リメイク:薄明の彼方

Naml

屋上の先客

佐伯航は、毎日押し寄せる“意味のない繰り返し”に、心をすり減らしていた。

終わりの見えない業務、定型文のような報告書の山。

数字と言葉だけが並ぶ世界のなかで、彼自身が薄く擦り切れていくのを感じていた。


気づけば、「生きる理由」など思い出せなくなっていた。

朝、目を開ける。昨日と寸分違わぬ風景がそこにある。

同じ電車、同じデスク、同じ呼吸。

すべてが、永遠に続く牢獄のようだった。


ある夕方、行き場のない心を抱えたまま、ふらりとビルの屋上へと向かった。

十三階。誰も近づかないその扉の向こうだけが、唯一、世界から切り離された場所だった。


屋上の扉を開けると、肌を刺すような冷たい風が頬を撫でた。

遠くの街が夕焼けに滲みながら、ざわざわとノイズのような喧騒を立てている。

灰色の空は、朱に染まりかけていた。


その片隅に、ひとりの女性がいた。


白石芽依。

職場では明るく振る舞う彼女だったが、その笑顔の奥には、何か深くひび割れたものが潜んでいるように見えた。

光の下では気づけなかったその“影”が、屋上の薄闇のなかで輪郭を得ていた。


二人はほとんど言葉を交わさなかった。

ただ、風の音と遠くの街のざわめきを聞きながら、同じ空気を吸っていた。


芽依は、遠くを見つめるようにしてぽつりと呟いた。


「ここって……最後に来る場所、なのかもしれませんね」


佐伯は、その言葉の重みを咀嚼するように黙った。

何かを否定するでも肯定するでもなく、ただ黙って、彼女の声が染み込むのを待った。


芽依はゆっくりと立ち上がり、鉄柵の方へと歩き出した。

彼女の背中が、まるで空へ吸い込まれていくように見えた。

風が吹き、彼女の髪が宙に踊る。

夕焼けのなかで、その姿は、現実よりも夢に近かった。


佐伯は、目を閉じて深く息を吸い込んだ。

肺の奥まで満ちる冷たい空気が、胸を貫いた。

あの一瞬に、何が起きたのか。

それは、誰にも説明できない。

ただ、彼の胸の奥でだけ、波紋のように静かに広がっていった。


屋上の扉は、風に押されるようにして――静かに閉じられた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

リメイク:薄明の彼方 Naml @kita_

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る