第42話 巌流島の逃亡者

 慶長十七年四月十三日。

 陽光降り注ぐ巌流島、通称「船島」。佐々木小次郎は、宮本武蔵との決闘の場に立っていた。

 武蔵は約束の刻限を過ぎても現れず、小次郎の苛立ちは頂点に達していた。

 沖に小舟が見え、遅れて武蔵が上陸する。その手には、櫂を削り出したと思しき木刀。

「フン、木刀でこの我に挑むか」

 小次郎は燕返しを構え、武蔵との間合いを詰める。しかし、武蔵の初太刀は、小次郎の予想を遥かに超えるものだった。長く伸びた木刀が、小次郎の額をかすめる。僅かながらも、鮮血が視界を遮った。

 その一瞬、小次郎の脳裏に走馬灯のように過去が駆け巡った。

 吉岡道場での屈辱、流派の看板を背負う重圧、そして何よりも、最強を求め続けた己の人生。

「ここで、死ぬのか……?」

 刹那の躊躇。それは、剣客としてあるまじき感情だった。

 二の太刀が振り下ろされる。小次郎は咄嗟に身を翻し、致命傷は免れた。しかし、左肩に深く木刀が食い込み、激痛が走る。

 武蔵は追撃の手を緩めない。しかし、その顔にはどこか戸惑いの色が見えた。小次郎が、倒れるはずの小次郎が、生への執着を見せたことに。

 小次郎は、満身創痍の体で海へと駆け出した。背後から武蔵の声が聞こえる。「逃げるのか、佐々木小次郎!」

 潮風が傷口に染みる。屈辱と、しかし確かに生きているという実感が、彼の心を支配した。

 彼は海に飛び込み、無我夢中で泳ぎ始めた。

 追手は来ない。武蔵は、ただ呆然と、水平線の彼方へ消えゆく小次郎の背中を見送っていた。


 生きる者、死んだ者

 それから数年後。

 佐々木小次郎は、名を捨て、姿を変え、ひっそりと九州の山奥で暮らしていた。

 かつての栄光も、最強の剣士という自負も、今はただの虚しい過去だ。

 彼は、自ら命を長らえさせたことを、後悔する日も少なくなかった。しかし、同時に、巌流島での一瞬の躊躇が、彼に新たな生を与えたことも理解していた。

 ある日、一人の旅の僧が彼の庵を訪れた。老いた僧は、武蔵の死を彼に伝えた。

「宮本武蔵は、晩年、剣を捨て、画と書に生きたと聞く。そして、その最期は、穏やかなものだったと」

 小次郎は、静かにその話を聞いていた。武蔵は、剣の道を極め、死を恐れずにその人生を全うした。

対して、自分は。

 小次郎は、そっと自分の左肩に触れた。そこには、武蔵の木刀が刻んだ傷跡が、今も生々しく残っていた。それは、彼の生きた証であり、同時に、剣の道を捨てた者の烙印でもあった。

 小次郎は、旅の僧に尋ねた。

「和尚。私は、あの時、生きることを選んでしまった。この道は、正しかったのでしょうか」

 僧は、静かに答えた。

「人は皆、それぞれの道を歩むもの。死を選ぶも生を選ぶも、その者にしか分からぬ境地がある。ただ、あなたは今、ここに生きている。それこそが、何よりも尊いことではないでしょうか」

 小次郎は、遠くの空を見上げた。そこには、巌流島の空と同じように、ただ青い空が広がっていた。

 武蔵は死んだ。剣の道を極め、そしてその道を降りた。

 小次郎は生きている。剣の道を捨て、しかし新たな生を手に入れた。

 どちらが幸せなのか、どちらが正しいのか。

そんな問いは、もはや意味をなさなかった。

小次郎は、静かに立ち上がった。

「和尚、茶でもいかがですかな」

 僧は、にこやかに頷いた。

 巌流島での一戦は、彼にとっての死であり、そして新たな生への始まりだった。

 佐々木小次郎は、もういない。

 だが、その傷跡を抱え、彼はこれからも生きていく。



 終わらない朝

 武蔵が鉗子を突き出した瞬間、白い蛇の形をした影は、まるで吸い込まれるかのように彼の体に流れ込んだ。処理者の体は急速に萎縮し、焼け爛れた顔はさらに深くえぐれる。最後は、乾いた音を立てて崩れ落ち、診療所の床に黒い灰となって散らばった。

「ぐっ……!」

 武蔵は膝をつき、呻いた。目隠しの下で、彼の額には脂汗がにじむ。その体には、蛇の影がもたらした膨大な情報と、どす黒い感情が奔流のように押し寄せ、彼の精神を揺さぶっていた。それは、まるで不特定多数の「夢」と「毒」を強制的に受け入れさせられているような感覚だった。

「これで終わりじゃない」

 セイは、冷徹な声で言った。彼女は、瓦礫と化した窓の外に目を向ける。そこには、朝日に照らされ始めた京の街並みが広がっているはずだが、セイの瞳には、さらに多くの“処理者”の影が蠢いているのが見えていた。

「あのバカがやられたってんで、仲間がわんさと集まってきやがった。まさにリンチだな」

 セイは、口元を皮肉げに歪ませた。彼女の言葉通り、遠くから複数の足音が近づいてくるのが聞こえる。窓ガラスの破片を踏みつける音、そして異様な唸り声。

 武蔵は、目隠しをしたまま顔を上げ、浅い呼吸を繰り返す。彼の右腕から、かすかに白い光が漏れ始めていた。それは、蛇の影を受け継いだことによる変化なのか、あるいは彼の内に眠っていた力が覚醒した証なのか。

「立てるか、武蔵。『夢を喰う者』の洗礼は、今からが本番だ」

 セイは、鉞を構え直した。彼女の顔には、疲労の色が浮かんでいるものの、その瞳には諦めがなかった。彼女は、武蔵の覚醒が、この終わりの見えない戦いにおいて唯一の希望であることを知っていた。

「……ああ」

 武蔵は、静かに答えた。彼の声は、まだ苦しげではあったが、その奥には確かな決意が宿っている。彼は、目隠しをしたまま立ち上がった。彼の背後から、白い蛇の形をした力が、まるで守護者のように彼の体を包み込んでいるかのように見えた。


 楓の出現

「やめなさい!」

 凛とした声が響き渡った。同時に、診療所の窓から、一本の矢が光の軌跡を描き、迫りくる処理者の一人の喉元を射抜いた。男は呻き声を上げることなく、その場に倒れ伏す。

 そこに立っていたのは、弓を携えた一人の少女だった。結い上げた黒髪には、紅葉の簪が揺れる。名は楓。まだあどけない顔立ちだが、その瞳には強い意志が宿っていた。彼女の背後には、数人の若者たちが続き、それぞれが古風な武器を構えている。

「槇村セイ、武蔵! 遅れてすみません!」

 楓は、力強い声で叫んだ。セイは、驚いたように目を見開いた。

「楓……どうしてここに? 君たちはまだ、動くべきではないと伝えたはずだが」

セイの言葉に、楓はきっぱりと答えた。

「京の街に、異変が起きているのは明らかです。夢を喰らう者が増え、人々の間に不安が広がり、まるで国内野球の空洞化のように、活気が失われつつあります。このまま座して待っていては、すべてが手遅れになる!」

 楓の言葉に、セイは眉をひそめた。国内野球の空洞化。それは、才能ある選手が次々と海外へと流出し、国内リーグの魅力が失われていく現象を指す言葉だ。楓は、今の京の状況を、夢を食い荒らされ、活力を失っていく日本社会の縮図として捉えているようだった。

「私たちは、この街を守るために立ち上がります。そして、武蔵さんが『受け継ぐ者』であるならば、私たちも共に戦います!」

 楓の言葉に呼応するように、若者たちが一斉に武器を構えた。彼らの瞳には、恐怖ではなく、確かな決意の光が宿っている。

 武蔵は、目隠しをしたまま、その気配を感じ取っていた。自分の中に流れ込んだ白い蛇の力は、彼自身の力を増幅させるだけでなく、周囲の「夢」の気配を敏感に察知する能力をも与えていた。目の前の「処理者」たちだけでなく、彼らが発する絶望や憎悪、そして楓たちが持つ希望の「夢」の光も、はっきりと感じ取れた。

「……頼む」

 武蔵は、絞り出すような声で言った。それは、助けを求める言葉ではなく、共に戦う者への信頼を込めた言葉だった。

「任せてください、武蔵さん!」

 楓は、再び弓を引き絞った。彼女の矢は、迷いなく闇を切り裂き、次々と処理者を仕留めていく。セイは、無言で鉞を振るい、楓たちの援護に回った。

夜明け前の診療所は、新たな戦いの舞台と化した。  白い蛇の力を宿した武蔵、異端の守り人であるセイ、そして希望を胸に立ち上がった若者たち。三者三様の「夢」を背負った者たちが、迫りくる闇に立ち向かう。

 楓たちが加わったことで、戦局はどのように変化するでしょうか? また、「国内野球の空洞化」という言葉が示唆する、より大きな社会的な「夢」の危機とは何なのでしょうか?

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