第3話

 三章

 

 不愉快な思いをした日からひと月。

 いつものように社交喫茶で友人たちと女を侍らせていたら、やたらと羽振りの良い声が向こうの方から聞こえてきた。

 何だなんだ、と声がした方を気にするのは俺たちみたいな学生ばかり。

 大人たちは我関せずと酒に女にと溺れていた。

「どっかのお偉いさん?」

「高ぇ酒ボトルで入れてたみたいだしそーじゃね?」

「女取られんのは癪だな」

「別に今日一日ぐらい譲ったっていーだろ」

 最後の一言が俺の台詞。

 金持ち爺のお遊びに飽きたらどうせ俺らのとこに来るって。

 けたけた笑いながら手洗いに立った。

 手洗い場は男性、女性用の個室がひとつずつ。

 用を足して扉を開けたら目の前に人が居てびっくりした。

「うわっ」

「あぁ、悪い近かったな」

 半歩後ずさった低音。

 視界の下半分に見えた金茶色を見て、あ……、と口が開いた。

「……?」

 訝しんで俺を見上げてきた小柄な男も同じように口を開けた。

「お前、この前の……」

「……あん時はどーも」

 まさかこんなところで出会すとは。

 見下ろした男は、あの不愉快な一件に決定打を落とした男だったのだ。

「つーか、どーぞ」

 さっと横にずれたら、いや、と視線を逸らした彼。

「別に手洗いに用がある訳じゃないんだ」

「は……?」

「ただ、女の香水がキツくて逃げてきただけだから」

 そう云って彼は口許を軽く握った拳で隠した。

「何しに来たのアンタ」

「上官の付き合いだ」

「上官……?」

 普通の学生なら年上を先輩と呼ぶだろうに。敢えてなのか無意識なのか、上官、と呼んだ彼は……。

「アンタもしかして警察関係……」

「正しくは軍属だ」

「軍……」

「海軍の少佐がご来店だ」

 ヒュウ、と思わず口笛。

 成る程。海軍ともあろう方(嫌味だ)なら先日の正義漢振りも頷けるというもの。

「……ん、海軍……?」 

 軍には高等学校を卒業していなければ所属出来ない筈。

 況してや少佐などという地位ある人間と同席出来るなんてそこそこの立場である筈だ。

「アンタ、階級は」

「大尉だ」

「何年で」

「三年で」

 ヒュウ、とまた口笛を鳴らしてしまった。

 三年で大尉。そりゃあまたエリートコース。しかも逆算したら俺より年上じゃない? これは驚いた。

「……童顔、だと思ってるだろう?」

「え、あぁ、まぁ」

「……未だに上官にだって揶揄されるんだ。他人にどうこう云われたって今更気にしない」 

 気にしない、という割には眉間に皺が寄っている。

「それより、戻らなくて良いのか?」

 顎をしゃくられ、そっちこそ、と返す。

「俺は待ち人が多かったと云えば済む」

「それは、俺だって……」

 そう云ってから、何故俺は彼との会話を繋ごうとしているんだ? と内心首を捻った。

「ねえ、女のあしらい方、教えてあげようか?」

「今そんなくだらない講義を受けている場合じゃない」

「今日じゃなくて。今度。週末とかどう」 

 何でそんな誘いを掛けたのか自分でもよく判らない。

 ただ、彼には何か俺の気を惹くものがあった。

「今後の為になると思うけど」

「……女に恨まれるような遣り方じゃなければな」

「ちゃんと穏便に済ませる方法を教えてあげる」

 そこまで云う俺に彼は逡巡した後、少しだけなら付き合ってやらなくもない、などと上から目線で云うものだから。

「上官の前でスマートに女をあしらうってのも処世術だと思うけど?」  

 今度は嫌味ったらしく云ってやれば、彼は眦を上げて憮然と云い放った。

「土曜の夜八時に」

「了解」

 彼と再び会えることが不思議と楽しみで。

 俺はじゃあと友人たちの元に戻った。

「……何で約束したんだ、俺は……」

 さっさと友人たちの元に向かった俺だったから。

 彼が不可解そうにそう呟いたことは知らない。

 

 得てして週末土曜日。

 夜八時の待ち合わせに備えて七時半から社交喫茶のカウンターでブランデーを舐めていた。

 腕時計をちらちら眺めてはブランデーで舌を湿らせる。

 何だろう、この焦ったさは。

 早く来ないか、そう思うことは友人たちにも感じたことはなく、初めての感覚に脳髄が揺らいだ。

「待たせたな」

 八時ぴったり。俺の横のハイスツールに腰掛けた彼。

「バーボン。ロックで」

 すぐに提供されたロックグラスを舐める彼を見詰めて、思わず口にしたのは天邪鬼な台詞。

「本当に来るとは思わなかった」

「俺は約束は違えない。急な仕事が入らなければ、な」 

 クイ、とロックグラスを傾ける仕草は酒に慣れているそれで、嗚呼本当に俺より年上なんだな……なんてどうでも良いことを考える。

「で、何を教えてくれるって?」  

「何だっけ?」

「とぼけるな。女のあしらい方を教えると云っただろう」 

 先にとぼけたのはどちらだ、という言葉は飲み込んで、あぁそうだったとブランデーを一口。

「お前のような女慣れしている奴ならさぞあしらい方は上手いんだろうな?」

「女慣れしてるなんて云ったっけ?」

「あの後お前たちの卓で少し話をした女たちがこっちに流れてきて、聞いていないこともペラペラ喋ってくれたよ」

 お前含め連んでる奴らは皆高等学校時代から馴染みの大学生で女を取っ替え引っ替えしてるけど、店内では悪い客じゃないから追い出すこともなく居座らせているって。

「そう……」  

 事実なのに、第三者にそう云われると何でか決まり悪い気持ち。

「アンタはその話信じるの?」

「当事者の意見は受け入れるのが定石だ」

 勿論お前も当事者のひとりだからな。話すことがあるなら聞かないでもない。

 またブランデーを呷ってから、ふっと表情を硬くした彼。

「但し先日の件はどうかと思うけどな」

 それは女を暴行した日のことだろう。

「だからアレは……」

「どんな理由があれど、男が女を暴行するのは良くない」

 力差ではどうしたって女が劣る。

 優越を覚えたいのなら別の遣り方があるだろう。違うか?

 真っ直ぐな視線が痛かった。同時に煩わしいとも思った。嗚呼俺は何故コイツを誘ってしまったのだろう?

「まぁ、過ぎたこと云っても仕方ないだろ。今後は気を付けるよ」

 彼の苦言を跳ね除けるようひらひらと手を振って酒を呷る。

「それより本題に移ろうか」

 ふっと笑ってホールを見渡す。

 すると一人の女と目が合った。

 しなやかな所作でこちらへ歩いてくる女の化粧は濃い。

「お兄さんたち、お邪魔しても良いかしらん?」 

 猫撫で声に、良いよと真ん中をすこし空けてやる。

「今夜この後の予定はあるの?」

 即物的な女が捕まったな、と思いながら、うーんと小さく唸って見せる。

「二人で大事な話があってさ」

「それって今日じゃなきゃ駄目なの?」 

「そうだね。ちょっと今日は外せないかな」

 肩を竦め、その代わりにと彼女が持っていたもう空のグラスを取り上げる。

「一杯奢らせて?」

「ふふ、それなら許してあげる」

 ころころと笑って、女は「ホワイトローズを」とバーカウンターの向こうに投げた。

「へぇ、お酒強いんだ」

「程々にね」

「酒を綺麗に飲める女は好きだな」

 今度会った時は相手にしてよ。

 男に聞こえる程度の音量で囁き、女がカクテルを飲み干すのを待って、じゃあまたと適当な社交辞令で追い払った。 

「こんな感じ」

 女がすっかり遠くに行ってしまってから、カツンとロックグラスを鳴らしてやる。

「まったく参考にならない」

 堅い表情の彼にはたったこれだけでも刺激が強かったのだろうか?

「大体またって云ったら次があるだろう」

「また、を覚えてる女なんて少ないよ」

 男を捕まえられなくても、酒を奢られればその分の何割かはチップになる。

 そういう遣り方で稼ぐ女も居るしね。

「……こういう場の女の相手は面倒臭いな」

「慣れればそれなりに楽しいよ」 

「俺の性格には向いていなさそうだ」

「ふぅん、ま、お偉いさんに充てがわれちゃったら逃げる術もないだろうしね」 

 取り敢えず困ったら酒奢っておけば七割くらいはどうにかなるよと笑えば、七割とは微妙な割合だなと苦々しい声が返ってきた。

「……まぁ良い。酒を奢れば良いと判っただけ勉強になった。一杯奢ってやる」

「何それ、早速俺を追い払おうってこと?」

「そうは云ってないだろ」

「冗談だよ。アンタ意外と気が短いね」

 クスクスと笑って同じものを頼む。

「なぁ」

「何?」

「お前の名前、聞いてなかった」

「え? あぁ、春宮。春宮貴裕」

「春宮……」 

 名乗った瞬間、ほんの僅かに視線を逸らされたような気がした。

 しかしそんなことは瑣末ごと。

「アンタは?」

「……北坂。北坂紀久だ」

 きたさかのりひさ、とその名前を口の中で転がしてから、新しく提供されたグラスに口を付ける。

「今日ご馳走になった分、今度は俺に出させてよ」

「今夜のは勉強代だ」 

「じゃあ云い方を変えようか。海軍将校様の話が聞いてみたい」           

 茶化すように云えば、彼は渋い顔をしたから断られるかな、と思ったけれど。

「大して面白い話はないぞ」  

 そう云って、案に次も会わないでもないと匂わせてきた。

「但しこういった場では勘弁して欲しいものだな」「じゃあ純喫茶なら良い?」 

「少なくとも此処よりは」 

「なら、来週末の同じ時間に燕四条の喫茶でどう」「判った」  

 コトン、と空になったグラスをカウンターに置いて、北坂はハイスツールから降りた。

「今日はどーも」

 グラスの横に硬貨を何枚か並べた彼は、後ろ手に手をひらひらさせながらそこかしこに居る女の間をすいすいと躱して店を出て行った。

「北坂紀久、か……」

 どことない既視感は何故だろう。

 それをハッキリさせたくて次の約束を取り付けてしまった。

 何がどう引っ掛かっているのだろう?

 それが判るのはもう少し先の話。

 

 

 

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