第40話 覚醒の予兆

 夜明け前のICUを出て、葵は病院の玄関に立っていた。ひんやりとした早朝の空気が頬を撫でる。ふと、振り返って病院を見上げた。無数の窓のどこかに、陽翔がいる。そう思うと、胸の奥がじんわりと熱くなった。

(私、おかしくなってる……)

 理性では理解できない感情が、波のように押し寄せる。疲労と、まだ覚めやらぬ興奮が入り混じり、足元がおぼつかない。その時、背後から微かな気配を感じた。振り返る間もなく、温かい手が葵の腰に回される。

「……先生」

 低く、少し掠れた声が耳元で囁かれた。陽翔だった。彼は、まだどこか幼い表情を残しながらも、その瞳には夜の闇を宿したような強い光が宿っていた。驚きに、葵の身体が硬直する。彼の体温が、薄いスクラブ越しに肌に直接触れるようだ。背中に感じる彼の胸の隆起が、予想以上に男らしいことに、葵は小さく息を呑んだ。

「どうしてここに……」

 葵の声は震え、言葉にならなかった。陽翔は彼女の耳元で、さらに囁く。

「先生の声が……聞こえたから」

 まるで、彼の内側と自分の内側が、共鳴しているかのように感じられた。彼の息が首筋にかかり、ゾクリと背筋を這い上がる。香る消毒液の匂いと、彼の微かな汗の匂いが混じり合い、抗いようのない熱が全身を駆け巡った。

 陽翔の指先が、葵のウエストラインをゆっくりと辿る。優しく、しかし確かな存在感で、彼女の身体に彼の熱が移っていく。彼の身体が、さらに密着した。

「先生……もっと……」

 陽翔の声は、まるで夢の続きのようだった。葵は、その場で身動きが取れなかった。理性では、突き放さなければならないと分かっているのに、身体は彼を受け入れている。玄関のわずかな外灯の光が、二人の影を長く引き伸ばしていた。

「……陽翔!」

 背後から、焦れたような声が響いた。振り返ると、小夜子が険しい表情で立っている。彼女の視線は、抱き合う葵と陽翔に注がれていた。

「何をしているの、陽翔。まだ安静にしなくてはならない時期でしょう」

 陽翔は、名残惜しそうに葵から身体を離した。しかし、その瞳はまだ葵を捉えて離さない。

「先生の声がしたから……」

 陽翔はそう答えると、小夜子の背後に控えていた男性研究員に腕を掴まれ、再び病院の中へと連れ戻されていく。その道すがらも、陽翔は何度も葵を振り返った。葵は、その場に立ち尽くしたまま、動けなかった。全身にまとわりつくような陽翔の熱が、まだ残っているような錯覚に陥る。

「……葵先生」

 小夜子が、葵の前にゆっくりと歩み寄る。その表情は、先ほどの焦燥感とは打って変わって、どこか満足げなものだった。

「彼の成長は、予想以上ね。特に、あなたの影響が大きいわ」

 小夜子は、葵の顔を覗き込むように言った。

「彼の中の『感覚同調』の才能が、あなたとの触れ合いによって急速に開花している。まるで……育成ドラフトで才能を見出された選手が、一軍で覚醒していくように」

 葵は、小夜子の言葉の意味を理解できなかった。  育成ドラフト? 才能?

「……どういうことですか?」

「私たちの研究は、人間の持つ隠された感覚能力を覚醒させること。陽翔は、その中でも稀有な才能を持っている。そして、あなたもね」

 小夜子は、葵の指先にそっと触れた。

「あなたと彼の間で起こっている現象は、単なる共鳴ではない。相互に影響を与え合い、互いの潜在能力を引き出している。特に、彼にとってあなたの存在は、彼の眠っていた才能を呼び覚ますトリガーになっているのよ」

 葵は、自分の指先を見つめた。陽翔の温かさが、まだそこに残っているような気がした。

「つまり……彼の治療は、私の触れることによって、より促進されると?」

「ええ。正確には、あなたの『感覚同調』の能力が、彼のそれを増幅させている。私たちは、この現象をさらに深く解明する必要があるわ。もし、この能力を意図的にコントロールできるようになれば、医療の常識を覆すことになるでしょうね」

 小夜子の瞳は、研究者としての好奇心で輝いていた。しかし、葵の心には、研究とは別の感情が渦巻いていた。陽翔との触れ合いは、彼女にとって単なる治療行為ではなかった。そこには、理性では説明できない、胸を締め付けるような切なさが存在した。

「先生……この関係は、本当に『治療』と呼べるものなのでしょうか?」

 葵の声は、か細く震えた。小夜子は、そんな葵の言葉を静かに受け止めた。

「それは、これからあなた自身が見つけ出す答えよ、葵先生。私たち研究者は、ただその道筋を示すだけだから」

 小夜子は、そう言い残して病院の中へと戻っていった。葵は、一人取り残され、再び病院を見上げる。夜明けの空が、少しずつその色を変え始めていた。陽翔の存在が、彼女の中で急速に、そして確実に、大きくなっていくのを感じていた。

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