第3話 波紋


 「ねえ、今週の土曜日、空いてる?」


 その声はやけに静かで、けれど妙に耳に残った。

 聞き間違いかと思った。でも、目の前の白河紬はまっすぐこちらを見ていた。冗談でも、からかいでもない、あの真っ直ぐな目で。


 ……なんで、俺にそんなことを聞くんだ。


 「……空いてるけど。なんで?」


 自分でも、間の抜けた返しだと思った。だけど、うまく頭が働かない。突然すぎる“お誘い”に、言葉を選ぶ余裕なんてなかった。


 「実はね、前にその本を原作にした映画のチケット、うっかり二枚買っちゃって。ひとりで行くのも変だから、よかったら一緒にどうかなって」


 ――なんだ、それは。


 そんな都合のいい偶然があるのか?

 チケットを“うっかり”二枚?本当に?

 いろいろな疑念が頭をかすめたが、目の前の彼女の表情には、わずかな作為すら見当たらなかった。ただ、少し照れているような、少し期待しているような、そんな顔だった。


 それが逆に、怖かった。

 自分が今、誰と話しているのかを思い出す。白河紬。学園で一番目立つ存在。

 近づけば噂になる。関われば注目される。それは、俺の避けてきた世界そのものだった。


 「……あのさ。俺と話すと、変な噂とか立つと思うんだけど」


 つい、口に出た。本音だった。

 それは拒絶ではなく、確認。俺を選ぶ理由があるのか、知りたかった。


 「うん、知ってる。でも、そんなのどうでもいいかな。少なくとも、私はね」


 あっけらかんとした言い方。でも、妙に引っかかった。“少なくとも”――?

 じゃあ、“他の誰か”にとっては気になるってことか?

 自分で言っておいて、彼女の言葉の裏を探る自分がいた。


 白河紬は、完璧な人間だと思っていた。いつも凛としていて、誰にも媚びない、距離のある美しさ。

 でも今目の前にいる彼女は、そんな仮面を外して、俺だけに素顔を見せているように見えた。

 ……本当に、そうなのか?

 それとも俺が、そう“思いたい”だけなのか?


 「……わかった。行くよ、その映画」


 口が勝手に動いた。頭ではまだ迷っていた。でも、彼女の目を見たとき、嘘をつきたくなかった。


 その瞬間、彼女はふっと笑った。肩の力が抜けたように、自然な、優しい笑顔だった。

 たぶん、それが――初めて見た、白河紬の“素の顔”だった。


 「今週の土曜日、映画楽しみね」


 その一言が、やけに静かに、胸の奥に残った。

 ただの映画の約束なのに、まるで何か、もっと大きな出来事の“始まり”みたいな気がした。


 彼女の背中を見送りながら、ふと自分の鼓動が少しだけ速くなっていることに気づいた。

 そんな自分が、少しだけ――怖かった。


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