一 人見知り乙女と仕事斡旋④

 図書室で聞こえた声と、バタバタ走り去っていく影。彼らはよく緋菜の家に遊びにくることもあったため、耳にしても驚きもしなかった。

 放っておけば悪さはしない。だが、妖に理解のない者からすれば不気味だろう。

「使用人のこゆきさんも雰囲気が……人間じゃない。このお皿たちも、私がこのお屋敷を訪ねた時からずっとここに置かれたまま……ですよね?」

 口下手な緋菜だが、生じた疑問に対して自分の見解を述べる時だけじようぜつになる癖がある。浮かんだ答えを口にせずにはいられなくなった。

「たぶん、このお皿自体が妖で、こっ、ここに置かれていることに、意味をいだしているのでは、ないかな……と」

 だから周は気にせずそのままにしておいてほしい、と告げたのだ。

 もしかすると、お皿の妖は自分を使って欲しくてここに並んでいるのかもしれない。そう思うと可愛らしく思えてきた。つるつるとした陶器に触れてみたいと思い、指を伸ばす。すると、くすりと小さく笑う声が聞こえてきた。

「なるほど、これは想定外だった」

 向かい側の席に顔を向けると、周が緩やかに口角を上げている。

「え……あの」

「たとえば、ここに妖が本当にいるとして、貴女は、緋菜は──どう思う」

 なぜ笑われたのか分からない。おどおどする緋菜に対し、骨ばった細い指を顎の下で組み合わせて周は問いかける。

(どう……って)

 深く考えずとも、緋菜の答えは決まっていた。俯いていた顔を上げ、周の瞳を見つめた。

「どうも、思いません。妖も、人も、そっ、そこにいて当たり前では、ないでしょうか」

 考えを恐る恐る伝えきる。周からの反応を待つが、ぴくりと眉を動かしただけでなにも言ってこない。

 かと思えば、表情を変えずに緋菜をじっと見つめてくる。なにを考えているのかまったく分からなかったが、緋菜の発言で周の気分を害しているわけではなさそうだ。

「そこにいて……当たり前……」

「え?」

「ああ……いや。貴女は妖が怖くはないのか?」

 脳裏で思い返すように口を開いた周に、再度問いかけられる。

「怖い? どうして、でしょう? 彼らの行動原理を、り、理解すれば……怖く、ないです」

 生まれた時から緋菜の視界には人ならざるものが映っていた。

 寂しい時に緋菜と遊んでくれたのは彼らだった。

 緋菜という存在を認めてくれたのも、彼らだけだった。いっそ自分が人間でなく、妖であったらどんなによかったかと何度思っただろう。

「それでいうなら……妖よりも、人間の方がよほど恐ろしい……と思います」

 緋菜が目を閉じると、脳裏にぎょろりとした四つの瞳が浮かんだ。緋菜を排斥しようとする凶暴な瞳だ。

 ゆらゆらと黒い手が伸びてくる。それはやがて緋菜の体にまとわりつき、自由を奪っていった。

 ニタニタとした笑い顔。いくら声をあげても、彼らの耳には届かない。緋菜におおい被さるそれらを──本物の化け物だと思った。

「……そうか。よく分かった」

 周は立ち上がると、長テーブル越しに向き合っていた緋菜のもとへと歩み寄ってくる。

 はっと我にかえり、緋菜はぼうぜんと周を見つめた。

 周の月のように静かな瞳を前にすると、不思議なことに少しだけ心が落ち着く気がした。

 この家に住まうものが妖であろうと、緋菜には大差ない。むしろ人間よりも安心できる。婚約者という仕事はいったいなにをするのかもよく理解していないが、適当にやり過ごしつつ、あとは図書室で好きな学術書を読んで過ごしていればいいだろう。

 しかし、そんな願いとは裏腹に、緋菜を取り巻く環境は少しずつ変わってゆく。

「さきほどの問いのことだ」

「は、はい」

 周は、長テーブルの中央に置かれている花瓶から、一本の薔薇ばらを抜き取った。冷ややかな目で花弁を見つめると、緋菜のそばで足をとめる。

 つられて緋菜も立ち上がったが、正直なにを言われるものかと震えてしまった。

「この家に妖がいるのか……それは貴女の見立ての通りであっている」

「……あ」

「あのこゆきは妖で、雪女だ。不自然な物音の正体は、座敷童子たち。あの大皿どももただの皿ではなく、あの場から離れることを好かない妖だ。この屋敷には妖が数多住みつき、俺はそれを容認している」

 答えは分かりきっていた。妖がこの屋敷に住みついていたとして、緋菜にとっては造作もないことだ。

 だが、もう一つだけ──。

「ほかにまだ、俺に聞きたいことがあるのではないか?」

 緋菜よりも頭一つ分ほど差がある背丈。傷みのない黒い短髪がさらりと揺れる。窓辺に浮かぶ月に照らされた素肌と、紅に染まる薔薇が幻想的に映る。

 緋菜はひとときの間、無意識に男に見入ってしまった。

 なんとはかなく、ようえんで、美しい。

「あ、周……さん、は」

 言ったら、どうなるのだろう。

「いいえ、周さん……も、人間ではない方、なのでしょう?」

 周はなにも答えず、ただジッと緋菜を見つめていた。

「妖──。それも、かなり上位の」

 正直、少しほっとしたのかもしれない。

 やはり人間は怖い。すべてが悪人ではないのだと理解をしていても、緋菜は心のどこかでおびえずにはいられない。

 だが、相手が妖だと思うと、恐怖心がほんの少し和らぐ。

「あなたの気は、とても冷たくて、重くて、優しくて……寂しそう」

 瞬きをした、ほんの刹那。開いていた窓から強い風が吹き付ける。カーテンが大きく波打ち、緋菜はとっさに目をつぶった。

「──なるほど」

 再び視界が開けたとき、周が持っていた薔薇が不自然に枯れた。底冷えする重々しい妖気。いろせてしまった花びらが舞うその視界で、金色の月を思わせる瞳が浮かんでいる。

(瞳の、色が……)

 瞬きをした一瞬で、漆黒の色を宿していた周の瞳が金色に変わったのだ。それだけでなく、視界の隅にさらりと降りてくるのは──長い、黒髪。

 光をいっさい通さない黒色短髪は、瞬きの間に腰のあたりまで伸びていた。額からは『人間ではないもの』のあかしである二本の角が生え、鋭くとがった犬歯が見え隠れする。

(鬼……)

 これほどまでに容貌を自在に変化させられる妖は限られている。妖の中でも最上位にある鬼族となるとなおのことてんがいった。

 どうりで人間社会に溶け込めるわけだ。

「おもしろいね」

「おもしろいのう」

「周様が人前で鬼の姿になったぞ」

「われらの声も、聞こえるようだ」

 緋菜が固まっていると、周囲がざわざわとうるさくなる。壁中を駆けずり回ってくすくすと笑っているのは座敷童子たちだ。

「あの職業斡旋人は、一風かわった女性を寄越したらしい」

「……あ、あ、あの」

「妖よりも人間が恐ろしいとは。妙なことを言っていたな」

 鬼の姿となった周は薔薇の枝を片手に、緋菜へ顔を近づける。顎に冷たい指を添えてそのまま上を向かせると、無機質な目で見つめた。

 緋菜はなにがどうなっているのか理解できずに、ただはくはくと口を開いて硬直した。

「本当に人間より恐ろしくないと言えるか? 俺が理性を欠落させた悪い鬼だったらどうする?」

「わ、悪い鬼……なん、ですか?」

「さあ、どうだか。貴女の場合、少しは警戒を覚えるべきだ」

 ちらとのぞく犬歯にどきりとする。周は本気で緋菜をどうこうするつもりはないのだろうが、鬼の妖気の重さはすさまじいため萎縮してしまう。

「わ、私を食べても、お、おいしくないと……思い、ますが」

「貴女からはがするからな。それは、食ってみなければ分からない」

「……ひ、ひい!」

 慌てふためいていると、周はくすりと失笑した。

「色気はないようだが……確かに聡いようだ。おまけに、妖をみる見識の才もある」

「えっ……と」

「人間かそうでないものかを見分けられるその目……かえって都合がいいかもしれないな」

 するりと顎の輪郭を指の腹で撫でられる。

 目の前の男は冷たく、そして妖艶に口角を上げた。

「人も、妖も、そこにいて当たり前……か」

 周がぽつりとひとりごち、そして、緋菜へ興味深そうなまなしを向ける。

「緋菜のような女性ははじめてだ。今までで一番……悪くない」

 妖の中でも上位の鬼族がなぜ屋敷で一人、暮らしているのか。

 なぜ、そうまでして婚約者を必要としているのか。

 疑問はつきなかったが、なにかのっぴきならない事情があるのだろうと察してしまい、緋菜は逆に聞くのが恐ろしくなった。

 周は緋菜の顎から指を離すと、緋菜の長い髪に指を滑らせてそっと口づけをする。

「はっ……えっ! 今、ななな、なにを!」

「せっかくだ、少し味見をしておくのも悪くはないかもしれないと思ってな」

「そ、それだけは、ご、ごごご、ご勘弁いただきたく……!」

「……冗談だ」

 かたかたと震える緋菜を見て、周は軽く笑みを浮かべたのだった。

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人見知り乙女と鬼の婚約者 期間限定婚約のはずが、永遠の愛を誓われました!? 一ノ瀬亜子/角川ビーンズ文庫 @beans

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