第53話 京の雨、妙心寺にて

 ――寛永八年、霜月。

 京の町を霧雨がしっとりと覆い、寺々の瓦屋根を濡らしていた。紅葉の残り香を宿した路地には、侘び寂びの気配が漂い、時折、遠くから打つ鐘の音が耳に届く。


 その日、宮本武蔵は妙心寺の山門をくぐった。

 旅の塵をまとったままの衣。草履は泥に濡れ、竹の笠の下に隠れた面差しには、剛毅と孤独が入り混じっていた。


 ――この地には、ただの修行ではない、何かがある。


 彼はそう直感していた。

 表には現れぬ、だが、確かに感じ取れる“気”。それは剣士としての勘なのか、それとも――運命という名の悪戯だったのか。


 境内を抜けた奥座敷。静かな時が流れる。

 そのときだった。襖の向こうから、かすかに琴の音が聞こえてきた。


 ――しらべは、風のように、剣のように。

 鋭く、されど柔らかく、胸の奥を貫いてくる。


 「……草も木も おのがさだめを 知るならば 斬るを業とせし 剣も泣かん」


 細く、艶やかな声が続く。

 その声には、たしかに言葉を超えた力があった。武蔵は、その場から動けなくなっていた。


 ふと、襖が静かに開いた。

 中から現れたのは、一人の女。白い単衣に、淡い藤色の小袖。黒髪は結い上げられ、目元にどこか影を宿した女性――小野お通であった。


 「……旅のお方?」


 武蔵は頷いた。

 「偶然、立ち寄っただけです。ただ……あなたの声に、剣を忘れかけた」


 お通の眉が、わずかに動いた。

 「剣を忘れるなど、剣士としては致命では?」


 「そうかもしれん。だが、あなたの歌は……斬ることより深い」


 二人は見つめ合ったまま、しばし沈黙した。

 雨の音が、二人の間を優しく埋めていた。


 「名を――聞いても?」


 「宮本……武蔵」


 お通の瞳が、わずかに揺れた。

 「あの巌流を斃した、兵法者の?」


 武蔵は頷くでもなく、否定するでもなく、ただ静かに微笑んだ。


 「では、あなたの斬る剣と、私の紡ぐ筆――どちらがこの世に、深く残るのでしょうね」


 その夜、武蔵は寺の片隅に宿を借りた。

 筆の音、琴の調べ、そして女の和歌。それらが、剣一筋だった彼の心に、かつてない“揺らぎ”を生んでいた。


 名もない灯籠の下で、武蔵はそっと一首詠んだ。


 > しのぶれど 心は琴に さやぐなり

 > 剣の道にも 影ゆらめけり


 お通の声が、雨とともに、まだ耳に残っていた。


 

翌朝――。


 雨は上がり、霧は名残惜しげに松林の間をたゆたい、京の町には冴えた空気が満ちていた。妙心寺の境内に差し込む朝日が、まだ濡れた石畳を照らす。


 武蔵は、竹の笠を手にしながら庭の苔むした縁側に腰を下ろしていた。目を閉じると、まだ昨夜の琴の余韻が胸に広がる。


 「……まるで、夢のようだった」


 そんなつぶやきに、背後から静かな足音が近づいてくる。


 「夢のようであっても、人の心を動かすなら、それはうつつと同じこと」


 振り返ると、そこにはお通が立っていた。今日は白地に薄紅の小袖を身にまとい、手には朝露に濡れた牡丹の花を携えていた。


 「お早うございます、武蔵様」


 「お通殿……」


 言葉を選びかけた武蔵の視線を遮るように、お通は彼の隣に腰を下ろし、そっと花を置いた。


 「……あなたの詠んだ歌、昨夜、僧たちから聞きました。剣を捨て、歌を詠むなど、あなたほどの御方にしては珍しい」


 「……捨てたわけではない。ただ、剣では届かぬものがあると、初めて思った」


 お通は笑った。だがその瞳には、どこか寂しげな影があった。


 「わたくしも、かつて……ある男に、剣を捨てよと詠まれました。でも――彼は結局、剣に帰っていった。歌では、人の命は救えないと」


 「それは……」


 武蔵は口をつぐんだ。どんな言葉も、彼女の胸の傷に届かぬ気がした。


 「あなたも、いずれ行ってしまうのでしょう?」


 その問いに、武蔵は頷いた。


 「剣の道を歩む者には、立ち止まる場はない。だが……今日一日、この寺に留まることは、許されますか」


 お通の唇に、やわらかな笑みが浮かんだ。


 「ならば、今日だけは“剣”でなく、“人”としていてください」


 日が高く昇るころ、二人は庭の小亭で向かい合い、琴と剣――いや、歌と沈黙の対話を重ねた。お通は琴の音に言葉を重ね、武蔵はそれに耳を澄ませながら、心のうちに筆で刻むように、その一音一音を記憶した。


 日が暮れるころ、武蔵は再び旅装を整えた。お通が門前まで見送ると、彼はふと立ち止まり、振り返った。


 「……また、会えるだろうか」


 「この世でなければ、歌の中で。剣ではなく、詩のなかに――」


 そう言って、お通はそっと一首を詠んだ。


 > しぐれ去り 琴のしらべに 留まれど

 > 旅人の影 秋の彼方へ


 武蔵は深く頭を下げ、そのまま夕闇の中に消えていった。


 お通は、しばしその背を見つめていた。


 彼の去ったあと、庭の紅葉が風に舞い、彼女の袖に一枚だけひらりと落ちた。


 それを手に取りながら、お通はまた一首、心の中で詠んだ。


 > 剣よりも 深く胸刺す ひとひらの

 > 言の葉こそは 我が命なり



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