第2話

そして独り言をつぶやき始めた。

「あんたの周りには、いっぱいいい人がいるのね。母さん昨日の夜サトル君にいっぱい話

を聞いて貰ってホントに救われたわ。社長さんもいい人だし母さんほっとしたわ。あんた

はいつ目を覚ますのかしらね。」

そう言うとハジメの手をさすった。

一生懸命にさすった。

するとハジメの手がほんのり赤くなって来た

血色のいい手になって来た。

ポーっと温かくなって来てふわふわしていたハジメの身体がゆっくりゆっくり下に降り

て来た。ハジメはふとガラスに映る自分に目を向けた。するとさっきよりガラスに濃く映

っているのが分かった。

もしかして、とっさにハジメは自分の身体に突っ込んだ。

バチーンと跳ね返されて物凄い頭痛がして気を失った。

気が付くと外は暗くなっていた。

母は自分に寄りかかって眠っていた。

そのせいだろうか、何となく身体がポーっとしている。温かい感覚に身体が包まれている

ふとガラスに目をやる。

良かった。薄くなってない。

やっぱりここにいた方が良いんだ。

ハジメは何となく何処にも行かない方が良いんだ。と思った。

それから少しして母の目が覚めた。

外が暗くなっているのを見て時計に目をやっている。

ベットの脇にはメモが置いてあった。

「お休みのようなのでまた明日お伺いします

佐藤良夫、中田美智子」

ハジメの会社の社長だった。

「あらやだ、社長さん来てたんだわ、中田美智子さんってどなたかしら?」

ハジメの母は焼き鳥屋のみっちゃんの事を知らないので無理もない。

その時ドアをノックする音がした

「はい、どうぞ」

ハジメの母が声を掛けるとサトルと五十嵐さんが入って来た。

「こんばんは、お母さん」サトルが挨拶すると「こんばんは、初めまして」と五十嵐さん

が続いた。

「どうも、初めまして、ハジメの母です」

そう言うと二人にパイプ椅子を差し出した。

「サトル君この方ご存じ?」

社長のメモを見せると

「ああ、みっちゃん来たんだ。いつもみんなで行く焼き鳥屋さんのお嬢さんです。昨日の


夜みっちゃんに会って話したら、明日行ってみるって言ってたんで、社長と一緒に来たん

だな」

「そうなの、私寝っちゃってたもんだから気が付かなくて、悪いことしちゃったわね」

「いや大丈夫ですよ、また来るって書いてあるし、ハジメの顔も見れたからね」と五十嵐

さん。

「外傷はないんだな。ちょっとぶつけたアザがあるくらいか。ただ寝てるみたいに見える

けどな」

「そうっすね、ただ寝てるみたいだ」

「そうね、早く目を覚ましてくれればいいんだけど」

「ハジメ、朝だぞ」

サトルが気を使って言ってみるが特に変わりはない。

「相当疲れてるんだな。」五十嵐さんも冗談を言って見ると、何となく部屋の空気が和ら

いだ。

その後、面会時間も終わりに近づいた為、

みんなで帰る事にした。

帰りに何か食べて帰ろうと言う事になって、

ハジメの母の希望で、みっちゃんの焼き鳥屋さんに行く事になった。

会社に車を置いて、焼き鳥屋に向かおうとすると、ちょうど社長が帰って来た。得意先廻

りをしていたらしい。

「ああ、これはこれはお母さん、お疲れ様です」社長が挨拶すると

「昼間はすみませんでした」

「いえいえ、とんでもない。お疲れのようなのでメモ書きだけで失礼しました」

「社長、みっちゃんのとこに晩飯食べに行くんすけど、どうすか?」

サトルが言うと

「みんなで行くのか?じゃあ先に行っててくれ、すぐ行くから。ただ今日もノンアルコー

ルビールな」

そう言うと社長はハジメの母に軽く頭を下げて事務所の中に入って行った。

焼き鳥屋の前に来ると焼き鳥を焼くいい匂いがした。

「いらっしゃい。あらサトル君五十嵐さんも、あっハジメ君のお母さん」

「こんばんは」

「どうぞどうぞ、こちらに、」

一番奥の席を案内しておしぼりを渡しながらハジメの母に挨拶をする

「昼間はすみませんでした、お疲れの所お邪魔しちゃって」

「いいえ、私の方こそすみません、せっかくお見舞いに来て貰ったのに」

「いえいえ、ハジメ君の顔を見れたので良かったです」

「みっちゃん、取り合えずノンアルコールビールとグラス4ついいかい?すぐ社長も来る

から」と五十嵐さん。「あと、つまみも適当にちょうだい」

「はあい」みっちゃんが奥に行くと

「真面目そうないい子ね」とサトルに向かって言った。


ポーっとなりながらサトルが頷く

「何でお前が赤くなるんだよ」と五十嵐さんが茶化すと「赤くなんてなってないっすよ」

とむきになって否定した。

みっちゃんがノンアルコールビールを持って来るとグラスに注ぎ乾杯をした

「お疲れ様」

五十嵐さんもサトルも一気に飲み干すと、何とも言えない顔をして、「やっぱり美味いな

「そおっすねぇ」と幸せな顔をして二杯目をグラスに注いだ。

「お母さんもどうぞ」そう言うと五十嵐さんが空いたグラスにノンアルコールビールを注

ぎながら、

「しかし、ハジメちゃん早く目を覚ますといいですね」

「そうですね、先生の話だと頭蓋骨と脳の間に髄液が入ってて頭を動かしたときにクッシ

ョンの様な役割をするそうなんですけど、鉄パイプがぶつかった時に脳が頭蓋骨に激しく

ぶつかって腫れあがった状態になっているそうなんです。神経を抑える点滴で腫れが引い

ていけば回復するそうなんですけど、その後の脳のダメージによっては意識が戻るかどう

かと言う話でした。」

五十嵐さんもサトルも下を向いてしまった。

「でも先生もハジメはまだ若いから大丈夫だろうって言ってたから、きっとすぐ目を覚ま

しますよ」と言ってその場を和ませる

「そおっすよ、あいつの強さは半端じゃないっすもん、きっと良くなりますよ」

「そうだな、ハジメちゃんは何時だって強かったもんな。」

「そうそうあいつの精神力は半端ないもん。何度も現場でたすけられたもんなぁ」

それを聞いてハジメのお母さんもニコッとほほ笑んだ。

そこに社長が暖簾をくぐり、入って来た。

「いやあ、ごめんごめん、遅くなっちゃっておつまみ注文した?」テーブルに何も出てい

ないのを見て社長が言うと、丁度みっちゃんがお皿一杯の焼き鳥を運んで来た。

「お待ちどうさま」

テーブルにお皿を置くと、

「今ノンアル持って来るわね」

と言って空いたビール瓶を下げた。

「お母さん、お疲れでしょう」

社長が言うと

「いえ、家に居るよりゆっくりさせてもらってます」そう言ってほほ笑んだ。

ノンアルコールビールが届いてもう一度みんなで乾杯をした。

「よし、今日は俺のおごりだ。」

社長が言うと、「やったー」サトルが手を挙げて喜んだ。

「さっき、斉藤さんに電話したら、後から来るそうだ。」

「斉藤さんも好きだなぁ」サトルが言うと

「皆さん仲が良いんですね」


「みんな酒好きだからな」と五十嵐さん。

「でも一番好きなのはハジメちゃんだよな」

「そおっすねぇ、ハジメが一番かなぁ」

みんなで笑った。ハジメのお母さんも笑った。

その様子を見ながら少しは気晴らしになったかな?と社長は思った。実際の所、社長の精

神状態も不安定にはなっていた。もしもの事があったらとどうしても考えてしまう。そう

なったら自分はどの面下げてハジメの母に顔を合わせたらいいのか、考えれば考えるほど

胃が痛くなる。どうか無事で目を覚ましてほしい、そればかり考えていた。

病室でハジメを眺めながら、ふわふわ浮かんでいたハジメが今日の出来事を思い返して

いた。母にさすって貰っている間、不思議な感覚だった。気を失って初めての感覚だった

何とも言えないポーっとなって来る感覚。

何か忘れていた感覚。

凄く大事な、忘れてはいけない感覚。

なんだろう。考える能力の弱まっているハジメが必死に考えていた。頭の中をさまよって

いた時、子供の頃の記憶が浮かんで来た。

小学生の頃の記憶、たまに思い出していた、あの頃の記憶、何か温かい感じがした。

ポーっとしてきた。母にさすって貰っていた時の、あの感じ、何だろう、この感じ、セミ

が鳴いている。みんなでプールに入っている。

暑い暑い夏、樹液を吸いに来る虫、夏の朝の香り、カブト虫を捕まえる。何かを思い出せ

そうで思い出せない。その時、何か光のような、虹のような何かが見えた。

小さな光、何だろう、光の方に向かって行く、行っても行っても近寄らない。周りは真っ

暗闇、光の先だけを見て飛ぶ。

突然まぶしくなる。まぶしすぎて何も見えない、そして光の中、気を失う。

目覚めると何もない、只々まぶしい世界、音も無く静まり返った世界。

ハジメは一人、その世界に居る。上も下も右も左もそこには何もない。

なんだここは。

突然キーンと耳鳴りのような感じがする。

空間が歪む。

自分も歪む。

まるでガムが伸びたり縮んだりする様に自分も歪む。

気持ち悪い。吐きそう。

もう駄目だ。

ハジメはいつの間にか気を失っていた

焼き鳥屋には斉藤さんも駆けつけて、話が弾んでいた。ハジメの子供の頃の話だ。


「そんな小さなころからお金を稼いでいたんですか。」サトルが言うと、「そうなの、それ

を聞いた時はびっくりしたけど、物を売ってお金を稼ぐって言う事は悪い事じゃないしね

そう言ってハジメの母は笑っていた。

「昔はみんなたくましかったよな」

そういうと斉藤さんも自分の若い頃の話をしてくれた。普段あまり話さない斉藤さんにし

てみれば珍しいなぁとサトルは思った。

「俺も昔、若い頃は親方が飲み終わった一升瓶やらビール瓶やら酒屋に持って行ったり、

鉄屑拾っちゃ売りに行ったりしたもんだ。昔の丁稚奉公は給料なんて微々たるもんだった

し、田舎に全部仕送りしてたしな。自分のこずかいはそうやって稼いでたもんだよ」

斉藤さんは、まるで仲間を見つけた様に、嬉しそうに話してくれた。

「社長はどうだったんですか?」サトルが尋ねると、

「そうだな、やったなぁ」と懐かしそうな顔になった。

「そう言う時代だったよねぇ」と五十嵐さんも続いた。

「やって無かったのは俺だけか」とサトルが言った。

昔話に花が咲いて楽しい飲み会になった。

ハジメのお母さんも楽しんでくれたようだ。

次の日の打ち合わせをして解散した。

サトルはハジメのお母さんを玄関まで送ると自分の部屋に上がった。

シャワーを浴びてベットに横になると、さっき迄の話を思い出していた。

自分の知らなかったハジメの話を思い出しながら今のハジメがあるんだなと思った。そり

ゃそうかと一人で納得して眠りについた。

次の日、ハジメが気が付くと母が面会に来ていた。ハジメはあの光の事を思い出した。

今、ここにいるのはどういう事か?あの光の世界は何だったのか、あれは夢だったのか?

母がハジメが横たわっているベットを見ながらパイプ椅子に座ってハジメの手をさすっ

ていた。ハジメの身体がポーっと温かくなって来る様な感じがした。

「今日で3日目か」母が手をさすりながら呟いた。そうか、あれから二日経ったのか。

ハジメはこの二日が途方もなく長く感じていた。「あんたはいつ目覚めるのかしらね」そ

う言いながら母は一生懸命に手をさすった。

ハジメはポーっとしながら自分の身体が段々と近付いて来たのを見て、昨日と同じだ。と

思った。ゆっくりゆっくり宙に浮かんでいるハジメがベットに横たわっているハジメに近

付いている。何故かハジメは慎重になっていた。前回みたいに焦ったら駄目だと思った。

今回は何もしないで居ようと思った。

そして何も考えるのをやめて、目を閉じた。

まぶしい光の世界が現れた。何もない世界、そこにハジメは横たわっている。ポーっとし

たまま横たわっていると眠くなって来る。

そして、まるで雲の中に入って行く様な感覚に襲われて気を失った。


目を開けると天井が見えた。

「ハジメ⁉」

声の方を見ると母の顔が見えた。

「母さん」

「良かった。」

そう言いながら、母は涙を流しながらさすっていたハジメの手を握った。

ナースコールで看護師さんを呼ぶと、すぐ病室に看護師さんが駆けつけて来た。

「どうされました?」

看護師さんが言いながら病室に入って来て、目を覚ましたハジメを見ると、「ハジメ君、

目を覚ましたのね!良かったですね!お母さん。今先生呼んで来ますから、ちょっと待っ

てて下さい」そう言うとすぐにナースステーションに向かって行く。少しの間があって先

生が病室に入って来た。

「目が覚めたか、どれどれ」そう言うとペン型の懐中電灯を取り出し、目の前で上下左右

に動かして「明かりの方を追いかけて」と言いながらハジメの様子を窺う。

次に先生は習字で使う筆の様な物を、寝ているハジメの寝間着を剥いで「痛かったら言っ

てね」と言って身体中をゆっくり撫でて行く。先生の持つ筆が身体に触れた途端、全身に

ビリビリと電気が走った様な感覚に襲われ思わず「ううっ」と声をあげる。

「痛いか?」「はい。全身に電気が走ったみたいです。」「そうか、少しの間我慢してくれ

。どうしても我慢できなかったら言ってくれ」

そう言うと、ハジメの反応を診ながら筆で触っていった。手のひらや足の裏などは平気だ

ったが、腕や足の甲を触られるとしびれた。ひと通り身体中を触ると先生は

「自分の名前と生年月日、住所は言えるかな?」ハジメが答えると、「うん、まだ手足は

動かないね」そう言われてハジメは手足を動かそうと身体に力を入れてみたが動かなかっ

た。「無理はしなくていい。まだ目覚めたばかりだから」そう言って先生は看護師さんに

点滴の種類と量を伝えてハジメに「安静にしてなさい、気持ち悪くなったりしたらナース

コールで呼ぶんだよ」と言い「お母さん、後で私の所に来てください」と言って病室を後

にした。

「ありがとうございました。」そう言って先生を見送った後、母はパイプ椅子に腰を下ろ

した

「ありがとう母さん」ハジメが照れ臭そうに言うと、「何が?」と母が聞き返した。

「気を失ってる時、なんかずーっと身体がポーっとしてて、なぜかこの身体に帰ってこな

きゃって思ってた。母さんが手をさすってくれなかったら帰って来れなかった」

それを聞いた母は自然と涙がこぼれていた。母が涙を流しているのを見てハジメの目から

も涙がこぼれた。

「良かったわね帰って来れて」そう言うと母は、「そうだ、会社に連絡してくるわね」

と言って電話を掛けに部屋を出て行った。

一人病室の天井を見上げながらハジメはこの三日間の事を考えていた。

随分長い間さまよっていた様な気がする。

もしかしたらもう二度と目を覚ます事は無かったかも知れない。初日の夜、楽しくてあち


こちそのまま飛び回っていたらと思うとゾッとする。母がさすってくれていなかったら、

きっとここには戻って来れなかった。そう思うと自分は本当に恵まれている。母に感謝し

てもしきれない思いだった。

母が会社に電話をすると社長の奥さんが電話に出た。「さっきハジメが目を覚ましまし

た」

そう言うと電話の向こうで社長の奥さんが「えっホントに⁉良かったぁ。すぐ行きますね

と言って電話が切れた。病室に戻る途中に母はナースステーションに立ち寄り先生が忙し

くないか尋ねた。看護師さんが連絡をつけてくれて先生の診察室に来るように言われた。

別のフロアにある先生の診察室に向かうと別の看護師さんが待っていてくれた。

ハジメの母は看護師さんに案内され、先生の診察室に入った。

「失礼します。」そう言って入ると

「どうぞこちらへ」と言って丸椅子を進めてくれた。

「ハジメ君の容態なんですが、今まだ目覚めたばかりではっきりと断言できないんですが

、もしかしたら麻痺が残るかもしれません。」

暫しの間があり

「これは個人差があるので、今はっきりとは言えないんですが、頭部を強打して痺れが残

る患者さんの内、何割かは何らかの後遺症が出ることがあります。それは色々な出方をす

る事があります。言語障害ですとか、半身不随、全身不随、脳障害、味覚障害、聴覚障害

、嗅覚障害、ありとあらゆる事が考えられます。ハジメ君の場合も同様に考えられます。

勿論何も出ない方も居ます。それはこれからの経過次第です。」先生はそう言うとハジメ

の母の目を真剣な表情で見つめ、

「お母さん、今ハジメ君はまだ危険な状態です。この後吐き気が頻繁に出て来るようだと

要注意です。向こう7日間くらいは神経を落ち着かせる点滴を続けます。食事も出来ない

ので栄養剤の点滴も続けます。しばらくはそれで様子を見ましょう。ただ、ハジメ君が目

を覚ましたのは大きな前進です。この事は素直に喜んで良いと思います。」

そう言われて診察室を後にした。

病室に戻るとハジメは点滴の影響か眠っていた。息子の眠る姿をみながら先生に言われた

事を思い返した。とてもそんな危険な状態には見えない。外傷がないせいか本当にただ寝

ているように見える。

「吐き気か」母は独り言をつぶやく。

母は前向きに考える事にした。

とりあえず目覚めただけでも一歩前進かな。

そう思って花瓶の花の水を取替に向かった。

暫くして社長と社長の奥さんがやって来た。

「ハジメ!」社長が入って来るなり声をあげる。

「昨日はご馳走様でした。今点滴で眠ってます」ハジメの母はパイプ椅子を二つ取り出し

ながら言った。

「お母さん良かったですね。いや、本当に良かった。」社長と奥さんは目に涙を浮かべな


がら、ハジメの母と自分達に言い聞かせる様に言った。

それを見たハジメの母は感極まって涙を流した。「ありがとうございます。」何とか感謝の

気持ちを伝えると暫く声が出なかった。

暫くしてハジメの母が「ですが先生が言うには、まだ危険な状態には変わりが無いそうで

す。これからの経過次第では色んな後遺症が出るかもしれないとの事でした。」

「ただ、一命を取り留めた事は事実なので、素直に喜んで良いでしょうとの事でした。」

社長と奥さんは複雑な顔をしながらもハジメが目を覚ました事に喜んでくれた。

「うん。うん。ハジメ、良く頑張ったな。」そう言って社長は寝ているハジメを見ながら

涙を流した。社長の奥さんが「ハジメちゃん良く頑張ったわね、お母さんもお疲れ様でし

た。」と言って涙をハンカチで拭った。

ふと時計を見るともうお昼だった。

気を利かせた社長の奥さんが、「なんか売店で買ってきましょうか?」と言い席を立った

「そうだな、ここから離れるのもなんだし、お母さんお昼は売店で売ってるものでいいで

すか?」そう言って社長は奥さんに目配せをした。

「じゃあ、買って来るわね」

そう言うと社長の奥さんは財布を持って売店に向かって言った。

「すみません社長さん、後で払いますから。」ハジメの母がそう言うと社長はそれを手で

制して「いやいや、気にしないで下さい。病院の中なので売店に売ってる物位しか買えま

せんが、ハジメの目が覚めたお祝いに出させて下さい」そう言って社長はニコッとほほ笑

んだ。

それから数日が経ちハジメの容態も大分落ち着いてきた。診察の時に筆で撫でられる度

に激痛が走っていた身体も今は平気になって来た。相変わらず寝たきりで寝返りも打てな

い状態だが、手は動かせるようになって来た。

首を左右に動かすと、脳が揺れるせいか気持ちが悪くなった。窓の外に目をやると、キラ

キラと太陽の光が窓ガラスに反射して奇麗に光っていた。ハジメはもう夏みたいだなとお

もった。病室にいると空調が効いているので暑さも感じないが外は暑そうだと思った。

ハジメが事故に遭った現場も動き出していた。

ハジメの代わりに社長が現場に入っていることもあって、みんな忙しそうにしていた。

そんな中でも仕事帰りには皆面会に来てくれた。ハジメの母も、いつまでも実家を空けて

置く訳には行かないので、一旦実家に戻って行った。何となくハジメの周りは、いつもの

日常を取り戻しつつあった。

ハジメは世の中から置いて行かれる様な気がした。皆忙しくしている中、自分はただ寝て

いるだけで何も出来ない。起き上がる事すら出来ない。自分が情けなく思った。早く怪我

を治して現場に行きたいと思っていた。

そんな事を考えながら日々を過ごしていた。

日が経つにつれて、神経を落ち着かせる点滴が外され、寝返りも打てる様になった時、違

和感があった。足に力が入らないのだ。ずっと寝たきりだったからかな?と思って足の方

に意識を持って行ったが、やっぱり動かなかった。その事を先生に話すと、これからリハ


ビリを始めて、どの程度回復するか分からないが、まだ今の所は無理に動かさないように

と言われた。

2週間が経った頃、ベットで起き上がる訓練が始まった。事故以来初めて身体を起こし

た。

不思議な感覚だった。生まれて初めて赤ちゃんが起き上がって周りをキョロキョロする時

の感覚の様な気がした。始めはベットでただ上半身を起こすだけで物凄く疲れた。身体中

の力を振り絞ってやっと起きた。そして何分もしないうちに疲れてまた寝る。それの繰り

返しだった。相変わらず足は動かなかった。

入院をして1か月が経った頃には、起き上がって車椅子に乗れるようになった。そのお

かげで、病院の中を車椅子に乗ってお散歩出来るようになった。一番嬉しかったのは、お

風呂に入れるようになった事だ。勿論一人では無理だが、看護師さんの手を借りながら身

体中を洗った時は、かなり恥ずかしかったが、ずっとかゆくてたまらなかった髪の毛を洗

ってもらった時は、本当に生き返った気がした。1か月間、温かいタオルで身体を拭いて

もらうしか出来なかった事を考えると、本当に蛹から成虫になった位の衝撃があった。そ

して身体が軽くなった気がした。

その頃から本格的なリハビリが始まった。

相変わらず足が動かなかったので、棒につかまって立つ練習がメインだった。その他にも

首を引っ張ったり電気で身体を温めたり色々なリハビリをやった。

段々と体力も戻って来て、3か月を過ぎる頃には事故前位の日常生活は送れる様になっ

ていた。足だけは相変わらずだったが。

ある日、午後の診察を受けた後、先生に「ハジメ君、大分元気になったね、もう痺れは出

ないかい?」そう聞かれ、

「はい、もう痺れは無いです。」そう答えると

「吐き気はどうだい?」と続ける。

「吐き気はたまに出ます。急に振り向いたり下を向いていて、急に顔をあげたりすると、

たまに気持ち悪くなります」

「そうか、薬はちゃんと飲んでるね」

「はい、飲んでます」

「うん、もう少しだな」そう言うと先生はハジメの足をもみほぐすように触ると

「どうだい、感覚はあるかい?」と聞いた

「えっと、触られているのは分かります」

「うん、力を入れてみて」ふくらはぎを触りながら言うと、ハジメの表情をみながら

「よし、いいよ」そう言ってハジメの足から手を放し、「足の方はこのままリハビリを続

けて行こう」

「先生、俺の足はもう動かないんですか」

ハジメは思い切って先生に聞いた。

「そうだなぁ」少し考えるようにハジメの顔を見て先生は言った。

「脳に損傷を受けると色々な症状が出る。ハジメ君の場合は神経障害が強く出た。痺れが

それだ。大分落ち着いては来たが、これは完治する場合もあれば、またぶり返す事もある


。それはすぐに出る場合もあれば、年を取ってから出る事もある。痺れと同じように足も

そうだ。今リハビリを続けて行って、ある程度まで動くようになるかもしれない。このま

ま動かないかもしれない。これはもう個人差があるから何とも言えないんだ。ただね、ハ

ジメ君、リハビリは諦めたら終わりなんだ。私が言いたい事分かるかな。ここで私がもう

ハジメ君の足が動かないって言って、君がリハビリを辞めてしまったら、それっきりにな

ってしまう。私は君に諦めて欲しくない。君の人生はまだまだこれからなんだから。」そ

う言って先生はハジメの肩を叩いた。

「ただね、神経の落ち着きがもうちょっとしたら通院に切り替えようとは思っているから

、ハジメ君もそのつもりでリハビリを続けて頑張ろうか。」そう言って先生は別の患者の

診察に向かった。

それから一か月程が経ちハジメの退院がきまった。季節はもう9月になっていた。

足の方は相変わらずだが、吐き気と痺れはもう出なかった。

退院の日にちが決まって、実家からハジメの母が来ていた。

ハジメは車椅子生活にも大分慣れていて、殆ど自分の事は自分で出来る様になっていた。

ハジメの母はびっくりしていた。

「あれから4か月も経つのか」

ハジメは病院に居た時間が物凄く長く感じていた。

最後の診察が終わり、ハジメの母が通院の説明を受けていると、社長と社長の奥さんが

迎えに来てくれて手には花束を持っていた。

「ハジメちゃんおめでとう!」

社長の奥さんが花束を渡してくれて、ハジメは退院する実感が湧いてきた。

社長に車椅子を押されながら、お世話になった看護師さん達に挨拶をして出口に向かった

正面出口を出た所で、ハジメは大きく深呼吸をした。4か月ぶりの外の世界だ。9月とは

言え外の世界はまだまだ暑かった。

でもハジメは外に出られた事が凄く嬉しくて、ジッと空を見上げていた。

社長が駐車場から車を廻して来ると、ハジメは上手に車椅子から車の中に乗り移った。

病院の中で何度も練習したので、大体の事は一人で出来る様になっていた。

社長は感心しながら車椅子をたたんで車の中にしまった。

ハジメのアパートに向かいながら、ハジメは今後の事を社長と話した。

社長がお見舞いに来る度に現場の状況や他の人の動きやハジメがやる予定だった店舗工

事の事などはその都度社長からは聞いていて知っていたが、今後の事を話した事は無かっ

た。

社長も気を使って入院中は聞かないでいてくれた。

ハジメは社長に会社を辞める事を告げた。

でもリハビリが終わるまではこのままアパートに置いて欲しいとお願いした。

社長は詳しい事は戻ってから話そうと言い、「だけどハジメ、慌てる事は無い。暫くリハ

ビリに専念しても大丈夫だから。」と言った。

アパートに着いてハジメとハジメの母が車から降り、車椅子を押しながらアパートの玄関


に向かう途中、社長が「良かったなハジメ1階で、2階だったら引越ししないと退院出来

なかったな」と冗談を言いながら歩いた。

玄関を開けると懐かしい部屋の中が見えた。

部屋の中は母が片付けてくれていたので奇麗だった。4か月ぶりの自分の部屋にハジメは

ほっとした。やっと帰って来た。本当の意味で退院したと思った。

「じゃあハジメ、お母さん、会社で待ってますから」そう言って社長と奥さんは会社に帰

って行った。

アパートに荷物を置いてハジメとハジメの母は会社に向かった。

アパートから会社迄は何分も掛からない。

車椅子のハジメにもそんなに負担になる距離では無かった。

4か月ぶりの会社に着くと、事務所の中はバリアフリー化してあった。

ハジメが驚いていると「ハジメちゃん、お母さんもこっちにどうぞ」と奥さんが手招きし

てくれた。

「どうしたんですか?これ」ハジメが聞くと

社長が奥から出て来て

「どうだ、気に入ってくれたか?」と言ってにんやり笑った。

「みんなと相談してな、ハジメが車椅子でも入って来れる様にしたんだよ。」

「いや、そんな、」ハジメが申し訳ない顔をして下を向く。

「さて、これからの事だがな、さっきは車の中だったし事務所に帰ってから話そうと思っ

てた。」そう言って社長はハジメの向かいに座った。

「ハジメ、お前設計やってみないか?」

いきなりだった。

「えっ?」

「俺は俺なりにこれからの事を考えてみた。勿論ハジメの考えを聞いてからの事だが、お

母さんとも良く話し合ってからでいいから、答えを聞かせて欲しい」

そう言うと社長は話し始めた。

「まず、リハビリに通う間のアパート代、生活費、治療代、これは労災保険があるから大

丈夫だ。今までと同じ給料が貰える訳じゃないから少し減るけどな。足りない分は会社で

幾らかは出す。」ハジメと母が顔を見合わせる。

「それからな、お前が頭でやろうとしてた店舗工事あっただろ。あれ、斉藤さんとサトル

が頑張って終わらせてくれたのは話したよな。あの設計事務所の人がお前の事を覚えてい

てくれて、ハジメだったら是非家でって言ってくれてるんだ。それも通うのも大変だろう

し設計事務所から家に仕事を廻すからやってみないか?って言う条件つきだ。勿論お前一

人に押し付けようとは思っていない。俺も一緒にやろうと思ってる。」

「えっ?社長もですか?」

「だめか?」社長はニヤッと笑って話を続ける。

「ハジメがやってくれるって言うならこの話を先方さんに話す。だけどなハジメ、こんな

いい話そうそうないぞ。」

ハジメは煮え切らない感じで何かを考えている。


「でも社長、俺設計の事なんて何も分からないですよ、それに、この足じゃ、」そう言っ

て社長に困った顔を見せる。

「勿論分かってる。先方さんだってそんな事分かってるよ」

「じゃあ何で」

「先方さんはお前が最初のあのキツイ現場をやり遂げたのを見てる。だからこそ、この話

を持って来てるんだ。あの現場でお前がどれだけ大変な思いをして現場をまとめたか知っ

てるからこその話なんだよ。じゃなきゃこんな話逆立ちしても出て来ないぞ。それとな、

お前も、まあ俺もだが、ゼロじゃない、図面を書いた事は無いが読めるだろ?それだけ出

来れば上等だ。あとは勉強あるのみだ。今年はもう無理だが来年の春から学校に行かせて

やる。夜学だがな、昼間は仕事、夜は学校だ。

大変かも知れないがここは踏ん張りどころだと思う。お前にとっても俺にとっても人生一

度きりだ。」そう言って社長は

「まあ、時間はある。よく考えて答えを出してくれ。それからな、今日みんなで退院祝い

やるから17時にみっちゃんの所な」

そう言って社長は見積を始めた。

ハジメと母は一旦アパートに帰り、さっきの社長の話をしていた。

「母さんはどう思う?」

「あんたの人生よ、自分で決めなさい。ただ母さんもこんないい話、もう無いと思うわね

、あんたが何不自由なく働いていたのを見ていた、数少ない人の一人が誘ってくれてるん

だもの、ありがたいわよね。社長さんも色々考えてくれてるし、あんたは幸せ者ね。」

そう言って母はお茶をすすった。

時間になって焼き鳥屋に向かおうとした時、玄関のチャイムがなった。母が玄関を開ける

とサトルが嬉しそうな顔で立っていた。おばさんこんにちは、ハジメ帰って来た?そう言

って中を覗き込んだ。

「いたいた、ハジメ行こうぜ。おばさん車椅子出すよ。」ハジメは玄関まで足を引きずり

ながら這って来て器用に車椅子に座った。

サトルが押して行こうとすると、これもリハビリだからと言って自分で押して行った。

焼き鳥屋に着くと、本日貸し切りの紙が貼ってあった。

中を覗くとみんな揃っていた。

「ハジメちゃんおめでとう」みっちゃんが涙を流しながら喜んでくれた。

「やっと帰って来たか」斉藤さんが言った

「ハジメちゃんが居ないと寂しいよな」と五十嵐さんも続く。

「じゃあみんな乾杯しよう」

そう言うとみんなコップにビールを注ぎ挨拶を待つ。社長がコップを持ちながら立って挨

拶を始める

「みんな知っての通り、ハジメが帰ってきましたぁ、4か月ぶりに全員集合出来た事は本

当に嬉しい事です。ハジメの居ない間にも色々大変な事はありましたが、これからも一致

団結をして頑張って行きましょう。それでは、ハジメから一言。」

「皆さん色々ご心配をおかけして申し訳ありませんでした。今日やっと退院することが出


来ました。皆さんの励ましのおかげで何とか頑張って来れました。これからもご迷惑をお

掛けしますが、どうぞ宜しくお願い致します。」

みんな拍手をしたいがコップを持っているので出来ない。

「良く言ったハジメちゃん」

五十嵐さんが言うと、社長が「それじゃぁ、乾杯」と言ってみんなでコップをぶつけ合っ

た。

「ハジメ、ビール飲まないの?」サトルが烏龍茶を飲んでいるハジメを見て言った。

「うん、まだちょっとアルコールは怖いかな?」

「そっか、そりゃそうか?」いつもと変わらないみんなの接し方にハジメはホッとした。

変に気を使われたらやだなと思っていたからだ。

みんなの話し声を聞いていたら、凄く心地よく聞こえた。ああ、帰って来たんだ。と感傷

に浸っていると、みっちゃんが来て隣に座った。「ハジメ君おめでとう!」そう言って乾

杯した。「あれ、今日は飲んでるの?」

「うん、ハジメ君のお祝いだもん。おばさんもおめでとうございます!」そう言って乾杯

した。

「ハジメ、設計の話聞いた?」サトルが聞いてきた。

「うん、昼間会社で聞いた。」

「で、どうすんの?」

「うん、今考えてる。」

「そっか、まああの会社ハードだもんな」

「いや、そういうので悩んでるんじゃなくて、俺みたいな素人に務まるのかな?って」

「それは考えすぎじゃね、俺らだってこの仕事始めた時は素人だったじゃん」

「それはそうなんだけど」ハジメは口ごもった。

「なんか引っかかってる感じ?」

「うん。やっぱり足の事が、、、」

「ハジメ君そんなの気にしなくていいんだよ。」隣で聞いていたみっちゃんが割って入っ

て来た。

「だって向こうはハジメ君の足の事知ってて言って来てるんだよ。ねえおばさん、そうで

すよね」みっちゃんがこの事を知ってるって事はみんな知ってる事なんだなとハジメは思

った。

「そうね、全部分かった上で言って来てるんでしょうね」

「そうですよ。こんなありがたい話無いと思いますよ。」みっちゃんも本気だ。

「ハジメ君こんなチャンスないよ。」

追い打ちをかけるように言って来る。

「期待に応えられない時が怖いんだよ」

思わず言った言葉が思っていたよりも大きな声になっていた。

「ハジメ君」

店内が一瞬シーンとした。

違うテーブルで違う話をしていた社長たちが何だ?と言う顔でハジメ達を見た。


「ごめん、大きな声で」

「ううん、大丈夫。私こそごめんなさい。ハジメ君の気持ちも考えないで。」

「どうした、いったい」

心配した社長が口を挟んだ。

「いえ、私が自分勝手な事行っちゃったから。」

「いや、何でもないですよ社長。」ハジメが取り繕おうとした時、ハジメの母が、

「いえ、ハジメ、社長さんにキチンと今のあんたの気持ちを聞いて貰いなさい。」

母が鋭い目でハジメを見る。

ハジメは観念したように社長に向かって話し始めた。

「社長、昼間の設計の仕事の話なんですが、正直俺、期待に添える自信が無いです。物凄

くいい話なのは分かってるんですが、全くの素人が手を出して迷惑が掛かるのが怖いんで

す。」そう言ってハジメは下を向いた。

少しの間があって、斉藤さんが口を開いた。

「ハジメらしくねぇなぁ、お前はこの会社に入った時からずっと前を向いてたじゃねぇか

、初めてやる仕事もどんなつらい仕事も、お前は絶対に折れなかったはずだ。だからこそ

設計の先生もお前に是非やって欲しいって言って来てるんじゃねえのか?お前は自分じ

ゃ分かっちゃいねえかもしれねえけどな、ここにいる全員が誰も叶わないほど強いんだぞ

。だから今ここに生きて帰って来たんじゃねえか。もうちょっと良く考えてみろ。サトル

なんてお前がいなかったら1年で辞めてるぞ。そうだろサトル」

斉藤さんがサトルの顔を見てニヤッと笑って見せた。

「いやいや勘弁してくださいよ斉藤さん」

サトルが言うとみんな笑った。

「俺も斉藤さんの意見と一緒だ。」社長がそう言ってビールを一気に飲み干すと、

「俺も一緒にやるから大丈夫だ。心配するな。」そう言ってハジメの顔を見た。

「はい。分かりました。よろしくお願いします。」

そう言ってハジメは頭を下げた。

その後も宴会は盛り上がり17時から始まった宴会が4時間も経っていた。

「じゃあボチボチお開きにしようか」

社長がそう言って立ち上がると、みんなも立ち上がり店を出た。

店の外で見送りに出たみっちゃんがハジメに

「リハビリ毎日通うの?」

「うん、暫くは毎日通ってくれって言われてる」

「そう、じゃあ私も一緒に行ってみようかな」

と思ってもみなかった事を言われてハジメは戸惑いを隠せないでいた。

「えっ?な、なんで?」

「ハジメ君が頑張ってリハビリしてる所、見てみようと思って。ねえおばさん、良いでし

ょ」と言ってハジメの母の顔を見た。

ハジメの母は笑顔で「勿論いいわよ。みっちゃんが大変じゃなかったら」

「じゃあ決まり。明日の朝ハジメ君の家に行くわね」そう言ってハジメの母と時間の打ち


合わせをしていた。ハジメは複雑な感じで居た。サトルがみっちゃんに好意を持っている

のを知っているから、何故か後ろめたい気持ちになっていた。その後アパートにハジメと

ハジメの母とサトルと三人で歩いていると、ハジメの母が「みっちゃんて良い娘ね」と何

気なく言った。ハジメは内心余計な事言うなよ母さん。と思いサトルに目をやると、何と

なくサトルは寂しそうな顔を見せた。ハジメは気付かないふりをして車椅子を押した。

アパートに着くとサトルはハジメと母に挨拶をして2階に上がって行った。

ハジメは車椅子を降りて玄関に腰を移すと部屋の中に這って行った。

母が車椅子を折り畳んで部屋に上がって来るとハジメが「母さん余計な事言うなよ」

何の事か分からない母が「余計な事って?」

「みっちゃんの事」

「みっちゃん?みっちゃんがどうかしたの?」

「みっちゃんはどうもしないけど、サトルはみっちゃんの事好きなんだよ。だからサトル

からしたら面白くないだろ」

「母さん別に何も言ってないわよ」

ハジメの母は余計な事なんて何も言ってないと思ってるので無理もない

「明日のリハビリの約束してたじゃないか」

「ああ、あれね。別にいいんじゃない?みっちゃんが見てみたいって言ってるんだから、

ハジメは何で?って思った。男と女の感覚が違うからか?それとも中年のおばさんだから

図太い神経をしているのか?何故かハジメは母に何を言っても無駄な様な気がした。

「まあいいや」そう言ってハジメは風呂に入ろうと思い服を脱ぎ始めた。

「お風呂?お湯貯める?」母が言うと

「いや、自分でやって見る。なるべく出来る事は自分でやるように先生にもリハビリの先

生にも言われてるから」そう言ってハジメは服を脱いで風呂場に這って行った。

少し時間は掛かったが何とか一人で身体を洗って湯船にも浸かれた。

あったまって出ようと思った時

「あっ、」と声がした。

「どうしたの?」母が声を掛けると、

「タオル忘れた」とハジメが言った。

思いがけない事だった。たかがタオルだが、そのタオルが無いと部屋中びちょびちょにな

りながら箪笥まで這って行かなきゃいけない。

うかつだった。ハジメは改めて今までよりも良く考えて行動しなきゃと思った。

「ごめん母さん、タオルとって」

「はいはい」箪笥を開けてタオルを取り出し渡す。

「身の回りの配置考えないとね」

母は全て分かった様にハジメが思っていた事を言い当てた。

「今同じ事考えてた。良く分かったね」

「あんたの考えてる事なんてお見通しよ」

そう言って母はハジメの脱いだ服を拾って洗濯機に入れた。


ハジメが身体を拭いて出て来た。寝間着を着ながらハジメが言った

「良く考えたら足が動かない俺には使いずらい配置だね。」ハジメは部屋を見渡してから

紙を持って来て何やら書き始めた。

このアパートは1DKの部屋が1階に2部屋、2階に2部屋ある。その内の1階にハジメ

が住んでいて、2階にサトルが居る。ハジメは自分が生活する上で一番効率が良い様にレ

イアウトを決めて行った。書き上がった絵を母に「どう?」と言って見せた。

「そうね、いいんじゃない?明日にでもやってみようか?」と言ってその絵をテーブルに

置いた。

次の日約束していた時間にみっちゃんが玄関のチャイムを鳴らした。

母が玄関を開けると「おはようございます」と言ってニッコリと笑顔を見せた。

「おはよう、みっちゃん。ごめんなさいね、朝早くから、」

「いいえ、いつもこの時間には起きてますから」

「おはよう、みっちゃん」ハジメが玄関迄這いずって来る。

「おはよう、ハジメ君、今日も暑くなりそうね」何気ない会話をしながら車椅子を倒れな

いように抑えた。

「ありがとう、後は自分で押して行くから大丈夫、これもリハビリだから。」そう言って

ハジメが先に押して歩いた。それを見ながら母とみっちゃんが何気ない会話を交わしなが

らついていく。

病院迄は電車で1本で行けるのだが最寄り駅から20分程の場所にある。退院する時に家

のそばにある病院を紹介すると言われたのだが知らない病院に行くのも嫌なので、取り合

えず頑張って来てみて無理そうだったら紹介してもらう事になっている。それはそれでリ

ハビリになると思って先生も特に反対はしなかった。病院に着くと受付でリハビリに来た

事を伝え、リハビリ室の前に向かう。少し部屋の前で待っていると名前を呼ばれて中へ通

された。中に入ると大勢の人がリハビリをしていた。母とみっちゃんは隅っこの方で邪魔

にならないようにハジメのリハビリを見学していた。ハジメはいつものメニューをこなし

ていて、リハビリが終わるころには汗をかいていた。先生と話してその日のリハビリは終

了した。車椅子を押して戻って来たハジメは、まるでスポーツが終わって帰って来たよう

な感じだった。

「ハジメ君凄い汗、シャツ着替える?」

「うん、着替えるからちょっと待ってて」

と言ってその場でシャツを着替えた。

目の前で上半身だけとはいえ、ハジメの裸を見たみっちゃんは顔が赤くなって目をそらし

た。ハジメが着替え終わり、会計をして病院を出た。

「何か食べて帰ろっか」ハジメの母が言い、蕎麦屋さんでお昼を食べて帰る事になった。

駅に向かう途中に落ち着いた感じの蕎麦屋さんがあって、そこに入った。まだお昼前と言

う事もあって店内は空いて居た。

エアコンが聞いていて涼しかった。

それぞれ好きな物を頼んで出来上がるのを待っている間、ハジメとみっちゃんの子供の頃

の話になった。


「そう、みっちゃんは生まれも育ちも横浜なのね」

「はい、だから田舎のある人が羨ましかったです。夏休みとか特に出掛ける事も無かった

ですし、うちは商売してたから尚更でしたね。家族旅行なんて殆どしてないです。」

「そう、商売してるお宅は大変なのね」

「大変って言うか、それが当たり前だったので何とも言えないですけど、やっぱり学校で

旅行の話を聞くと羨ましかったです。」

「そっか、みっちゃんは今おいくつ?」

みっちゃんがハジメを見るので、ハジメが

「一つ上?」と言うと「同い年です。」と鋭い声で帰って来た。それを見て母はクスっと

笑った。蕎麦が届いて食べながら話した。

「じゃあ今度、仙台に来てみる?」母が言うとハジメがむせた。

「何言ってんの?いきなり、みっちゃん困っちゃうじゃん」

「えぇっ、いいんですかぁ、行きたい行きたい!」

「いいわよ。何時でもいらっしゃい。」

「マジで言ってんの?二人共、父さん怒るよきっと、俺知らないよ。」

「何で父さんが怒るのよ。起こる訳ないじゃない。」

「そんな急に連れてったら怒るだろ」

「急になんて言ってないわよ。ちゃんと連絡するわよ」

見かねてみっちゃんが間に入る

「まあまあ二人共落ち着いて、今すぐ仙台に行くって言ってるわけじゃないし、ね。」

「なんか変な感じね」そう言ってみんなで目を合わせて笑った。

食べ終わって蕎麦屋を出ると母が

「美味しかったわね。このお店当たりね。」と言って嬉しそうな顔をした。

帰りの電車の中でハジメの部屋の模様替えの話をすると、みっちゃんが自分も手伝いたい

と言ってくれた。ハジメは悪いからいい。と言って断ったが、みっちゃんが譲らず、じゃ

あせっかくなので、という事になった。

何がせっかくなのか分からないが、取り合えずハジメと母だけじゃ何も出来ないのも分か

り切っているので、せっかくの好意を有難く受ける事になった。

アパートに戻り、昨日の夜ハジメが書いた図面?をみっちゃんに見せて昨日の夜のいきさ

つを話し、みっちゃんの意見も取り入れながら模様替えが始まった。女性二人と頼りにな

らない男一人とどうなる事かと思ったが、夕方前には大体の形にはなった。

「じゃあそろそろ私、お店に行きますね」

そう言ってみっちゃんはハジメの部屋を後にした。

「助かったわね。今度お礼しなくちゃね。」

「うん。そうだね。大分助かった。」

それから暫くの間、毎日リハビリに通って、ハジメの体力も大分戻って来た。

歩く事は出来ないものの、車椅子から立ち上がれる位に回復してきた。病院を変えなかっ

たのが良かったのか、ハジメの上半身はすっかり元の状態になりつつある。季節は12月


に入っていた。3か月もの間さすがに母もずっとハジメの所に居るわけにもいかないので

、先月の中頃、仙台に帰った。みっちゃんは相変わらず時間を作ってハジメのリハビリに

付き合ったり家事を手伝ったりしていた。

根っからの世話好きなのだろう。

全然嫌がる様子も無かった。

どうやらハジメの母とみっちゃんは連絡を取り合っている様だった。ふとした会話の中に

「おばさんが言ってたよ」と言う言葉が入って来るからだ。ただ、気になっていたのは、

前ほどサトルと会話をする事が減って来ている事だった。仕事帰りにサトルがハジメの部

屋に立ち寄るのはよくある事だったが、みっちゃんが居る時は何となくよそよそしい感じ

だった。ある時ハジメはみっちゃんに「サトルと何かあった?」と聞いた事があったが、

「別に何もないよ」と素っ気ない返事が返って来るだけだった。ハジメはと言うと、独学

で設計の勉強を始めていた。

年明けの学校に通う頃から始めようと社長に言われていたが、時間のある内に少しでも進

めてようと思って本屋で分かりやすそうな本を買って来て勉強していた。社長はリハビリ

の方が大事だからあまり無理はしないようにと言っていた。

ある日母から電話があった。

「お正月は帰って来る?」

いきなりだった。

「いや、無理だよ。一人で新幹線だって乗った事無いのに」

母は少し考える様な時間があった後

「実はね、みっちゃんがあんたの事連れて来てくれるって言ってくれてるの」

「えっ?何それ、どういう事?」

「どういう事って、そういう事よ。」

「いや、意味わかんない。そんな、みっちゃんがかわいそうじゃん。何で正月にゆっくり

したい時に仙台行かなきゃいけないの?みっちゃんに迷惑掛かるからいいよ」

「あらやだ、母さんが無理やり言ってるみたいじゃない。」

「だって実際そうじゃん」

「違うわよ。みっちゃんから言い出したことよ」

「えっ何で?」「何でって、みっちゃんだって旅行したいのよ」

前に子供の頃旅行に行けなかった話を思い出した。「旅行っていえるかなぁ」

「大丈夫よ母さんが観光連れて行ってあげるから、あんたは寝てていいわよ」

何だか冷たいなぁと思いつつ

「じゃあ、みっちゃんに聞いてみるよ」

「あ、大丈夫、みっちゃんには聞いたから」

何だよ、もう決まってる話なんじゃんと思いながら「分かった」と言って電話を切った。

ハジメは毎年盆と正月には帰れる時には帰る様にしているが今年の夏は帰れなかったの

で帰りたいなぁとは思っていた。

ただ、みっちゃんにそこまで甘えていいのか正直言って分からなかった。

その日は何となくモヤモヤした気持ちで過ごした。車椅子から立ち上がれる様になっただ


けで、随分と生活に変化が出て来た。

這いずってしか移動出来なかったのが、両手でどこかを支えられれば立って移動する事が

出来る様になっていた。

洗濯物を洗ったり干したり、ご飯を作ったり片付けたり、時間はかかるが自分で出来る事

も大分増えて来た。だが上半身の力だけで身体を支えているような物なので酷く疲れた。

いつの間にかベットに横たわって眠っていた。

久しぶりに子供の頃の夢を見ていた。いつもの夢と変わらない夢だった。夏休みにカブト

虫を採りに行く夢、もう何回同じ夢を見たか分からない。キラキラと木漏れ日の中でみん

なでカブト虫を探している夢、その時玄関のチャイムが鳴って起き上がった。「こんにち

は」と言いながらみっちゃんが入って来た。

昼間は玄関に行くまで時間がかかるので、大体玄関の鍵は開けっ放しにしていた。

「いらっしゃい、さっき母さんから電話あったよ」「うん、私の所にもあった。楽しみね

「でもいいの?せっかくゆっくり出来るのに俺の面倒見させたら申し訳ないと思って」

台所の片付ものを何気にやりながら「全然、久しぶりに旅行出来るんだもん。今からワク

ワクしてるよ。」と言って洗い物を片付ける。

いつでもみっちゃんはハジメの部屋に来ると、何かやることを見つけてはテキパキと動い

てから、お茶を飲みながらハジメと話をして帰って行く。相変わらずリハビリにも毎日で

は無いが付き合ってくれる。そんなみっちゃんにハジメは何となく好意を抱いていた。

でもハジメの中でみっちゃんはサトルが好きな女性だからと諦めていた。なので複雑な思

いでみっちゃんと接していた。自分の思いを話すことは絶対に無かった。はずだった。

正月休みに実家に帰るまでは。

12月も末に差し掛かる頃、世間ではクリスマス一色になっていた。病院に行く途中商

店街ではクリスマスソングが流れ、木々は飾り付けられ、奇麗な街並みが広がっていた。

「もうすぐクリスマスだね」今日もみっちゃんはリハビリに付き合ってくれていた。

「うん、みっちゃんクリスマスプレゼント何がいい?」ハジメはいつもお世話になってい

るみっちゃんに何かお礼をしなくちゃいけないと思って何となく言った。

するとみっちゃんは突然の事に顔を赤くして「うん、何でもいい」と言って下を向いて

歩いた。それを見てハジメも赤くなって「いや、変な意味じゃなくって」と言って下を向

いた。電車の中でも病院の中でも何かぎくしゃくしていた。帰りの電車の中でハジメとみ

っちゃんの前に座っていたカップルがイチャイチャしていたのを見て益々変な空気が二

人の間に流れた。

その日は妙な空気が流れたまま、みっちゃんは帰って行った。次の日には何もなかったよ

うにみっちゃんが迎えに来た。いつもの時間に二人でリハビリに向かった。他愛のない話

をしながら病院に行きリハビリをしてアパートに帰った。昨日の事はお互い触れないよう

にしていた。いつものようにみっちゃんは家事をこなしてくれてお茶を飲みながら話をし

帰って行った。その日の夜、サトルが仕事帰りにハジメの部屋に寄って、お客さんにお菓

子貰ったと言って二人で食べた。サトルはハジメの体調が順調に良くなっているのをを聞

いて喜んでいた。みっちゃんとハジメの実家に帰るのを言わない訳にもいかないと思い、


成り行きを話した。サトルはそれを聞いて以外にも「良かったじゃん。俺心配してたんだ

ぞ。」と言われた。聞けばサトルはハジメが事故に遭う少し前にみっちゃんに告白してフ

ラれていたそうだ。ハジメの遠慮はそもそも取り越し苦労だった。サトルは「そんな事考

えていたのかハジメ、何か悪かったな」といってお菓子を食べた。ハジメは何故かスッキ

リしないでいた。これ以上聞いてサトルが傷つくのも嫌なので、仕事の話をした。リフォ

ーム工事の方は相変わらず斉藤さんと五十嵐さんで頑張っているが、サトルは新築マンシ

ョンの方から店舗工事の方に移ったという事だった。あれだけ嫌がっていた店舗工事だが

社長が現場を管理するようになってすっかり変わったそうだ。工期にも余裕が出て、各職

方が現場でバッティングすることも無くなったそうだ。結局今まで現場を見る事をしなか

った設計事務所が悪かったという事だ。現場管理をしている社長の力が一番大きいのだが

、そのおかげでサトルもストレスなく仕事をしていて結果的に現場が丸く収まり、結果い

い仕事が出来て施主からの評判も上がり、設計事務所側の評判も上がって、ハジメがやっ

ていた時の現場とはまるで違う様子らしい。だからサトルもこの時間に帰ってきているの

だが。

新築マンションの方は、たまに社長が見に行く程度で殆ど外注さんにお任せしている様だ

った。サトルはハジメに忘年会の日時を伝えると2階に上がって行った。

次の日ハジメは一人でリハビリに向かった。

今日はみっちゃんが一緒に行けないのを聞いていたのでハジメはみっちゃんにクリスマ

スプレゼントを買いに行こうと決めていた。

いつものように病院でリハビリを済ませてから商店街の中を見て回った。何のあてもなく

見ていると、温かそうなマフラーを見つけた。

雪だるまの絵が描いてある薄い茶色のマフラーだった。母にも違う柄のマフラーを選んで

一つはラッピングしてもらい、一つは郵送してもらった。ラッピングしてもらった方のマ

フラーを紙袋に入れてもらってアパートに帰った。部屋に帰るとみっちゃんに見つからな

い様にしまった。

その日はずっとうきうきしていた。

次の日はクリスマスイブで昼間だが会う約束をしていた。その日は夜までずっと勉強が手

につかなかった。夜も中々寝付けなかった。

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