苦悩は、人間の、あまりに人間的な自意識の葛藤だからこそ、私たちの心を打つんじゃない! それを、正体不明の宇宙的寄生虫のせいだなんて……! 人間の尊厳は、魂の葛藤は、どこへ行ったのよ!」
二階堂「……寄生生物による強制的な生体再構築、ね。確かに、物理法則は逸脱していないし、あなたなりの『合理的』なメカニズムは提示されているわ。その点は、評価しましょう。でも、これは……あまりにも人間味がない。李徴の悲劇を、ただの生物学的なアクシデントに矮小化している。ミステリーで言えば、『被害者は事故に遭いました。以上』と言っているようなものよ。そこに、物語は存在しないわ」
(三人の呆れたような、あるいは若干引いているような視線を浴びても、三田村は表情一つ変えず、静かに頷いた)
三田村「……現象の記述としては、これが最も正確です。次は、四方田さんの番ですね。観測不能な『エモさ』とやらが、どのような現象を引き起こすのか、興味深く見させてもらいます」
四方田「えええっ!? プレッシャーがすごいんですけど!」
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