第4話

 月夜のピアノが現れてから、2年の歳月が経過した。歩は14歳になっていた。あれからピアノを弾くことはなく、音楽からも遠ざかっていた。とある日の音楽の授業で、再びショパンの曲が流された。


 思い出すのは、2年前の月夜のピアノのことだ。優雅に軽やかにピアノを弾いていた12歳の時の思い出は、色濃く歩の心に残っていた。


 周りは受験のことで頭がいっぱいのようだったが、歩にとってはピアノを弾くことだけが頭を支配していた。両親にピアノを習いたいといえばいいのだが、そんな金は家にはないだろう。


 放課後になり、歩は町で一番大きな本屋を訪れていた。本屋の一角にある、楽譜コーナーに到着すると、ショパンを探した。ショパンの楽譜はすぐに見つかった。開いてみて愕然とした。今まで見ていたリコーダー用の譜面とは訳が違ったのだ。おまけに値段を見て愕然とした。小遣いでは到底足りなかった。


「どうせ、こんなの弾けっこないや」


 歩は本棚に譜面を戻した。それでも、もう一度その背表紙に触れる。


「ショパンは凄いな。こんな曲を作曲して、それで弾けるんだから」

「そりゃ、ショパンはプロだからな」


 見上げた先には、店の店主のお爺さんが立っていた。はたきを自分の肩でトントンと叩きながら、歩を見下ろしている。


「ごめんなさい、立ち読みして」

「何、構わんよ。ところで、ピアノが好きなのか?」

「いえ。ピアノなんて弾けませんから……」

「ほう。じゃあショパンが好きなのか」


 その言葉を聞き、歩は俯きながら頷いた。店主は何度か頷くと、ショパンの楽譜を手に取った。


「だったら、弾いてみたらいい。なんでもそうだが、練習しなければ弾けないからね」

「……でも、ピアノを習うお金も、楽譜を買うお金もないんです。ごめんなさい」


 しょぼくれた歩を見下ろしていた店主は、何度か頷くとある提案をした。


「だったら、うちで少し働かないか」

「えっ」

「なに、ちょっと手伝ってくれたらいいんだ。最近腰が痛くてね、本を運ぶのに一苦労だったんだ。学校には連絡して説得してみるから、どうだい」

「で、でも……」


 歩は考え込んだが、すぐに頷き返していた。店主は嬉しそうに何度も頷いた。


「しかし、楽譜を買える金額はやれるが、ピアノを買うお金はさすがに渡せないぞ」

「それはわかってます。高価ですから。……学校のピアノを借りてみます」

「そうか、それならいいが」


 店主のお爺さんは嬉しそうに、その場で中学校へ電話をかけていた。店主の説明を聞いた学校側の回答は、なんとOKだった。それから歩は学校を終えると本屋へ向かった。本の移動を担当し、掃除もした。楽譜を買うお金はすぐに貯まった。


 給料日に手渡された楽譜と、自分で稼いだお金を受け取ると、何とも言えない高揚感に浸れた。それでも、魔法のピアノを弾いたときに比べれば大したことはない。


 店主は何度も感謝の言葉を述べると、もっと続けてほしいの願い出た。しかし、その願いを歩は大いに悩んだ末に断ったのだ。理由は一つしかない。


「放課後に学校のピアノを借りることになりました。だから、手伝いは出来ません。ごめんなさい」

「そうか、そうか。いやいいんだよ。またいつでも楽譜を買いにおいで」

「はい。ありがとうございました」


 歩は楽譜を手に帰宅すると、オーディオのCDをかけた。もちろん曲はショパンの『雨だれ』だ。

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