第2話
二章
「ねぇ裕正さん、愛してるわ……」
ねっとりと絡み付く甘い声が鼓膜を揺らす。
「裕正さんも、同じでしょう?」
「…………」
「愛してるの。ずっと、ずぅっと……」
「か、」
「名前を呼んで?」
「……さ、やか……」
「そう……貴方はいつでもそう呼んでわたしの手を引いてくれたわね……」
今も昔も。甘ったれた声と一緒に細い指が頬を撫でる。
「ずっと好いていたの……小さな時から、ずっと」
「…………」
「だから、こうして貴方の腕の中に居られるのがとっても幸せ……」
「…………」
「ね……貴方も同じでしょう?」
「…………」
「わたしを抱いて。貴方のその指で、わたしを奏でて……」
脳髄を溶かすような甘い声に、吐き気がした。
✳︎〜✳︎〜✳︎
「……ちっ、」
嫌な夢を見た、と胸糞悪い気分でソファから起きる。
低い卓に置いてあった酒瓶から直接洋酒を呷って唇を袖で拭った。
網膜にちらつく女の影。
鼓膜の内側で響く甘い声。
どちらも俺の気分を最悪にするものだった。
「ここ久しく見てなかったのに……」
その夢は悪夢。
女の華奢な手に腕を引かれ組み敷かれる。
長い髪の毛がはらりと両頬を擽り、モノクロームの世界で唯一鮮やかに色付いた赤が唇に落ちてくる。
熱を育て上げられ、シーツの上に縫い止められたまま柔らかな場所へと導かれた。
あっ、あっ、と啼く高音は酷く耳障り。
耳を塞ぎたいのに縫い止められた手はそれを不可能にする。
せめて眼前の乱れた顔を見たくなくて目をぎゅっと瞑った。
高い声、濡れた音、揺れる腰。
その感覚は呪いのように過去から現在へと繋がっていて。
「元はと云えば、あの人の所為だ……」
俺を女狂いにさせたのは、俺の母親が原因なのだーー。
母親は父親を大層愛していたらしい。
それはもう、病的なまでに。
そうと知ったのは俺が十を超えた時のこと。
元々過保護だった母親の様子がおかしくなり始めた。
俺を見て、母親は俺のことをたまに裕正さん、と呼ぶようになったのだ。
父親の名前は幼い頃から母親から聞いていたから、それが誰かを問う必要はなかった。
ただ、何故俺をそう呼ぶのかまでには考えが及ばなかったが。
正気の時の母親は俺のことを父親の子供の頃そっくりだと繰り返していた。
母親の家は春宮家と古くから縁があったらしく、幼い頃から母親と父親は面識があったそうだ。
二人は兄妹のような関係から恋仲に発展し、そのまま結婚に至ったようだが、父親が早逝し、母親は少しずつ頭の中の歯車を噛み合わせ悪くしていった。
十と一年が過ぎた頃にはもうすっかり母親はおかしくなっていてーーただ、外面は至って普通だった。俺と二人の時だけおかしくなるのだーー十二になる前に、俺は母親に強姦された。
俺が初めて知った女は、母親だったのだ。
強姦されている間、口を利くことはほぼ許されなかった。
許された単語は名前と愛してるのふたつだけ。
幾度とない強姦が続いたある日、拘束に耐え兼ねて「母さん!」と叫んだのがすべての終わりだった。
ハッとした母親は俺を見下ろしたまま顔色をサッと悪くして、俺の名前を呟いた後よろよろとベッドを下りた。
そのまま戸棚の中から布に包まれた小刀を取り出すと、
「裕正さんに会いに行かなくちゃ……」
蚊の鳴くような声でそう云って、母親はそのまま頸動脈を掻き切った。
余りのことに悲鳴も出なかった。
ただ茫然と、崩れる母親と迸る血飛沫を見詰めていた。
薄暗い夜闇の中、紅だけが目に痛いくらい鮮明だった。
その後のことはよく覚えていない。気が付いたら祖父母の世話になっていた。
嗚呼、俺はすゞ音を殺したのが初めてではなかった……。
その前に、母親を殺していたではなかったか……。
人殺し、だなんて、今更だったんだ。
もう一口洋酒を呷って唇を舐める。
安酒なんか買って飲んだから嫌な夢を見たんだ。今夜はもう少し良い酒を飲みに行こう。
壁時計を見て、十時前なのを確認しホッとするような落胆するような。
大学の二限には間に合ってしまう。それは自分にとって憂鬱だったが、祖父を黙らせるには問題のない時間だった。
受かった大学に行くつもりはなかった。けれど行かなかったら何をするかと問われた時に何ひとつ案が出てこなかったから、箔付けにでもと一応進学することを決めた。
何より、大学生という身分は質の良い女を選ぶのに丁度良かった。
別に細かく女を格付けするつもりはないが、馬鹿な女よりは賢い女の方が良い。それでも馬鹿な女を捕まえてしまうことがあるのはこれもまた母親の所為だと思っている。
「かったる……」
ぼやきつつ、俺は大学へ行く用意をした。
大学では高等学校時代の友人も何人か。
其奴らと連んで放課後には街をぶらついたり社交喫茶に赴くのが常だった。
最近ではもう金を払わなくても抱いてくれと云い寄ってくる女が多かったから、適当にあれこれ手を出した。
街中で引っ掛けた女たちを友人たちと割り振って、後で合流してどうだったかを評論する。
我ながら悪趣味だなと思う。
しかしそれが楽しいのだから仕方がない。
そもそもあんな形で女を知らなければ、こんな風になっていなかったに違いない。
母親の所為で女を知り、付随する仮初めの快感を知ってしまったのだから。
その日は友人たちと散り散りになって女を引っ掛けることにした。
煉瓦塀に背を預け、腕時計をたまに気にしながら溜息を吐いていれば、すっと射した薄い影。
「お兄さん、待ちぼうけ?」
声を掛けてきたのは緑の黒髪を高く結った少し年上に見える女。
「ん、あぁ、そうみたいだ」
困ったな。わざとらしく見えないように肩を竦めて見せれば、女はじゃあと笑みを浮かべた。
「そんなに待たせる人なんか放っておいてわたしと遊ばない?」
掛かった、と内心ほくそ笑む。
「うーん、でもなぁ……」
焦らすように言葉を渋る俺の手を、女はきゅっと握ってきた。
「実はわたしも友達に約束すっぽかされちゃったの。似た者同士、お茶でもしない?」
嘘だな、と思ったけれど、ここはお互い様。
一夜の相手は決まった。
「そう、だね。これも何かの縁かな? お茶しに行こうか」
一先ずは取って置きの喫茶店にでも、と女の腰に手を回したのとほぼ同時。
「貴裕!」
「は……?」
振り返ったら、怒気を孕んだ女ーー今出会った女よりもっと年上の女だーーがつかつかと歩み寄ってきた。
「わたしのところに全然来てくれなくなったと思ったら、何よその女!」
「何もどうもないけど」
そもそもお前は誰だと問うより先に相手が名乗ってくれた。
「立花の女を捨てるつもりっ?」
あぁ、少し前に友人たちと引っ掛けた輪の中に居たお嬢か。
「そんなことしたらお父さまが黙ってなくてよ!」
「俺のことバラしたらそっちの方が困るんじゃないの?」
「ーーっ!」
長く垂らした髪の毛が逆立つんじゃないかと思う程怒気を放つ女は、胸元から懐刀を取り出した。
「うーわ、物騒……」
「やだ、ちょっと何あの人……」
「アンタなんか殺してやる!」
ありきたりな文句を吐いたかと思えば、こちらへ駆け寄ってくる女。
危ない、とさっき捕まえたばかりの女を庇おうとすれば視界からはもう消えていて。
逃がした魚は大きくないが小さくもない。
不器用に飛んできた刀を手刀で振り落とす。
「邪魔しやがって、ふざけんなよ」
手首を捻り上げて頭より上に持っていく。
「やだっ、ちょっと、痛いじゃないの!」
「煩い。身から出た錆だ、ろっ!」
パッ、と手首を離して腹を思い切り蹴っ飛ばす。
勢い良く向こう側へと崩れ落ちた女の体。
かつかつと革靴を鳴らしながら女の側に寄って頬を革靴の先で叩いてやった。
「一回寝たぐらいで俺の女面してんじゃねーよ」
長い髪の毛を引っ掴んで顔にもうひと蹴り食らわそうとしたところで、おい、と肩を掴まれた。
「あ?」
振り返った先には頭半分下に金茶色。
「女性に暴行だなんて男として恥ずかしくないのか」
くいと顎を上げた金茶髪の顔は女っぽいが、発せられている声は低い。何とはない既視感を覚えたが、それも一瞬。すっと現実に立ち戻る。
「こいつは刃物で襲って来たんだ。正当防衛だろ」
「だったら暴行などしないで駐在なり何なりに行けば良い」
面倒臭い奴に捕まった、と思った。眼下の女も、眼前の男も。
「……そんな女もうどーでも良いし。善良な市民足り得るアンタが引き受けてくれんなら俺はさっさと帰るけど」
ずるりと髪の毛を手から解いて踵を返す。
「お前、名前は」
「教える義理はない」
「顔は覚えておくからな」
「二度と会わないことを願ってるよ」
じゃあな、と俺は歩幅も大きくその場を立ち去った。
嗚呼畜生、こんな話したら友人たちの笑いものだ。
✳︎〜✳︎〜✳︎
「お嬢さん大丈夫ですか?」
「え、えぇ、えぇ」
「必要とあらばお宅までお送りしますが」
「いえ、結構ですわ……」
「そうですか。ああいう男には気を付けた方が良い。何をするか判らない」
「以後気を付けます……では」
よろりと立ち上がってさっき男が歩んで行ったのとは逆方向に歩んで行く女を見て溜息。
この辺はこんなに治安が悪かったかな……。
そう思いながら後頭部を掻く手を不意に止める。
「……あの顔……」
ふと懐に手を入れ、手帖を取り出す。間に挟んでいた写真には、
「…………まさか」
その写真には、ついさっき暴行を加えていた男とそっくりな男が笑顔を浮かべていた。
✳︎〜✳︎〜✳︎
「あーくっそ!」
余計な女の所為で新しい魚を逃した挙句変な男に絡まれてむしゃくしゃした気分の俺はいつもの社交喫茶ではなく、娼婦の居ない社交純喫茶の方に来ていた。
もう今日は女を抱く気分じゃない。
カウンターでウイスキーのロックを一息に呷ってカン、とグラスをカウンターに叩きつける。
「ん、だよあのチビ偉そうに」
頭半分背の低かった男を思い出して舌を打つ。
「正義感丸出しで気に食わねぇったらない。しかも年下っぽいし」
見た顔は小動物を思わせる幼めだった。
年嵩に見積もっても高等学校の学生だろう。
「……にしても、」
あの髪色は珍しかったな……と網膜に焼き付いた色彩を思い起こす。
夕陽を浴びて煌めいた金茶色は蜂蜜色にも見えた。
日本人らしからぬ色に外国人か? と思うが、それにしては日本語が流暢だった。
在日か、それともハーフか。
「ま、どーでもいーけど」
マスター、おかわり。
空いたグラスをカウンターの向こうに渡して、俺は新しく受け取ったウイスキーを今度はちびちびと舐めた。
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