第5話

 五章

 

 ふと目を覚ましたら頭と上半身が酷く痛かった。肘をついてこめかみを揉んで、あぁテーブルで寝ていたから体が痛いのかと合点する。

「起きられましたか?」  

 上品な声に誘われるようカウンターテーブルの向こうを見れば、金糸雀一条で見た覚えのある初老のバーテン。      

「俺……えっと……」 

 どうしてここに居るんだっけ。

 一人で此処には来て……ない、よな……?

「お連れ様は先にお帰りになられましたよ」

「連れ……あ、そうだ、北坂……」     

 ガバッと体を起こしたらトサッと足元に何かが落ちた。

 手を伸ばせば、北坂が着ていたジャケット。

「…………」      

「先程までのお代は頂いておりますが、何か飲まれますか?」

「……いえ、今日は失礼します」  

 お世話をお掛けしましたと頭を下げて店を出る。

 東の空が白み始めていた。

「ジャケット……どーしろってんだよ……」

 何となく鼻先に寄せたジャケットからは仄かに白檀の香りがした。         

 勝手に探るのも……と思ったが、何か返す手立てがないかとポケットを漁ったら、内ポケットに一枚の紙。

「住所……」      

 これはわざとか偶然か。

「偶然……にしては出来過ぎてる気がするけど……」

 無言で来いと云われているのだろうか。

 そうだとしても素直に赴くのは何だか癪だ……が、ジャケットだけでも世話になったまま次いつ会えるか判らないのも座りが悪い。

「海軍て何時に仕事終わんの……」     

 はぁ、と零した溜息は重たい。

 取り敢えず夜八時には私服で歓楽街に赴けるのだから、定時に上がっていれば少なく見積もっても七時くらいには家に居るのではないか。

 そうと踏んで、俺はジャケットを借りたその日の夜に早速一枚紙に書いてあった住所を訪ねた。

「ここ、だな」

 一軒の平屋の前。

 『北坂』という表札を確かめてからその木枠の引き戸を叩く。

「はい」

 聞き慣れた声と共にガラガラと引き戸が開く。

「北坂」

「ん、春宮?」

 見上げてきた金茶色にジャケットを差し出す。

「何だ、すぐじゃなくて良かったのに」

 ジャケットを受け取りながら瞬く北坂に、借りは早く返したい性質だからと踵を返す。

「ありがと。じゃあね」  

「あ、待てよ」        

「何?」        

 肩越しに振り返ったら、北坂は柔らかく笑んで俺を手招いた。

「飯、まだだったら食っていかないか?」 

「…………」       

 ここで何故要らないと云えなかったのだろう。

「……じゃあ」    

 ご相伴に預かる、と。俺はまた踵を返した。

 北坂の家は小さな平屋だった。

 洋風造りな俺の家とは違って純和風。

 茶の間の丸い卓に米と焼き魚と味噌汁にお新香を並べてから、北坂はとてとてと奥の間に行って小さな飯碗と茶碗を新しいものに変えて仏壇に供えた。

 手を合わせること十秒くらい。パッと顔を上げて北坂が円卓につく。

「はい、じゃあいただきます」

「え、と……いただき、ます」

 白米には麦が入っていたし、魚も少し痩せていた。味噌汁の具も大根だけで、正直に云ってウチの飯の方が豪華だ。

 だけど、普段特別美味いとも思わなかった食事が今夜はどうしてか美味いと思った。 

「……北坂、あれ、」   

「ん? あぁ、両親」

 俺が顔を向けたから判ったのだろう、すぐに返ってきた答え。  

「居ないの?」

「あぁ、親父は俺が中等部の時に転覆事故に遭って行方不明。そっからお袋は外国人だって差別されながらも女手ひとつで俺を育ててくれて、俺がいざ海軍兵に、って時に気が緩んだのかな。過労で死んだ」

「……そう、なんだ……」 

 聞いてはいけなかったことを聞いてしまった気がする……という思いが顔に出たのだろう。北坂は大きく笑って「気にすんな」と麦飯を頬張った。 

「別に、珍しいことでもないだろ。両親が居ないなんて」

「そうだね……ウチもそうだし……」       

 呟いたら、北坂が目を瞠った。

「は、そうなの?」    

「そうだよ。父親は物心ついた時にはもう居なかったし、母親は……小等部の頃に……」

 俺の目の前で自殺した、とはほんの小声で。

「そっか……」      

「うん……」

 折角北坂が場を明るくしてくれたのに、暗くなるようなことを云って悪かったな、と少し俯けた頭を上げた時、北坂は形容し難いーーただひたすら柔らかなーー表情で俺を見ていた。

「俺よりしんどいじゃん」 

「そんなに変わんないよ……」 

「じゃあお互い様ってことで」

 こんなんでしみったれてたらそれこそ親父とお袋に怒られる。

 わざとらしく戯けて見せて、北坂は痩せた魚をほぐした。

「飯だけじゃ物足りないだろ」

 そう云って北坂は切子グラス一杯だけ日本酒を注いでくれた。

「俺、あんま日本酒飲んだことないな……」  

「社交喫茶に日本酒やら焼酎なんてそうそう置いてないしな」

 くすくすと笑いながら切子グラスを傾ける。

「俺は本当はどっちかっつーと洋酒よりコッチ派」

「へぇ……って、これ結構度数強くないっ?」  

「二日酔いだからそう感じるんじゃねぇの?」

 肩を揺らす北坂に微かな悪意を感じた。

「お前さ、あーゆー飲み方は良くないと思うぞ」

「云われなくても判ってるよ」

 昨日の俺はどうかしてたんだ。

 反省の色を見せれば、北坂は「判ってるなら良い」と頷いた。

「お前、親が居ないってことは一人暮らし?」 

「ん……祖父母の家の離れに住んでる」 

 そう。母屋に戻ることも可とされていたが、俺は何となく戻りづらくてずっと離れに一人だ。それに、一人の方が夜出入りをしやすくて良いというのもある。

「飯どうしてんの」  

「大体外食」    

「金は」     

「食費が掛からない分祖母から貰ってる」

「……お前、もしかして結構良いとこ育ち……?」

「良いとこか知らないけど、祖父は実業家」 

「親父さん居ねぇんだったら跡取りだろ? それこそあんな遊び方してる場合じゃなくないか?」

「そーゆーの、嫌いなんだよね。好きで跡取りになったんじゃないのに」      

「……そうか、そうだよな、悪い」

 素直に謝られて逆にこっちが困る。

「別に気にしてないよ。今更だから」

 そう付け足して、俺は辛口の日本酒を呷った。

「気が向いたらまた来いよ。粗末な飯でも良けりゃ作ってやるから」

 帰り際にそう云われて、じゃあと笑う。

「じゃあ、ひとつ注文つけても良い?」

「作れるもんなら」

「甘い卵焼きが食べたい」

 それは、母親がよく作ってくれた和風寄りのおかずだった。

「なに、甘いのなの?」 

「そう、甘い卵焼き」  

「砂糖持ってきてくれたら作ってやるよ」  

 砂糖は安くねぇからな。

 歯を見せて笑った北坂に、じゃあ今度持ってくるから作ってねと子供じみた約束を取り付けて、俺は北坂の家を後にした。

 それからというもの、俺はちょくちょく北坂の家に訪れるようになった。

 何でか判らないけれど、それまで病的なまでに繰り返してきた女遊びに対して興味が薄れたのだ。いい加減そろそろ飽きてきたのかも知れない。また、北坂の傍に居ると気持ちが落ち着いたというのもある。

 まぁ、夜中に嫌な夢を見て起きた時のむしゃくしゃを晴らすのは相変わらず阿婆擦れ女を相手にしたけど。

 友人たちと酒を楽しみ、適当な酒の場でだけ女と戯れて。

 週に一度か、二週に一度は北坂の家に行くことが多くなった。帰りは大体六時半頃だから、と教えてもらった情報を元に六時半頃北坂の家の前で待ち伏せて、「また来たのかよ」なんて苦笑に悪戯っぽく笑って俺は北坂の家に上がり込んだ。

「北坂これ」

 差し出したのは砂糖と鶏卵。

「お前、本当に卵焼き食いてぇのな」  

「そうだって最初から云ってるじゃん」 

「別に作るのは構わないけど、失敗しても怒るなよ?」

「失敗しないって信じてる」 

「うわ、その確証のない圧。しんどい」

 あからさまに嫌な顔をしつつも、北坂は器用に卵を割り四角いフライパンを使って少し焦げ目のついた卵焼きを拵えてくれた。

「はい、どーぞ」  

 麦飯と味噌汁と一緒に出された卵焼き。

 柔らかく焼かれた一切れは箸で掴むと不安定に揺れた。

「いただきます」     

 ぱくり、口に入れた瞬間に広がった卵のコクと砂糖の甘さが絶妙で俺は思わず相好を崩した。

「凄い、北坂、うまい!」 

「自信ねーけど……ん、あー、まあまあいけるな」

 行儀悪く指で摘んだ卵焼きを頬張る北坂も満更ではない様子。

 懐かしい甘さだった。

 脳裏を、良い思い出だけが駆け巡った。

 久々の多幸感に胸がいっぱいになる。

「気に入った?」    

「すっごく美味しい」  

「じゃあ残り全部食って良いよ」 

「え、でも北坂はおかず……」

「卵、一個余ったから卵かけご飯にする」

 それだって贅沢だし、そもそも卵持って来たのお前だろ。だから気にせず食えと云われ、じゃあお言葉に甘えてと残りに箸をつけた。

   

「最近女遊びしてねーの?」 

 久々に北坂と飲みに出て、そんなことを問われた。

「してない訳じゃないよ。ただ数は減ったけど」

 前みたいに女に恨まれて刺されそうになることはないと、もう一年も経ちそうな出来事を振り返れば、そうかと北坂は苦笑した。

「何か、何だろ……北坂とちょこちょこ会うようになって、夢見る回数も減ったし……」 

「嫌な夢、ってやつか」

 憂さ晴らしする必要が減ったのかな。

 カラン、とロックアイスをグラスに当てて高い音を鳴らす。

「云いたくなかったら、全然良いんだけど……」

「うん?」 

「お前、前に紅と萌黄色が嫌だって、云ってたよな……」

「云った、かな?」  

「その紅って、」 

 北坂が聞きたいことを察してふふと笑う。

「母親が俺の目の前で頸動脈切った色」

 何でもないように云ったのに、北坂は顔を渋らせた。

「ねぇ北坂」  

「なに……」 

「どうして俺の女癖が悪くなったか、教えてあげようか」

「…………」    

 その沈黙は、出来れば聞きたくないという色を漂わせていたけれど、俺は敢えて真実を告げた。

「俺、母親に強姦されてたんだ」 

「……なっ、」 

「母親の感触を忘れたくて、覚えてしまった快楽を求めて、俺は色んな女を抱いた。それが始まり」

 くだらない戯曲のような話でしょ? と笑って見せたら、北坂はまるで自分のことのように衝撃を受けた顔をするものだから、何だかおかしかった。

「母親は父親のことを愛し過ぎて狂った。俺はその一途な部分は継げなかったのに、狂気の部分だけ引き継いじゃったんだよね、きっと」

 からからと笑う俺の手に、そっと重なってきた北坂の手。

「それは、笑えないな」 

「どうしてさ?」  

「だって、春宮の顔、全然笑ってない」

「…………」

 そんなことないよ。そう云いたいのに、何故か云えなくて。

 俺はそっぽを向いてグラスを傾けた。

「……突っ込んだついでに訊くけど……」

 萌黄色は何だ?

 北坂のその問いに答えるのは酷く難しかった。

 婚約者であり妻になった女に俺が見立ててやった小袖の色だ、と。ただそれだけを云えば良いだけなのに。

「昔の女が着てた服の色……」

 真実ではないけれど、嘘ではない台詞を口にして、俺は溜息を吐いた。

 細く長く息を吐く俺の横で、北坂は何やら難しい顔。

「北坂?」

「え、あぁ、何でもない」

 軽く頭を左右に振って、北坂はグラスの中身を干した。

「今日はもう帰る」 

「え、まだ二杯しか飲んでないじゃん」

「明日早いの思い出したんだよ」

 学生も学生らしく朝から勉学に励めと後頭部を小突かれて、唇を尖らせる。

 席を立った北坂に倣って俺も席を立ち店を出た。

「じゃあな」

「ねぇ北坂、また」

「また?」

「次の約束」

「……いつもみたいに気紛れで良いんじゃね?」

 何となく、それじゃあ駄目な気がした。

 俺の過去を知って、距離を取られるのが怖かったのかも知れない。

「来週の週末」

「金糸雀で?」

「夜八時丁度」

「……判った」

 頷いて、北坂は俺に背を向けた。

      

      


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