第6話
六章
北坂と約束した夜。
時間には厳しい北坂が中々姿を現さなかった。
腕時計が刻んでいく時間がもどかしい。
十五分、三十分、四十五分……一時間経ったところで俺は席を立った。
何かあったのかも知れない。
それは殆ど直感だった。
脱いでいたジャケットに腕を通して北坂の家に向かう。
ドンドンと戸を叩いても反応はない。
家には居ない?
じゃあ何処へ?
また上司の付き合いで燕にでも居るのだろうか?
いやしかしそれなら金糸雀のマスターに一言添えるくらいはするだろう。
「北坂……」
それともまだ仕事をしているのか。
不測の残業。それなら良い。
詰所に行ったら北坂が残業しているかどうか教えてくれるだろうか?
そう思って海軍基地へと早足に赴いた。
門兵に友人がまだ基地内に居るかを知りたい。
そう云えば、不審な顔をしつつも調べに行ってくれた。
「北坂大尉はもうお帰りとのことです」
「…………」
そうですか、と唸ってその場を後にする。
北坂は一体何処へ……?
親指の爪を噛みながら当てもなくその辺をふらふらする。
海軍基地から埠頭へ出て足が向いたのは鵺界隈。
もしかしたら金糸雀に戻ったら北坂が居るかも知れない。
そう思って埠頭から金糸雀まで近道をしようとして鵺に立ち入った。
しかし本来なら鵺界隈は余り立ち入りたくない場所だった。
単純に云って、治安が悪いのだ。
俺だって女癖は悪いし、少し前までは平気で女を殴ったりもしていたけれど、度合いが俺の比ではない。何なら死ぬまで暴行を加えるなんてのもザラだと聞く。
なるべく目立たないように早足で小道を抜けて行る最中、細い十字路の右手側の小道奥から罵声が聞こえてきた。
「ったく手間取らせんじゃねぇよクソ餓鬼が!」
「……こんなことして、タダで済むと思うなよ…っ…!」
口答えする声に、聞き覚え。
「ふぅん、どうタダで済まないのか知りたいねぇ、海軍将校様?」
「北、坂……?」
口答えした声と、口汚い男が発した「海軍将校」という言葉で憶測が確信に変わる。
ドンッと鈍い音。
続いてドスドスと肉を叩く音がした。
路地の奥は暗くてよく見えないが、恐らく北坂が殴られでもしているのだろう。
「……っは、そろそろ体には効いてきただろ?」
パンパンと手を打ち払う音。
「お前が寝てる間に筋弛緩剤を飲ませておいたからな」
「そん、なもの……どうやって……っ」
「なに、闇医者にちょいと金積みゃすぐ手に入るさ」
まぁ混じり物はあるだろうけどな。
下卑た笑い声は耳障り。
「女みてぇな面して凄んでも可愛いだけだぜ、お嬢ちゃん」
「っ、俺は男だ……!」
「判ってるよ。だからこっからが愉しいんだろ?」
愉しい……? 何が……?
まだ姿を見せるのに決定打が少なくてただ息を潜める。
「股の緩い女を抱くより、潔癖な男の自尊心を壊す方がよっぽど興奮するってモンだ」
大きく笑う男に怒りが込み上げた。
つまりは、北坂を犯そうとしているのだろう。
そんなこと、許せるものか。
ザッ、と地面を蹴ってこちらに背を向けていた大きな影に体当たりする。
「うぉっ、」
「何だてめぇは!」
「邪魔すんじゃねぇぞ餓鬼!」
飛んできた罵声の数からその場に居るのは三人の男だと推定。
「と……っ、」
北坂が俺の名前を呼ぶのをやめたのは、多分俺のことを認識させない為だろう。
三人ならちょろい。これでも合気道は帯持ちだ。
薄闇の中で見下ろした北坂は両手足を縄で縛られ、顔は傷だらけ。着ているものもよれよれになっていた。
ふつふつと込み上げた怒り。
「何してくれてんだ」
「ぁあ?」
「人のモンに何してんだって云ってんだ、よ!」
ガツッと一人の顎を蹴り上げてやる。
次に飛び掛かって来た男は拳で。
北坂に罵声を浴びせていた男は革靴と拳の餌食にしてやった。
地面に蹲った三者を冷ややかに見下ろし、もう一発ずつ食らわす。
一人はもう一発、もう一人はあと二発食らわせたら伸びた。
誰かの歯が地面に転がる。
北坂に罵声を浴びせていた主犯格が起き上がろうとするのを革靴で踏み潰した。
腹を踏み付け、頭を地面に擦り付けてグリグリと足底を捩った。
「これでもまだ続けるつもり?」
「調子こいてんじゃねぇぞ、餓鬼が……!」
「調子に乗ってんのはどっちだよ」
この状況でもまだ優位に立ってると思ってんの?
お前の頭は飾り物か?
挑発するだけ挑発して、逆上するのを待つ。
そうしたら正当防衛になる。
案の定、男の手が俺の足首に絡み付いた。
「殺してやる」
「出来るならしてみろよ」
くつくつと喉を鳴らして足に絡んだ手を振り払い、もう片方の足先で横っ腹を強かに叩いてやった。
うぐ、と呻いた男。
あぁ、そろそろ焦点がおかしくなってきたな。あと数発食らわせれば死ぬかも知れない。この界隈で悪事を働く人間にならそうしてやったって良い気がした。
肩を揺らしてもうひと蹴り顔に食らわそうとしたら、今度はハッキリと名前を呼ばれた。
「春宮! もう止せ!」
ゆるり、振り向いて北坂を見下ろす。
「……何で?」
「何でも、だ」
「北坂死んでたかも知れないんだよ?」
「でも生きてる」
もうこれ以上其奴らに関わるな、と諭され、俺は納得がいかないまま男から離れた。
伸びている男の懐から小刀を抜き取り北坂の縄を切り解く。
手首には痛々しい縄の痕と鬱血。
「……立てる?」
「……ちょっと、厳しいかな」
へらりと笑う北坂の神経が判らなかった。
「……そ」
じゃあと北坂を背負った。
無言で北坂の家を目指す。
北坂も何も云わなかった。
家の前で一度北坂を下ろして、体を支えながら鍵を出させた。玄関の鍵を開けて、靴を脱がせたら今度は北坂を横抱きにして家の中に上がり込んだ。
茶の間に北坂を寝かせて頭の下に座布団を差し入れ勝手知ったる何とやら、グラスに水を汲んで北坂に飲ませる。
頼りない手からグラスを取り上げ円卓に置き、俺は胡座をかいて北坂を見下ろした。
「何で止めたの」
低い声で問うたら、正義感溢れる眼差しが俺を射た。
「人殺しは犯罪だ」
お前を犯罪者にする訳にはいかない、だなんて。
そんなの俺にとっては今更だ……。
「でもあのままじゃ北坂が殺されてた」
「そんなヤワじゃねぇよ……」
大体、いつから俺はお前の物になったんだ?
強がる訳でもなく鼻で笑う北坂に腹が立った。
縛られて、蹴られて、殴られて、薬なんて盛られて、そのまま犯されそうになっておいて。
何でそんな風に笑えるんだ。
「北坂」
ぐい、と両手首を頭の上に拘束して冷ややかな視線を落とす。
「本当は、嫌じゃなかったんじゃない……?」
「……は?」
「本当はヤラレても良いって思ってた?」
「何馬鹿なこと云……っん!」
北坂の台詞も半ばで奪った唇。
口腔を荒らし回って下唇に噛み付く。
「とー、ぐ……っ!」
「知らない男に嬲られるぐらいなら、知ってる奴に優しくされた方が良くない?」
大丈夫。たっぷり悦い思いさせてあげるから。
ぺろりと唇を舐めてまた北坂の口に噛み付いた。
他の人間に穢されるくらいなら、俺が穢してやりたかった。
こんな気持ちは初めてで、理性ではどうして、と戸惑ったけれど、そんなことよりも今は北坂を俺のものにしたいという本能が俺を突き動かした。
シャツの前を引き裂くように肌蹴させ、胸の飾りに舌を這わせながら空いている手で下肢をまさぐる。
ベルトを外して前を寛がせ、何の衒いもなく芯に触れた。
「っ、と、ぐ……っ!」
潜めた声と力のこもる手首にくくっと喉が鳴る。
「そんな風に抵抗しても無駄だよ」
か弱い抵抗は逆に嗜虐心を煽るだけだ。
「どうせ薬が効いててどうにもならないんだったら、気持ち良いことしてた方が良いでしょ?」
俺が浮かべた笑みはとびきり甘いものだった。
北坂が飲まされた薬は今の俺にとって大層都合の良いものだった。
碌々抵抗出来ない体を暴いて中を穿って欲を発散する。
北坂の中は女とはまた違う柔らかさで俺を包んで虜にした。
征服欲、独占欲が満たされていく。
こんな行為が気持ち良いと素直に感じたのはいつ振りか。
もしかしたら初めてかも知れなかった。
本能のまま腰を揺らして、無抵抗な体を貪って。
何度も何度も唇を合わせた。
ふわり、鼻を擽った白檀の香り。
俺が付けている香水の匂いはきっと北坂好みじゃないだろうな、なんて何とは無しに思う。
一度じゃ足りなくて。二度目で更に火がついて。三度交わって漸く体を離した。
始終、北坂は歯を噛み締めて声を押し殺していた。
柔な場所から出るのは名残惜しかったけれど、ずっと繋がったままでもいられない。
双方の後始末をして襖を背にずるりと座り込んだら、それまで少しも動かなかった北坂がゆるりと起き上がった。覚束ない足取りで俺の前までやってきたかと思えば、ぐいと襟首を掴まれた。
「何、北坂」
未だ調子が戻らない北坂の手は微かに震えている。
それは薬の所為だと、そう思ったのに。
「お前は……っ、何人の人間を裏切れば済むんだ……っ!」
浴びせ掛けられた罵声に、北坂の手が震えているのは怒気の所為なのだと知る。
「っまえ、は! すゞ音にもこんなことをしていたのかっ?」
懐かしい名前を他人の口から聞いて、目をしばたたく。
「は……? 何でお前の口からすゞ音の名前が出てくるんだよ……」
何故? それは純粋な疑問。
北坂にすゞ音の話をした覚えはない。
どうして、と。その問いに北坂は簡単に答えてくれた。
「すゞ音は俺の年の離れた従姉妹だ」
低い声に、息を飲む。
「……っ!」
そう、か。やっと判った。北坂に感じる既視感が。
北坂の顔立ちは確かにすゞ音に似ている。
北坂の真っ直ぐな眼差しは、すゞ音のそれと酷く似ていた。
「すゞ音を殺したのはお前だ、って、今確信した」
「……」
「青酸カリで自殺なんておかしいと思ってたんだ」
「証拠は……」
震える声で問うたら、北坂は懐から一冊の手帖を取り出した。
その間から一枚の写真を俺に突き付ける。
それは、すゞ音が死ぬひと月程前に祖父に命じられて撮った写真だった。
その写真のすゞ音は、俺が選んでやった萌黄色の小袖姿。
俺の笑顔は嘘ものだったけれど、すゞ音の笑顔は……。
「政略結婚なんて反対だったんだ。幸せになんかなれないって……けど、すゞ音はこの写真を俺に送ってきた時、本心から、お前のことを愛せるようになったと……そう、書いてあって……」
今度は北坂の声が震える番だった。
「お前らの間に何があったかなんて知らない。でもすゞ音は確かにお前を愛していて……けどその純粋さを、穢したのはお前なんだろうって、今判った……っ」
「きたさ、」
頬に伸ばそうとした手は途中で打ち払われる。
「お前なんかにやるくらいなら……っ、俺がもらってやるべきだった……!」
わたしはおにいさまのおよめさんになるわ!
幼い頃からずっと、そう云っていたんだ、と小さく叫ぶ北坂。
呼吸音も許さぬような沈黙。
「お前は……っ、すゞ音の想いを踏みにじったんだ……!」
不意に横に凪いできた腕。
ガッ、と頬を拳で打たれた。
「金輪際関わるな。俺にも、すゞ音の墓にも」
出て行け。地響きのような低音が俺の足を引っ張った。
無言の圧に背を押され、追い出された北坂の家。
「…………」
言葉が次げなかった。
まさかすゞ音と北坂に縁があっただなんて。
あの写真を持っていたということは……手紙を受け取っていたということは……。
俺との関わりの中で少なくとも俺がすゞ音の婚約者だったということは知れていた筈。
じゃあ北坂が俺を受け入れていた理由は何だ?
報復の為の情報収集か何かか?
しかしそんな兆しは欠片もなかった。
何故俺との時間を共にしたのか。
北坂の真意が判らない。
だけどこれだけはハッキリした。
俺は北坂に見限られたのだ、と。
原因は、俺なのだけれど……。
いつだってそうだ。
失くす時はいつだってそう。
薄氷を俺が叩いて割ってしまって。
散った欠片は足元で溶けて元には戻らない。
帰ってこない、人、人、人。
間違いに気付いた時にはもう遅くて。
もう少しああしていれば、とか。
もう少しこうしていれば、とか。
そんなことを刹那だけでも考えてしまう自分が嫌だ。
壊すだけ壊すんなら、もしも、のことなど考えられなければ良いのに。
北坂に絶縁を云い放たれた俺は、ほぼ放心状態のまま家に帰った。
✳︎〜✳︎〜✳︎
怒鳴り、追い出して畳に寝そべった。
体の奥深くに残る生々しい感触に吐き気がする。
だと云うのに、唇に残る体温に嫌悪感は少ない。
許せないことをされた。
許せないことを知った。
だけど、事実は既に予測出来ていた。
だから、知ったところで今更でもあった。
ただ、確たる証拠が欲しくて問い詰めただけ。
予測出来ていたとは云え、それでも憎くて憎くて仕方ない。
それなのに……それだというのに、だ。
ギリ、と奥歯を噛み締める。
信じられない。信じたくない。
だけど、認めざるを得ない現状。
幾ら薬が効いていたとはいえ、抵抗しようと思えば抵抗出来た筈なのだ。
それでもそうせず結果的に身を委ねてしまったのは。
彼の蹂躙を受け入れてしまったのは……。
「いつの間にか好きになってしまったから……だなんて……」
馬鹿馬鹿しいことこの上ないのに。
自分の気持ちを否定する自分を、もう一人の自分が嘲笑った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます